第2話 偶然と必然
「フレイザー君、どうしたのかね。何やら急いでいるようだが」
突然背後から掛けられた声。
それを耳にしたクローネは、胸の中に湧いた苛立ちを一瞬で押さえると、慌てて振り返る。途端、クローネは思わずその体を緊張させた。
「こ、これはブローフェ将軍。それにレンベルク隊長も」
軍の実働部隊を指揮するブローフェと、そして彼女の所属する近衛部隊長レンベルク。このダグラス王国において、まさに軍部の重鎮と呼ばれる二人の姿が、彼女の視線の先に存在した。
「城内では気品を持って常に静粛に。これは君が近衛になる際に指導したことであったと思うが」
「その通りであります。失礼いたしました」
人が良いことで知られるレンベルクに窘められ、クローネは焦りに満ちた声で返事をする。
するとそんな彼女の声から何か感じるものがあったのか、レンベルクは少しばかり表情を緩め、そしてわずかに気遣うような言葉を漏らした。
「まあいい。君が慌てることなど、メア様絡みのことしか無いだろうからな」
「は、はぁ……」
「それでだ、奴はどうだね?」
レンベルクから向けられたその問いかけ。
その対象は一人しかいない。
そう、彼女が嫌うあの男しか。
「その、正直申し上げますとよくわかりません」
「わからない?」
「はい。至って凡庸で、怠惰なだけの男のように思われます。それ故、何故姫様が彼を慕うのか、その理由が皆目わからず……」
僅かな嫉妬心も入り混じりながら、クローネはレンベルクに向かいそう告げる。
メア付きであるクローネに授けられた秘密裏の命令。それはある日突然、メアが宮中に拾ってきた男に対する監視であった。
「既に探りを入れた者の話によると、あの男は外遊にて大陸に向かわれた際に、メア様ご自身が直接拾われたらしいではないか。となれば、ある意味ペットに向ける愛情のようなものなのではないかな」
レンベルクから予め話を聞いていたのか、隣に立っていたブローフェ将軍は自らの見解を口にする。
それを受けてレンベルクも、顎をさすりながら小さく頷いた。
「それは確かに否定できん。しかしあの手の男は気をつけるべきだ。何らかの諜報員や、王家の資産目当ての可能性は決して低くない。本来の任務外のことを頼んですまないが、継続して監視を頼むよ」
「心得ました」
近衛隊長直々の言葉に、クローネは身を震わせると、指先まで気を使った敬礼を行う。
その立ち姿を目にして、レンベルクは満足すると、大きく一つ頷いた。
「うむ、では結構。呼び止めてすまなかったね」
それだけを口にして、軍の両巨頭はそのまま立ち去っていく。それを直立不動のまま見送ったクローネは、突然その肩をトンと叩かれた。
「将軍たちと、何のお話だったのですか?」
まるで氷塊が鼓膜に突き刺さったかのように、冷気を感じさせる声。
それを耳にしたクローネは、内心で驚愕を覚えながら、ゆっくりとその人物に向き直った。
「……これはミリナどの。いえ、城内での立ち振る舞いを改めてご指導頂いただけです」
いかにメイド長であろうと、機密は口にしない。その程度の当たり前のことは、脳筋などと称されることもあるクローネでも十分にわきまえていた。
一方、そんな彼女を冷たく見つめながら、ミリナは納得したかのように一度頷く。
「もし希望されるのでしたら、うちの子達とともに礼節の指導を行いますが」
「い、いえ、結構です。私はあくまで武人ですので」
ミリナのメイド訓練は非常に厳しい事で定評がある。だからこそ小さな島国国家でありながらも、宮中のメイドの質は他国と比べ決して見劣りするものではなかった。
言い換えれば、剣に身を捧げるクローネでは、とてもではないがついていくことができぬと本人なりに確信を抱いている。
「そうですか。ならば仕方ありませんね」
「それでその……私に何か御用ですか?」
つい先程、図書室で顔を合わせたばかりである。目の前の完璧なるメイドであれば、普段ならば用件があればその際に済ましているはずだという思いがクローネにはあった。だからこそ王女への儀礼講義で忙しいはずのメイド長が、ただの一近衛に改めて声をかけてきたのかが、彼女にはわからなかった。
そんなクローネの困惑と疑問に対する回答。
それはミリナの手にしていたものにあった。
「これを貴方にお渡ししようかと思いまして」
「これは?」
手渡された一枚の紙へと視線を落としながら、クローネは思わずそう問いかける。
すると、眼前のメイドは表情一つ変えること無く、淡々と口を開いた。
「スネーフェル山の地図です。きっとお役に立つと思いましたので」
***
「やはりミリナ殿は私の味方であったようだ」
手渡された地図と山頂へ続く道を交互に眺めながら、クローネはそんなことを口にする。
有能で知られるメイド長が用意してくれたものは地図だけではなかった。現在背負っている袋には、遠出に必要なだけの水と食料が入れられており、あの短時間での完璧な準備と手配にクローネは感謝の言葉もなかった。
「確かに強行軍でもたどり着けはしただろうが、スネーフェル山の頂上に着く頃は夜。ミリナ殿が危惧されたように、準備無しではロフタン草の採取は不可能だっただろう。いやはや、流石というべきだろうな」
ミリナより渡された地図には、夜を過ごすための休息小屋の場所までもが記されており、彼女の几帳面な性格がそこからもはっきりと見て取れた。
改めてクローネは思う。この国に仕えて、たった七年でメイド長になる人物は、やはり違うと。
もちろんミリナに関する多くの噂は、当然ながら以前より彼女も耳にしている。
曰く、官僚より優れた知識を持つ才色兼備のメイド長。
曰く、配下を完全に掌握し尽くす鬼監督のメイド長。
曰く、大臣さえも袖にする鋼鉄貞操のメイド長。
曰く、危機の備えとして優れた武技を隠す最強のメイド長。
クローネとしては、特に最後の噂には強く心惹かれるものがあった。しかしながら残念なことに、未だに彼女との手合わせが叶っていない。
メイドの武技は主人を守る最後の盾であり、公然とひけらかすものではない。
それがミリナによる彼女への返答であった。
いずれにせよこの国にやってきてたった七年で、メイドとして宮中を掌握したその手腕は、畑違いではあるもののクローネとしても尊敬の念を覚えずにはいられなかった。
そしてそんな彼女が自らの突発的な行動に対し、最大限に骨を折ってくれたという事実。それは彼女のわずかな後ろめたさを覆い隠すものともなっていた。
実に許しがたいことではあるが、メアがあの出処のわからぬ司書に対し、拾ってきた使用人という以上の感情を抱いていることはクローネも薄々察している。そして実際にそのことは、上官であるレンベルクたちにも報告をしていた。
しかしその告げ口のような行為、そして彼への反発故に至った現在のこの状況は、決して主であるメアの望まぬものだという後ろめたさが存在する。
だがクローネとしても、近衛として譲れぬ矜持があった。
そしてだからこそ、ミリナが間接的に支援してくれた事実は、自身の中で自らの行為を正当化する一助となっていた。
「む、あれが地図にある休息小屋か」
もやもやとした内心と向き合いながら真っ直ぐ歩き続けてきたクローネは、薄暗くなり始めた登山道の先に、明かりのついた小さな小屋が立ち並んでいる光景をその目にする。
「考えていたより新しい小屋だ。頂上は規制しているにせよ、思ったよりもスネーフェル山には登山客が──」
「火事だ! 外から火を放たれたぞ!」
ゆっくりと建物に近寄っていたクローネは、突然黒煙が上がるとともに、無数の男たちが小屋の外へと飛び出してくる光景を目にした。
たちまちに炎に包まれて行く休息小屋群。
あまりに突然の出来事に、クローネとしても軽く戸惑いを覚えた。
しかし彼女がそんな感情を抱くだけでいられたのは、まさにこの時までであった。
「外に何者かがいるぞ!」
「クローネだ、こいつクローネ・フレイザーだぞ!」
外に飛び出してきた男たちは、眼前に立ち尽くすクローネを見つけるなり、警戒の声を上げる。そんな彼らの手には、しっかりと光り物が握られていた。
「……お前たちは誰だ。ここで何をしていた?」
近衛というよりも、治安部隊の人間が口にするような問いかけをクローネは発する。
しかしながら、彼女に対しまともな回答が返ってくることはなかった。
「近衛の誰かが情報を漏らしたか。ちっ、王家にも嗅ぎつけられているかもしれんな。何れにせよ、まずはこいつを殺せ!」
無数の武装した男たちの殺意は、一瞬でクローネへ向けられる。
正直に言えば、クローネは全く状況を理解できていなかった。しかしながら戦士としての彼女の本能が、成すべきことを判断する。
「わけがわからんが、相手をしたいというなら叶えよう。ただし対価はその生命を持って払わせるがな」
悪意ある火の粉は己が剣にて振り払う。それが剣に全てを捧げる決意をした彼女の信念であった。
そのことを胸の内で確認したクローネは、迫り来る男の斧をサイドステップ一つで躱し、その横をすり抜けると同時に手にした剣を一閃させる。
生み出されるは二つに分かれた頭と胴。
「き、気をつけろ。やはりクローネ・フレイザーは只者ではないぞ!」
一瞬で仲間の一人が崩れ落ち、動揺を覚えた男の一人が慌ててそう叫ぶ。そして同時に、彼らは一層の警戒心を露わにした。
「如何に剣聖の後継者と言えども、囲んじまえばやりようがある! ここで絶対にこの火つけ女を殺すんだ!」
「自分たちの火の不始末を、勝手に私のせいにするのは不当だ」
武装した男たちに取り囲まれたクローネは、ぐるりと周囲を見回しながらそう呟く。
そして次の瞬間、男たちは一斉に彼女に躍り掛かった。
きらめく無数の刃。
それが彼らの中央のたった一点へと向けられる。
男たちの誰もが、突き出した刃の先に血を流す女性の姿を夢想した。
しかし……そこには何も存在しなかった。
生み出されたものは、各々の刃がぶつかった金属音のみ。
「奴がいないぞ!?」
「う、上だ!」
その声が発せられた時、すでに新たな血が流れていた。
それも一斉に刃を向けられたはずの女からではなく、運悪く彼女の眼前に陣取った男の体から。
「どうせ手を合わせるなら、この程度の動きにはついて来てもらいたいものだ。だが弱いなりに統率が取れている……か。やはりただの野盗ではなさそうだ。貴様達、何者だ?」
前のめりに沈み込んでいく槍を手にした男。
剣についたその男の血液を軽く振り払い、クローネは眉間にしわを寄せながらそう呟く。
それに対する返答は、腰が引け気味となった髭面の男の口から発せられた。
「貴様の質問に答える義理はない!」
「……まさかとは思うが、貴様たちは司書の手のものか?」
「司書? なんだそれは?」
場に似つかわしくない単語を向けられた髭面の男は、困惑を見せながらそう口にする。
クローネはその男の反応を目にして、忌ま忌ましげに勝手な感想を吐き捨てた。
「ふん、あの男にそんな大それたことができるはずもないか。もとより、これだけの人間を集める人望があるはずもない。しかしそんなあいつをなぜメア様は……」
もはや眼前に立ち尽くす男たちなど目に入らぬのか、クローネはブツブツと独り言を口にし始める。
それは普通ならば決してありえることではなかった。
武装した圧倒的多数の男を前に、警戒すらせず考え事をするなどという馬鹿げた行為は。
だが同時に、見方を変えればこの状況は当たり前のこととさえ言うこともできた。
なぜならば男たちと対峙しているのが、剣聖の後継者とされるクローネ・フレイザーであるのだから。
「くそ、あいつらの敵だ。こいつを──」
「人が考え事をしているのに邪魔をするな」
あまりに勝手な言い分。
だがそれを押し通すだけの力をクローネは有していた。
長槍を片手にクローネに向かっていった男は、一瞬で頭と胴を離される。
頸動脈より激しく吹き出す血液。
それが周囲の大地を紅く染めた。
「よくもディランを……絶対に許さん!」
髭面の男による、強い決意表明。
それに背を押されるようにして、わずかに引け腰だった他の男たちも決死の覚悟でクローネへと駆け出した。
先程までとは異なり、全く統制が取れずバラバラに向けられる刃。
それは逆にクローネにとって、回避と反撃に手間を必要とするものであった。もっとも手間以外の何ものでもなかったが。
「厄日だ、全くの厄日だ。あの男に関わるようになってから、ろくなことがない!」
愚痴をこぼしながら、クローネは一つの斬撃を回避しては斬撃を返し、そして一つの刺突を回避しては刺突を返す。
気がつけば瞬く間に男たちの数は減り、地面の上で満足に立っているものはクローネを含めたった二人だけとなっていた。
「おや、もうあと一人だけか」
そう口にしながら、クローネは僅かな違和感を覚えていた。
彼女としては一人たりとも逃した覚えはない。
しかし数こそ数えなかったものの、小屋から飛び出してきた男の数はもう少しばかり多かったように思えたためである。
だがそんな彼女の違和感は、眼前に残った髭面の男の声により霧散してしまった。
「よくもあいつらを……だがいい気になるのも今の内だ」
「この状況でよくもそんなことが言えるな。まあいい。生きている者を残したのは、色々と吐いてもらうためだ。おとなしく武器を捨てろ、三秒以内にな」
「ふん、貴様の好きにはさせぬ。私はここに努めを果たしますぞ、宰相閣下」
そう口にした瞬間、男は自らの胸に己が刃を突き立てる。
「なんだと!?」
さすがのクローネも、予期せぬその行動を静止することは叶わなかった。
そうして最後の生存者が崩れ落ち、未だ燃え続けている小屋の炎の音だけがクローネの鼓膜を震わせる。
彼女は混乱と困惑を抱いていた。
彼らが何者だったのか、そして何故彼女は襲われたのか、そして何より彼らは何をなそうとしていたのか。
既にその全ては闇の中へと葬り去られてしまった。
ただ一つだけ気になる言葉があった。
「宰相閣下……と言っていたな。それはどういう意味だ」
あのような者たちを、温厚で知られるクロノス王国のリマニル宰相が使役されることはないと彼女は確信していた。だからこそ、彼らが向けていた忠誠の対象が誰であるのかには一考の余地が存在した。
「ん、これはなんだ?」
不意に彼女が目にしたのは、男が首に付けていた蛇をモチーフとしたペンダントであった。
いや、もちろんそれだけであれば彼の趣味であったかもしれない。
だが彼女は先程の戦闘に際して、男たちのいずれもが蛇のペンダントを付けていたことを思い出す。
「組織かなにかの目印なのか? 何れにせよ、報告する必要があるな。ひとまず軍に連絡を取らなければ」
クローネはボソリとそう口にすると、男の首からペンダントを引きちぎり、そしてそのまま駆け出す。
向かう先は王都マンクス。
マンクスで彼女を待ち受けていたのは、まったく予期せぬものであった。
そう、彼女に対する多大なる賞賛と、そして異例とも言える昇進の辞令である。
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