第一章

第1話 働かぬ司書

 アルビオン大陸とヒベルニア大陸に挟まれるゲール海の中央、そこには一つの島国が存在する。


 国の名はダグラス王国。

 僅か数万ほどの人口しか持たぬ国であり、武力もそして財力も微々たるものしか持たぬ小国であったが、僅かな時期を除き独立を保ち続けてきた歴史を持つ。


 もちろんそれは地の利によるところが大きくはあったが、それ以上に国の大多数の者たちが国と王家を愛し続けてきたからに他ならない。

 そして彼の国の王家には、現在たった一人しか後継者たり得る人物は存在しなかった。


 メア・ダグラス。

 女児ではあるが現国王であるヨアヒム二世の唯一の実子であり、その聡明さから将来が嘱望される第一王女。


 しかし近頃の彼女には些か困った趣味が存在した。

 そう、いつの間にかふらりとその身を隠し、とある場所へ通うという悪癖とも言うべき一つの趣味が。


「居候! 貴様、姫様をどこへ隠した!」

 王宮内の壁という壁を震わせるような怒声。

 それはその声に似つかわしくない艶やかな長い金髪の美女の口から発せられていた。


 クローネ・フレイザー。

 軍の近衛部隊において唯一の女騎士にして王女の側近とされる彼女は、肩を震わせながら王宮図書館の中にいる一人の人物を睨みつける。


 だがそんな彼女に向かい、返される反応は皆無だった。

 ほとんど利用者のいない書物はホコリを被ったまま整然と並び、机の上に並べられた盤上遊戯の駒は微動だにせず、そしてこの部屋の司書である青年は背もたれに体を預けたまま両の瞳を閉じていた。


「おい、聞いているのか。居候!」

「え……もしかして、私に向かって言っているのかい?」

 安楽椅子にもたれたままの司書は、歩み寄ってきたクローネの二度目の呼びかけを受け、心底意外そうな表情を浮かべる。

 すると、そんな彼の反応が更にクローネの機嫌を悪化させ、彼女は青年に掴みかからんばかりの勢いで詰め寄った。


「お前以外にこんなことを言う相手がいるか! 早く姫様を返せ!」

「返せって……そんな物みたいに言うのはどうだろう。フェミニストの私としてはとても看過できないな。もっとも私は部外者だから、この国は王女様のことをそう扱う文化なのかもしれないけど」

 戸惑った表情を浮かべながら、司書の青年はクローネに向かいそう返す。

 途端に、クローネの眉は激しく吊り上がった。


「そんな文化があるわけないだろう。ふざけるのも大概にしろ!」

「いや、案外馬鹿にならないものだよ、文化の違いというのは。例えば、この国に来る前に居た場所では、ケーヒル獣の肉を食べると三日三晩磔にされ、私は不浄ですと叫び続けないとダメという風習があってね」

「よくわからん獣の話や、貴様がこれまでどこに居たかなどどうでもいい。もちろんそこの風習もだ。それよりも素直に出すべきものを出せ」

 軽い口調で話し続ける司書に向かい、クローネは命令口調でそう迫る。

 一方、司書はわざとらしく首を傾げながら言葉を返した。


「残念ながら、ケーヒル獣はここに持ち込めなくてね。禁止された食材というのはやはり美味しいのだけど、どうにも監視の目が──」

「あまりふざけるなよ、居候」

 その言葉を聞くと同時に、司書は自らの頬を何かが撫でたことに気づく。同時に走る小さく鋭い痛みと、赤い血液の筋。

 そしてそのまま、彼の喉には冷たい鋼の刃が当てられた。


「はは、冗談がきついなあ。私は痛いのは嫌いなんだけど」

「もう一度だけ問う。姫様をどこに隠した?」

 言葉と同時に発せられた殺気は、美女が本気であることを如実に示していた。


 そうして図書室に満ちる殺意と緊張。

 だがそれは、若い少女の悲しげな叫び声によって突然霧散した。


「ああ、もう手がないです。こんなの卑怯です!」

「メア様!?」

 思わぬ声を耳にしてクローネは驚きの声を上げた。そして青年を解放すると、彼女は声のした本棚の裏を覗き込む。

 するとそこには真剣な面持ちのまま、卓上ゲームを前にして唸り声を上げる探し人の姿があった。


「ええい、引いてダメなら押すまでです。決めました、残った戦車を二つ前に進めます!」

「なるほど。では私は控えていた馬でその戦車をとりますのでその先は動けない王だけですね……詰み」

 本棚越しに離れた場所から、盤面を見ること無く司書はそう告げる。

 途端、再び可愛らしい悲鳴が図書室内に響き渡った。


「ああ……やられた。また負けました……」

「メ、メア様!? 一体、何をなさっていらっしゃるんですか?」

 探し人に駆け寄ったクローネは、困惑しながら彼女の主に向かってそう尋ねる。

 すると、椅子から立ち上がり司書席へと歩み寄ってきた王女は、不機嫌そうにその問いかけに応じた。


「何をと言われても、シャトランジです。今日こそセナさんに勝てると思ったのに!」

「ふふ、そのセリフは昨日も聞きましたよ。まあ周りの声が聞こえなくなるくらい集中していたのは、実に結構なことです。遊ばれているゲームもきっと本望でしょう」

 セナと呼ばれた青年は薄い笑みを浮かべながら、王女であるメアへとそう答える。

 一方、困惑しながらそのやりとりを耳にしたクローネは、二人の顔を見比べながら強く抗議の声を上げた。


「姫様! 今は私との護身訓練のお時間のはずです。にも拘らず、なぜよりにもよってこの居候と、こんなくだらないゲームをされているのですか!」

「近衛のお嬢さん、このゲームは全然くだらなくはないよ。シャトランジはこう見えて、東方から伝わった歴史ある盤上遊戯で──」

「だまれ!」

 茶化すかのようなセナの声は、クローネによってあっさりと一刀両断される。

 そんな彼女の剣幕に肩をすくめると、セナは改めてその口を開いた。


「ともかく、少しくらいの息抜きも大事じゃないかな。あまり根を詰めて仕事をしてもミスは増えるものだし、場合によっては護衛対象に逃げられたりもする。違うかな?」

「貴様! やはりこの私に喧嘩を──」

「メアさま、儀礼講義のお時間です。もうすぐ先生が来られますので、どうかお部屋へとお戻り下さい」

 クローネの言葉を遮る形で部屋の中へと響いたその声は、開け放たれたままの部屋の入り口より発せられたものだった。


 一同の視線は一瞬で声の主へと向けられる。

 するとそこには、冷たささえ感じるほどに整った顔立ちをしたメイドが、まるで空間に溶け込むかのように自然な姿で佇んでいた。


「ああ……もうそんな時間ですか。仕方ありませんね」

 彼女の姿をその目にしたメアは、一つ溜め息を吐き出すと、重い足取りで歩み出す。

 一方、思いもかけぬことを告げてきたメイドに対し、クローネは慌てて抗議を口にした。


「ま、待って下さいミリナどの。まだ私の護身訓練が終わっていません」

「終わっていないというか、始まってさえいなかった気がするけどね」

 直ぐ側から発せられた茶々を入れる声。

 それを耳にしたクローネは、すぐにセナを睨みつける。


 だがそんな彼女に向かい、ミリナと呼ばれたメイドが淡々とした口調で一つの事実を告げた。


「一つの講義が押せば、その後のスケジュール全てに支障をきたします。典礼侍従だけではなく、あとに控える大臣や陛下との予定調整を貴方がしてくださるなら構いませんが」

「え……いや……それはその……」

 告げられた面々の肩書きを受け、流石にクローネは二の足を踏む。

 その間にも、メアは彼女の側を通り過ぎ、そして部屋の入り口から丁寧に一礼してみせた。


「我が師よ、次は負けません。首を洗って待っていて下さい」

「ええ、もちろんです。ただしその前に例の約束を果たして頂いてからですが」

「約束? 姫さま、この者と何を約束されたのですが?」

 二人の会話を耳にして、嫌な予感を覚えたクローネはそんな問いかけを行う。

 するとメアは、軽く微笑みながら約束の内容をその口にした。


「ちょっとしたピクニックの約束です。シャトランジで十連敗したら、彼とスネーフェル山登山に行くことになっていましたので」

「な、なんですと! いけません、姫さま。こんな何処の馬の骨かわからない男と、外歩きなどもってのほかです」

「と言われても、君たち近衛が管理しているスネーフェル山の頂上にしか、霊薬であるロフタン草は咲かなくてね。まあだから一般人の立ち入りを禁止しているんだろうけどさ」

 近衛の管理地であるが故に、王女というカードがなければ立ち入ることができない。セナはそのことを、苦笑交じりに近衛の一員であるクローネに告げる。

 途端、クローネは突発的にセナへの反発を口にした。


「ふん、草が必要ならばその辺の雑草でも使えばいい」

 ロフタン草と言えば、魔法士が魔法を行使する上で喉から手が出るほど欲しい薬草である。実際に大陸においては、魔法士廃絶を国是として掲げていた帝国がその尽くを焼き尽くしたことで知られていた。


 それ故にその価格は高騰し、勝手に大陸へ持ち出そうとする者が絶えぬため、現在は近衛部隊が王家の直轄地扱いで厳重に管理している。だからこそ、王女というカードを使おうとするセナの発想自体は、受け入れはできぬもののクローネとて十分に理解できた。


 しかし幾ら王女と司書の間で何らかの約束が交わされていようとも、彼女は素直に認めることなどできない。

 なぜならば彼女の敬愛するメア王女が、明らかに自分たちに向けるのとは異なる微笑みを、眼前の胡散臭い司書へ向けているからだ。


「ロフタン草は魔法士の魔力を増幅する効果があります。この辺りの野草ではとても代用など不可能かと」

 突然部屋の入り口から発せられた怜悧な声。

 それは厳格で知られる若きメイド長の口から発せられたものだった。


 それ故、クローネは一瞬言葉を失う。だが小さく頭を振ると、彼女は再び強い口調で一つの提案を切り出した。


「ならば……ならばだ、近衛であるこの私が取ってきてやる。だから貴様は大人しくここで本の管理でもしていろ!」

「まあ別に取ってきてくださるならそれでも構いませんが、それでは罰ゲームとして些か……」

「主人の罰ゲームをこの私が代わって何の問題があるというのだ。ともかく、早速向かってやる。私の目がない間、指一本メアさまに触れるなよ」

 それだけを言い終えると、クローネはズンズンと歩き出し、ミリナの脇を抜けて部屋から出て行ってしまう。

 ややあっけにとられる形でそれを見送ったメアは、ポツリと呟いた。


「……行っちゃいましたね」

「参ったな。今回の件はメア王女を餌に、近衛を十分に動員して、余裕を持って対処したかったのだけど」

「大丈夫ですよ。彼女でしたら」

 頭を軽く抱えながら溜め息を吐き出したセナに向かい、ほんのわずかだけ温かみの込められた声がメイドの口から発せられる。

 その言葉に意外そうな表情を浮かべたのは、当然ながらその言葉をかけられた当人であった。


「おや、意外だね。君がそこまで彼女を評価しているとは」

「そうでしょうか? 英雄としての力を持ちながら、英雄となり得なかった剣聖クライス・フレイザー。確かに部下として欲しいタイプではありませんが、その娘にして後継者である彼女は、評価に際し十分以上の能力は有しているかと」

 彼女の父親のことを引き合いに出し、ミリナは率直な感想をその口にする。

 すると、ミリナに続く形で、メアは意味あり気な視線をセナへと向けた。


「クライス……か。いずれにせよ、あの子はちょっと不器用なだけで、我が国では稀有な人材。だからこそ、彼女を選ばれたのですよね」

「まあそれは否定しないけど……いや、まあいいか。ミリナ、使える武装メイドで彼女のバックアップを」

 それは一介の司書がメイド長に向ける言葉ではなく、まるで部下に向かって告げるかのような口調で発せられたものであった。

 にも拘わらず、メイドは彼に向かって一礼すると、その指示に基づいた提案を返す。


「現在動かせるのはこの国で育てた者のみ。ですので、未だ実力には少しばかり難がありますが、構いませんか?」

「構わない。あくまでバックアップだ。ただくれぐれも彼女に気取られることだけは避けてくれると助かる。まだその時ではないからね」

「うちの子はそんなヘマは致しません。では、お先に失礼いたします。彼女の行動に楔を刺しておく必要がありますので」

 セナに向かい表情一つ変えず抗弁すると、そのまま彼女は足早に部屋の入り口から立ち去っていく。

 そうして部屋に残されたのは王女とこの部屋の主だけとなった。


「……お師さまはかなり過保護なんですね」

 ボソリとこぼされた言葉。

 それは頬を膨らませた王女の口から発せられたものだった。


「過保護って……ともかく、七年かけてようやく準備が整ったんだ。こんなところで台無しにしたくはない」

「本当ですか? くれぐれも言っておきますが、体の浮気は許せても、心の浮気はダメです。絶対にダメですからね!」

 人差し指を立てながらメアはそれだけを告げると、そのまま約束の儀礼講義へ向かうために部屋から出て行く。

 そうして図書室に一人残されたセナは、改めて安楽椅子にもたれ掛かると、深い溜め息を吐き出した。


「意図的に反骨心を植えつけてきたのが裏目に出たかな。しかし心の浮気とは……まいったな、本当に」

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