last film


 死体に腰かけながら、僕は作業を終えてフウと一息つく。今回は大変だったが、それほど魅力的ではなかった。

 映画や演劇。多くの場合は脚本それ自体の完成度が大きく作品の完成度という枠組みにアタリ――いわば業界人にとっての目星のようなものがつけられるわけだが、しかしそれを飛躍的に視覚的聴覚的精神的作用を駆使して優れた作品とするためにはやはり、俳優や舞台装置、それにカメラの撮り方やロケーションなど多くの演出が必要不可欠だ。


 その点では、きっと僕は優れた俳優ではあったと思う。

 人はよく同じ日常を繰り返しているとか、退屈な日々はもううんざり、ブラック企業に就職してしまったばかりに上司職場に虐げられ毎日泣き寝入りばかりだとか……なぜだかそういった悲劇を喜んで閲覧し、糾弾し、自ら実践したりもする。インターネットから焼き増し輸入ばかりのテレビやSNSの小人の囁きを人目を惹くからと大きく取り上げる商業ブログなんかも成熟してきたので、特に記事やツイッター、インスタグラムの投稿を日々目にする人々にとっては当たり前のような……それでいて義信暗鬼様々に抱いて手に汗握る心踊るような物語を生死を賭した脱出ショーよろしく多くの人の目を奪っていく……。


 悲劇には不思議な作用がある。


 見る者には同情という妄想的な同調作用を。悲劇の主人公は自らを慰め憐れみ、魔法使いに出会わないシンデレラのような脚色と妄想で演出した陶酔という名の自己昇華に酔いしれる。

 僕はこの陶酔が好きで好きで……考えただけでも、たまらなかった。


 ああ、なんてかわいそうなんだろう。


 学歴コンプレックスと学級崩壊の、廃墟の落書きじみた相対評価に染まり切っている家族には嫌われて家を追い出され、職場では自分の成果を常に横取りされながら上司を筆頭にガキ大将よろしく物置だかトイレだかに連れ込まれては日々、生意気だの可愛い気のある態度をとってみろだの、土下座しろだのと言われるがままに服従を強いられ、いつもいつも僕がおごり、さらには先輩を敬う儀式ということで小遣いが必要だと財布の金を抜かれていく。


 しかしそこから逃げ出そうとは思わない。

 ある部類の人がそうであるように、僕が心身をひどく病みとこに伏そうとも、世をうれいて自決を図ろうとも、過労により社内で突然死をげようとも……特にそれを悲しみ、悼み、もしくは何かを自分に強く想ってくれる人はいないとよく知っている。またはそう信じている。


 僕が出会う人は、僕の尺度によればことごとくが狂人だった。


 職場の上司は気弱だったり、弱みがあったり、仕事が平凡それ以下、特に気に入らない者を見つけては人前で気持ちヨく怒鳴り散らし、頬を張り飛ばし、胸倉を掴んで壁ドンごっこをしたりする。言葉では役立たず、代わりはいくらでもいる、邪魔、死ねだの気持ちヨく言いたい放題をしている。

 火の粉のかからない周囲の人間にとっては、それはある種のお祭りか大道芸人の目を惹く催し物だ。運が良ければ少し高い店で一緒に無料のごちそうにもありつける。


 家族もまた狂っていた。家事は長男の仕事ということで小さいころから僕に押し付けられていた。殴られなどはしなかったが、自室が外側から鍵を掛けられるように加工されておりよく閉じ込められていた。共働きの両親だったので、学校が終わって家事後に閉じ込められれば朝まで、休日に閉じ込められれば食事を許される瞬間までずっと自室の中だ。外へ出るには窓から二階分の階下かいかまで、さらにコンクリートの上に着地しなければならず、なんとか降りられても見つかれば筆舌し難いさらにひどい目にうのでいつもいつも決死の覚悟と、決死の自己管理だった。

 鍵当番の妹は、僕が家事をしなければならないことを知っているはずなのに基本的にドアを開けてくれないので、あちらは悠々自適に過ごしていたように思うが実際のところはどうかはわからない。極力僕に関わろうとはせず、また両親がいない日なんかは彼氏や友人を連れてきては僕の部屋を強奪してよく泊まっていたので、あまり良い印象は抱いていなかった。しかし高校に入ってすぐにどこかへ一人暮らしだかルームシェアだかを始めたあたり、おそらく両親を恐れていたのは変わらないのだろう。


 狂っているといえば、黒檀の彼女もまた狂人であったように思う。

 自身の手での自殺が恐ろしかったのか、もしくは被殺人願望があったのかは定かではないが、あの夢見がちで死への希望に満ち溢れた仄暗ほのぐらい情熱と妖しく邪悪な微笑は、死に顔と同様どうにも頭を離れない恐ろしい種類の美しさではあった。

 結局のところどうして僕に自殺幇助を依頼したのか、またどういう経緯であのウェイトレスと知り合い、あのような凶行としかいいようのない殺人誘導計画を立てたのかは今となってはもうわからない。

 しかし確かにあの時、僕があのずっしりと重い銃身をしっかりと握って殺人を成せたのは彼女の狂気にあてられたからだというのは疑いようもない事実のように思われた。


 ――どれだけ求めても、焦がれても……結局その本質は変われない。きれいに着飾ったつもりでも、その実、核はどろどろにただれている……。


 そこでふと、僕は足元の死体を見下ろした。

 顔はない。額から頭蓋を割り開いて脳を探ったので、緋色に醜くいろいろのところがえぐれたり濡れたり、手が滑って傷つけたりしてしまったので散々な状態だった。けれど頭のけがは派手に見えるので、洗えばもしかすれば鼻以外のパーツは基本的には残っているのかもしれない。しかしそういった好奇の熱はとうに冷めてしまっている。

 頭上の桜を見上げ、僕は重く、深く、嘆息する。


 ……幻想の中身。


 彼女の胃袋の中から宝石じみた小箱を見つけ出した時のことが思い出される。あの時は本当に不慣れで、素人で、ひどかった。

 汚濁おだくのように傷口からあふれて止まらない血潮ちしお。刃先で探れば探るほどにザクザグ、ガリガリと、肉だか骨だかさえよくわからないままに力任せで中身をめちゃくちゃにしてしまう。余韻よいんや感傷さえ、焦りと探しものという余裕のない目的に追い立てられ何も感じられず、ひたすらに穴を空けたポットパイやチーズインハンバーグのようにぐちゃぐちゃと、風情ふぜいも賞味の余裕もやぶれかぶれな惨状になってしまった。しかし。


 しかし核は違っていた。まばゆい光の中で、その生命の核ともいうべき活力と緋色を秘めたあの供給機関は僕をひどく惹きつけ、気の触れるような臭気を加味してなお魅了する存在感だった。触れた質感も、本当に、本当にかすかにしか感じられない弱々しい脈動も……人間という構造の肉を稼働かどうさせる生命の源泉を改めて意識させる、力強く美しい宝物のようにさえ思えたものだった。


 だからこそ、ことさら僕は残念で。虚無感に駆られていた。

 彼女は完成されていた。僕はそれを、しっかりとこの手と目と鼻と体とで忌まわしいまでに感じ尽くしていたと思い込んでいた。しかしその実、僕は見逃していた。


 頭に二発命中した時の鮮血のきらめきを。胃を探る前に覗いていれば見られたであろう、健気に脈打ち力強い生を刻んでいたはずの心臓を。


 生かしたまま、幻想の中身を探ってみたかった。彼女の黒くただれた中身に触れて、味わいたくて、溶け合いたくて、今はそのくらい欲求にすっかり囚われてしまって頭から離れない。考えただけで、たまらない……。

 頭のソレをフォークで切り出し突き刺して、ぱくりと口に含む。軟膜なんまく、クモ膜、硬膜こうまくの三層ものずいまくによるものなのか独特の食感があり、鉄血の風味に潜むほろ苦い、ほんのりと生臭い灰白質と呼ばれるものなのかは未知の味であるために判然としないが、なぜだかクセになる甘み、あるいは旨味のようなものを感じ取れた。


 ほう、と知らず吐息が漏れる。

 理性か、本能か、貪欲な食欲によるものなのか。壊れた心が頭の思考ごと、底の見えない暗闇に沈んで狂嬉きょうきに染まっていくような得も言われない感覚。もはや忘れることも、できそうになかった。人の記憶は五感のいずれかを通じると強く定着するといわれているが、中でも味覚は強烈に記憶と結びつく感覚。昨日何を食べたのかを忘れても、同じ味を一滴でも舐めればほとんどの人が思い出すほどの神経を通じた重要度の高い記憶だ。


 僕にとっては、味覚こそが唯一最大の娯楽であり快楽の供給源。そう断定しても過言ではない人生を送ってきていると、否応なく、自覚している。それが狂気の沙汰さたに囚われてしまったのであれば、もう自分は抜け出せないだろうことは確信せざるを得なかった。好きな物を前にして拒むことなど、人並みの普通の幸せなど持たない僕にはできるとは思えない。自分を信用しきることができない。

 もう一度。もう一度。もう一度……。


『本当に求めているものは、実際に目の前に差し出されてみないとわからない。うふふ、そう言うでしょう?』


 ウェイトレスの最後の言葉が思い出される。

 忌々しいが、その通りだった。僕の本性は結局の所、底の見えない暗黒の中にこそ落ち着く類のものであり、誰かに手を引かれれば最後、呆気なく禁忌に溺れる人間だということを彼女たちは見抜いていたのだろう。

 そしてきっと、そんな哀れな自分の姿に僕自身が酔いれていくことも……。

 桜の大樹の下、二人の血濡れた警察官を見やり、腰掛けている足元の緋色のウェイトレス――潜入捜査官の皮をかぶった出来上がった狂人を見下ろして、ゆっくりと目を閉じる。

 血風が残り少ない桜の花を散らして、かき混ぜていく静謐せいひつな音は脳裏に脚色と着色を加えた情景を波が静まる水面のようにゆっくりと、その輪郭と共に浮かび上がらせていく。いつかのように。


 オペラ・ルージュ……。


 僕は自身の左手を寄せ、薬指の第二関節に軽く口付ける。気の触れるような、それでいて理性の蒸発を許さない、どろりと濃厚な緋色の口紅ルージュ

 薄桃色の綿わたのように幹に灯る花々はとうに散り散り地に堕ち、かろうじて残留する可憐な花までもをまるで排斥するかのようにみきから小さな枝の端々にまですっかり新緑が芽吹き始めている。

 移ろう合間はいつも、老齢の植物でさえせわしない。


「僕は、まだ未完成か……」


 季節限定のスイーツは、もう終いだ。

 晩春の夜を彩る緋色の結末。

 僕は次の春の訪れを待ち望みはやる心を必死に抑えて立ち上がり、地続きの地獄を。また平然とした顔で、何事もなかったかのように再び歩き始めるのでありました。


「……そういえば」


 ふと、スーツケースを手に数歩歩きだしたところで足を止める。

 脳裏をよぎったのは、彼女の最後の台詞。


 ――私、ひとつ嘘をついたわ。


 背後の大樹にきびすを返す。三つの死体に一瞬目を留め、それからその雄大な天空へと広がる幹と枝葉を見回した。

 今となっては意味もないはずだというのに不安が、ありもしない妄想が。不意に、あるいは唐突に――否、まるで手遅れを待ち伏せていたかのように心にそっと、深く、奈落を広げるように暗い影を落とす。


 ――本当は、すべてに意味はあった……


 意味。意味とは、どういうことなのか。彼女が言う嘘とは、彼女が指した意味とは、いったいどれを示したものだったのか。あるいは、まさか。

 まさか……。

 柔らかな、しっかりとした肉感的体の感触が。体温が。顔をうずめたあの刺激的な甘い香りが、鮮明に思い出される。唇の感触、偽りの言葉の戯れ。相互理解の進まない自殺願望。調子はずれな、かみ合わない会話。


 嘘は、ひとつだけ。

 嘘は――……。


 一陣の、風。ざあ……と、揺れる枝葉と水面のように波打ち舞い上がる薄桃色の

 旋風が眼前で巻き起こる。それは喝采のようであり、文字通りの終焉を飾る花吹雪のようでさえあった。


 僕は、善良を気取りすぎていたのだろうか。それとも、彼女の猟奇的妄想に取り込まれた現実と幻想の境界もつかない盲目的殉教者じゅんきょうしゃだったのだろうか。どこで間違えた。どこで間違えなかった。正解はどこで、不正解はどこだったのか。意味は不要だったのか、無意味は必要だったのか。

 ああ、大変だ。


「……ミルフィーユが、食べたいな……」


 散々な金曜日。緋色の結末。鉄血の後味。

 季節の色が移り変わるように、季節限定も移り変わる。季節限定が移り変われば、見えている景色も人の心も移ろい変わってしまう。変わってしまったものは戻らず、手に入れたものはひとりでに消えてはくれない。手放したくとも、張り付いて、同化して、切り離せないものもある。


 けれど、忘れることはできる。

 多くの理不尽や不満や抑圧に苦しむ人々がそうしてきたように、誤魔化し、紛らわす。僕もまた、そうすることで生きていく。

 桜に今度こそ、背を向けた。


 ……明日もあの喫茶店に行こう。


 悪臭の染み付いたスーツに嘆息する。それは緋色の前から続く、いつものこと。


 作業、食事、作業、食事、作業、食事、作業、食事、作業、食事……。


 そもそも人生とは、大きく分割するとそういうものになるのではないだろうか。期間限定、数量限定、限定、限定、限定。限定ということはつまり、一生味わうことはできない。毎日、毎日。数ヶ月、毎年、生涯。それを見続けることも味わい続けることも楽しみ続けることもできない。つまり、気まぐれな寄り道でしかない。

 春限定スイーツ。定番スイーツ。

 僕は黒檀の刹那よりも、カスタードの安定が好きだ。


 これはとある女がスイーツに惑わされた話。そしてとある男が気まぐれに惹き込まれた話。

 それから――


「……くしゅん」


 春の話だ。

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緋桜のオペラ 飴風タルト @amekaze-tart

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