film2


 僕は頭が一瞬真っ白になりかけながらも、少し間を空けて答えた。


「……ええ、と。それは比喩ひゆ、かな?」

「だとしたらとても遠回しな殺し文句ね。いいえ、あなたに――殺してほしいの」


 する、と彼女のなめらかな指先が僕の手首へ、蛇の如く巻き付くようにして柔らかく包み込む。その手で……と感触は暗に語りかけてくるようで。

 それなのに単純な僕は場違いにどきどきして、恐ろしい誘いに緊張しながらも彼女という存在に少しだけ、やはり興奮を覚えてしまうのだった。

 とはいえさすがに、素敵だと思う女性を殺そうと考える普通の男などいないように。僕もまたキチガイではないので首を横に振った。


「駄目だよ。君が何を考えているのかは僕にはわからないけれど、それだけはできない。でも何か悩んでいるなら相談には、乗れるかもしれないよ」


 下心。罪悪。

 弱る相手につけ込もうとする自分の心根が一瞬垣間見えて、違う、そういうんじゃない。とふしだらな自分を唾棄しながら心の中で言い聞かせる。


「悩んだ末に、あなたに相談を持ちかけているの。だってあなた――」


 こんこん、とノックの音が響く。個室の扉が軋んだうめき声を上げて開き、見覚えのない白エプロンのウェイトレスが入ってきた。


「オペラ・ルージュと苺のミルフィーユです」


 知らない人だ。

 頭にメイドキャップをつけている女性、あるいは高校生くらいにも見える少女は軽く頭を下げると僕たちの前に丁寧に並べた。


「ありがとう」


 彼女は上品に礼を言う。つられるようにして僕もお礼の言葉を言おうとする。


「ありが――あ、すみません。フォークをもう一本いただけますか?」

「フォークですか? かしこまりました」


 扉を出てすぐに戻ってきたウェイトレスは両手でフォークを差し出してくれた。


「すみません、ありがとうございます」

「いえ。ごゆっくりどうぞ」


 ウェイトレスは静かに扉を閉めて去っていく。

 なんと手間の多い……。僕は自分のやりとりが彼女の前だとなおさら無様に思えて、頬が熱くなっていくのを歯噛みしながら感じ取る。

 いつもは、顔なじみのおばあさんだから心配していなかったのに……。

 こうしたいざというときに限って、想定外が紛れ込む。偶然にも新しいアルバイトの子が入ってきていた現実に、僕は自分の不運を呪わずにはいられないのでありました。


「ミルフィーユにフォークを二本も使うの?」


 彼女は小首をかしげて、興味深そうにこちらを見つめている。

 視線が、痛い。

 僕は自分の食べ方がこの上なく幼稚なことをしているように思えて、情けなく肩をすくめた。


「う、うん……食べにくいからね」

「たしかミルフィーユって、食べにくいケーキの代表格だったと思うのだけれど」

「……ここのコレは、好きだから」

「素敵」


 微笑。彼女はなにやら楽しげに微笑んでいる。僕はどう反応して良いものかわからず、ますますうつむいてしまう。

 彼女のケーキを見る。それから自分に届けられたケーキを見る。


 オペラ・ルージュ。

 フランスに代表されるチョコレートケーキ『オペラ』の名を冠するように、表面は艶やかに光を返す黒檀のチョコレートで美しくグラサージュされ、細かな金箔の上に桜の花びらが二枚、散らされている。その真黒な球体を彩る金箔と桜の花びらは、あのきらびやかで和の儚い気配を漂わせる金沢の金箔工芸品のようであり、まるで闇夜のスノードームを眺めているようでさえあった。おそらくその宝玉のような球体の中には濃厚なチョコレートとクリームの層が何層にも交互に繊細に重ねられ、『ルージュ』と呼ぶべき何か……苺ではない、いくらかある緋色のベリーの類……二枚の桜の花びらが暗喩するように何らかの果実とを混ぜ合わせた桜のソースが仕込まれているのだろう。

 この喫茶店の春限定スイーツの一種で、僕も気になってはいたのだがついついミルフィーユを頼んでしまってついに食べそこねている一皿だった。

 対して僕は、いつもどおり。魅力的な女性の前だというのに、背伸びしてさえいない。


 苺のミルフィーユ。

 こちらもフランス発祥の代表的な、というよりは伝統的なケーキ。ミルフィーユというとミルフィーユ・オ・フレーズ――いわゆるナポレオン・パイと呼ばれる苺が三枚のパイ生地の間に挟まっているものが一般的にも思われるが、この店のケーキは安易に果実をねじ込んだりなどはしない。ミルフィーユ・グラッセと呼ばれる類のもので、ここの場合は三枚のパイ生地に挟まれているという点は変わらないが、間には濃厚で、バニラビーンズの甘美な深い味わいを引き立たせた硬めのカスタードクリームが挟まれている。そして一枚目――ケーキの表面は糖衣がけと呼ばれる、糖を溶かして固めた白い膜で覆われ、表面には十二本にも及ぶチョコレートの線が引かれた挙げ句……一本の針で、すーっと長方形を二等分するようにチョコレートの線符を両断して筋を残し、ちょうどラテアートのような民族的模様を想起させる矢印の紋様が描かれている。

 では『苺の』ミルフィーユの“苺”はどこかという話になるが、ソレはちょこんと一つ、繊細な糖衣の屋上の端っこに小さなクランベリーと共に鎮座している。

 まるで名称詐欺のように思われるが、この老舗喫茶の常連たる僕から言わせれば常に苺とカスタード、それに香ばしいパイ生地を思考停止のブッフェの如く同時に食べ続けなければならないほうがどうかしていると思っている。本来デザートはイタリアンのドルチェではない。量ではなく甘美という“密度”を重視するべきであり、求められるのは一皿における味の変化――新たな刺激の体験だというのがこの店の熱心なファンを自負する僕の持論だ。


 とはいえ、僕はやるせない思いに駆られる。

 この二つのケーキの対比は、まるで二人の人間の対比であるように思われたからだった。

 外見と印象が人格の写し絵ということは疑いようもない。

 華やかで、妖艶で、計算高い……目を惹く美しい黒檀の彼女。

 質素で、伝統や物事に固執してばかりの特別に目を惹くことのない僕。

 そこまで想像し自らの退屈さを認識したところでふと、なぜこんなことになったのだろうと。なぜ彼女は僕なんかにおかしな頼み事をしているのだろうと、ますます相手の思惑がわからなくなってきた。


 ――素敵。


 何を考えているのか、どんな思考論理が存在するのか、何が好みなのか。僕には皆目、見当もつきそうになかった。


「いただきましょうか」

「そう、だね」


 グラスを合わせる。食事の合図、乾いた甲高い音。

 実際のところ、ミルフィーユを選んだのは正解だった。難しい物を食べやすく解体する作業は、無駄な思考や自己嫌悪を排斥する。左手のフォークで物体を支えて、右手のフォークで板をサクサクと何度も突き、きれいに、きれいに本体と分離して、ぐちゃぐちゃになる前に左手のフォークで分離体をすくいあげて、口に運ぶ。

 甘い。どろりとした舌触り。酸味のかけらもない、緊張も哀しさもとろけるバニラビーンズの薫りと未だザクザクと香ばしさの残る……脳髄までとろける甘味に潜む、苦味。

 もう一度。もう一度。もう一度……。


 最後に苺とクランベリーを甘味の濁流と共に口に含んだ頃には、もうすっかり、彼女のほうは完食してグラスのスパークリングを飲み終えたところだった。

 もぐもぐと名残惜しくカスタードとバニラビーンズの甘味と、苺のみずみずしい酸味、そして心地よいパイ生地の食感を楽しみながら僕はまた小さく肩をすくめる。


「本当に好きなのね、ミルフィーユ。私も食べたかった」

「…………」


 シェアしたほうが良い場面だったのだろうか……。

 距離感が掴めない。手を伸ばし触れても構わないのか、調教された忠犬のように大人しくしていれば良いのか。いっそ、B級ドラマよろしく唐突に腕を引いて川の見える斜面か丘にでも無理やり連れ出して、薄っぺらな生きる意味だか人生の哲学を熱弁して生きる希望を訴えてみるべきなのか。

 黒檀の髪。真黒な、不純のない瞳。緋色の唇は、他の誰かならばケバケバしく思えるだろうに彼女だとなぜだかただただ、美しく感じられる。そして血潮のように赤い唇から紡がれる言葉はシンプルで、難解で、自己完結している。それでも異様に心を奪われてしまう。奇妙な、不協和を装った和音に五感を取り上げられでもしたかのように。


「オペラに何が入っていたかわかる?」


 突然の変調。


「……クランベリー?」

「さすがね。でも、ひとつ足りない」

「……桜が混ざってる」

「見事だわ。素敵だと思わない?」


 何が。


「清涼感があって、きっと素晴らしく美味しいだろうね」

「私みたいだわ」


 自己完結。話の道行きが、弧を描き始める気配を僕はただただ、追いつけもせずに感じ取る。彼女は目を輝かせ、口元に左手の薬指の第二関節を寄せて微笑みを見せる。悪戯で、邪悪で、妖艶な――


「どれだけ求めても、焦がれても……結局その本質は変われない。きれいに着飾ったつもりでも、その実、核はどろどろにただれている」

「そんなこと――」

「オペラ・ルージュは完成されていたわ。お皿に乗ったスイーツもメインディッシュも、作者にとっては完成した作品。完成したら変われない。私は、完成したの」


 するりと、フォークを手にしたままの左手の甲を彼女の指が、手入れされた長爪がくすぐるように――或るいは何かを誘うように肌を擦りながら滑り、静かに絡んでは包み込んでいく。

 悪寒が走る。ゾクゾク、する。

 心地良くなどない、恐怖に端を発する危険の気配が真白いテーブルクロスの上空にすっかり漂い始めていた。


「い、生きてる存在に完成なんてないよ。高齢になって、いろいろ始める人もいるし……」


 話を逸らしたい。


「『存在』。素敵な言葉だわ、でも生きている意味や存在理由はどうかしら。無様な未完成を選ぶより、完成を選んだほうが良いと思わない?」


 指が絡む。まるで、将来を誓い合うように。確固たる何かを確かめ合うように。抵抗の意思を絡め取るかのように。

 怖い。逃げたい。恐ろしい話の結末にまで絡め取られる前に、脇目も振らずこの部屋を飛び出してしまえたらどんなに良いか。どんなに、楽になれるか。


「駄目だ。駄目だよ、それだけは――」

「全部、手配してあげる。使うのは拳銃。サイレンサーは無しでもいい? そのほうが素敵だと思うの」

「無理だ。駄目だって、僕にはできない。考え直してくれ、お願いだから……」


 嫌でもそのイメージが脳裏を過ぎる。拳銃を向ける自分。彼女は、笑っている。


「場所は……そう、今の時期は桜が華やかかしら。もうじき満開の時期だし、このあたりは夜にはライトアップされる所も多いの。桜の木の下で、頭を何発も撃ち抜かれて、舞いながら倒れ伏す。それはまるで殺陣で斬られるように鮮やかで、光に照り返す鮮血は星のようにまたたいて、みきを赤黒く濡らすのでしょうね……」


 恍惚とした吐息。

 桜の木の下で微笑みながら美しく命を散らし、彼女は銃声に合わせて踊りながら無数の花びらの絨毯に沈む。その姿はとても、幸せそうで――


「そうしたらあなたに報酬を渡すわ。合計一千万。前金として先に二百万。私を撃ったら、ふところを探って秘密のロッカーの鍵を見つけて開けるだけ」


 声に熱が込もっていく。テーブル一つを挟んでいるはずなのに、いやに吐息のひとつひとつが、耳につく。

 鳥かごの中で飼い主に芸を仕込まれているかのような、窓のない部屋で強迫的洗脳を受けているかのような、わけのわからない、いきすぎた酩酊めいていにも似た虚ろな心地……。


「受け取れない。駄目だ、僕も、君も。どちらのためにもならない」


 言葉に力が入らない。僕はいったい、どこまでこの誘いを拒めるだろう。目隠しをするような、常識や倫理観さえ塗りつぶすような彼女の言葉、拒絶さえ容易に呑み込み霧散させる場の空気。二人きりの、猟奇的熱を孕む空間……。


「それはメリットかしら、デメリットかしら。意味は必要? 無意味は不要? いいえ、それは終わったあとの解説文。人を殺めたことは罪でも殺めようとすることはまだ罪と断定しきれない。けれど信じることはできるでしょう?」


 絡み合う五指。生温かい熱が表皮を抜けて交じり合い、均一化を続け、じんわりと伝わるいやに心地よい温度差に鼓動が早まる。

 苦しい。理解できない。理解できない。理解、したくない。


「お互いのためになるということを。それに、ね」


 つかの間の沈黙。

 顔を上げる。すると彼女はいつの間にか左の指先に数枚の紙片を挟んでいた。


「……っ」


 カチャン、と頑なに手にしていたはずの左手のフォークが滑り落ち皿に打ち付けられる。陥落の、合図だった。


「初心者には動機が必要よね。押しに弱そうなんだもの、期待しちゃった」


 それは三枚の写真。社会人一年目を前にして友人と遊びに出かける笑顔の妹と弁当屋で働く母。そして白髪交じりの髪のスーツ姿の父。そのどれもが日常風景で、そのどれもが一切撮影者に気づいた様子がなく、絶望的なまでにありふれた平凡な一枚絵で。


「それは、どういう意味……?」

「私を殺さないと、家族が危ないということ。わかるでしょう?」


 気が付けば左手はすっかり彼女の右手にもてあそばれ、指の付け根まで組み合わさっていた。もう逃げることなどできないと知らしめるように。


「……どうしても、なのか」

「……どうしても、あなたにして欲しい」


「なぜ、僕が……」

「なぜならあなたは退屈だから……」


「意味が分からない」

「意味はなくても構わない」


「僕は――」

「あなたの答えは、ひとつだけ」


 湿った感触。僕の中指の第二関節に彼女が口づけていた。悪戯で、邪悪な微笑。目をそらすことなど、拒絶の意志を貫くことなど、もはや僕には到底不可能だった。

 答えは、ひとつだけ。


「――……殺すよ」


 悲痛とともに絞り出した言葉。

 しかし彼女はそれを聞いて、満面の笑みを静かに咲かせた。

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