film3

 残酷。

 それは悲哀という感情と同様、あまたの悲劇と共に人々を魅了してきた要素の一つ。多くの場合、それは別れの演出で取り入れられる要素であるように感じてきた。

 果たして今回も、間違いではなかった。


 決行の日。

 深夜の桜並木の下で僕と彼女は無言で抱きしめ合っていた。

 悪夢のようだった。美女相手に、微塵も愛されずに抱きしめられる。全身でその体を、呼吸を、生命の熱と鼓動を骨の髄まで沁み込ませて、それが終わればこの手で殺すことになる。そうでなければ今度は家族全員が、皆殺しにされる。


 抱きしめる意味は? 口づける意味は?


 そんなものありはしない。悲劇は被害者にとっての無意味と理不尽でしか彩られず、最大の被害者のはずが加害者の血濡れた皮を被らなければならない僕は家族を救いながら、すっかり本能的な側面で心を奪われ情の移った彼女を殺害するという、精神的自殺にも等しい最悪の愚行を働かなければならない。


 十字架を背負うことにさえ、意味はない。舌を絡めることにも、意味はない。


 頬を涙が伝う。僕は結局のところ、人を殺すと同時に自殺しようとしているのと変わらなかった。

 心の底から好きな女性を抱きしめたかった。できたら本当に好きだと思う人をあの喫茶店に呼び出したかった。叶うなら甘いデザートを一緒に楽しみながら、将来のことや、映画や趣味のこと、愛を語り合ったりもしてみたかった。


 僕の心は彼女に強奪され、断頭台の直下に固定されている。

 魅了され、狂わされ、言葉に惑わされ続けた挙げ句に抵抗も封じられ逃げ場も断たされて、最後の舞台で人形のように、おもちゃのように引きずり出されている。

 とうに僕は気づいていた。僕のそれは愛でも、恋でもなかった。僕も彼女も互いをつゆほども愛しておらず、思いやってもなく、出会いと会話、そしていまこの瞬間の肉体的接触という関係が産んだ情という残酷な幻想が、無意味な心の引力を作り出して狂気の空間を彩っているにすぎないのだと。


「もっと大胆になってもいいんじゃない? 最後なんだから」

「……もう充分だから」

「最後まで嘘つくことないのに」

「……嘘じゃない」


 夜のカップルごっこにしたって、悪趣味にもほどがあると思った。さすがにどうかしている。殺す側の気持ちも考えてほしいとすら思う。


「めちゃくちゃにしてくれてもいいのよ」

「駄目だ。ちゃんと約束の通りに、するから」

「……そう。俳優は徹底しているのね」

「俳優じゃない」

「素敵」


 話がかみ合わない。価値観も合わない。それはいつものこと。

 僕は黒檀の艶やかな髪に顔をうずめた。気の遠くなりそうな、それでいて理性の蒸発を許さない刺激的で甘い香り……。


「頭でいい?」

「もちろん」

「五発」

「ええ」

「そのあとは――」

「私の胃の中。オペラと一緒」

「わかった」


 体が離れる。香りが移っている。熱の余韻がかすかに呼吸を乱す。まだ触れていたいと願う本能の愚かな衝動を冷視しながら、焼けるような息を吐き出す。

 彼女を殺せば、家族は助かる。それに大金が手に入る。このことを知る者もいなくなる。

 そう思うとぼろぼろの気力が充足していくのを感じることができた。それだけは間違いなく、この理不尽の中で意味のある行動だと思うことができた。

 彼女は歩き出す。僕は懐から銃を取り出し、右手か左手どちらがいいだろうと考えたのちに、右手にその正式な名前も知らない殺人道具を握る。

 温かかった。当然だ、数十分は茶番に付き合わされていた。互いの温度でこうなってしまっても仕方がない。

 しかし、その温度が改めて僕に警告していた。お前は、生きている人間を殺そうとしている現実を自覚しているのかと。


 一陣の風。桜並木を抜け、無数の桜色の花びらとともにあらゆる障害をなぎ倒すかのように吹き荒ぶ。


 なぜ、と何度訊いたかも分からない。

 どうして、と自分に何度問いただしたかも分からない。

 僕は手のひらに収まる黒い銃身を何度も何度も確認する。目で見て、指先一つひとつを滑らせて、熱く感じるまで強くつよく――殺してしまえと握りしめながら。


 カチリと安全装置を外す。

 自動拳銃だそうだから、連射もできるそうだ。インターネットに落ちていた動画をいくつも見て、本番の挙動を考えてみた。

 片手撃ちは実際のところ、愚かな選択としかいいようがない。銃撃には反動が生じる。素人の射撃では最初の一発を当てるのがせいぜいといったところだろう。


 しかし、それでいい。

 五発も撃てばどこかには当たる。本当に手ごたえがなければ、四発目以降は面積の広い腹部から足にかけて狙いを定めて撃ってやろう。そうしたら怖気づいて逃げ出すとしても、捕まえてとどめを刺せる。

 全ては家族のため。お金のため。自らの不祥事の抹消のためでしかない。

 大切なものを守るためなら、誰だって強くなれる。保身のためでも蛮勇になれる。そういうものと決まっている。

 僕は勇気を振り絞り、大きく深呼吸をしてかすかに震える腕を肩の高さにまで上げて、彼女の頭に狙いを定めた。

 彼女は、頭を撃たれたいらしいから。


「数えてね」

「わかった。じゃあ――」


 十秒のカウント。

 迷惑極まりない最期を目前にして、僕はおかしな心地になっていた。

 殺人という結果の誕生を一寸先に見据え、悪寒が背筋をぞくぞくと駆け巡り、行為への恐怖と使命感にも似た、殺意ともいうべき背水の心境に未知の熱を見いだし始めていた。


「始めるよ」


 満開の桜の大樹の下で。

 黒のスーツを着込んだ男は女に銃口を向ける。

 女は晴れやかな微笑を浮かべ、くるりと回って桜を見上げ見渡し、満足したのか桜を照らすライトの下で僕をじっと愉しげに眺めている。

 あと、三秒。


「私、ひとつ嘘をついたわ」


 一秒。震えが止まる。


「本当は、全てに意味はあった――」


 銃声。銃声。銃声。

 一拍置いて、鼓膜を鈍器で殴りつけるかのような音に顔をしかめる。耳鳴りの中で、春の荒んだ風音が下手な口笛を吹いているように聞こえている。

 彼女は三回、電気ショックで強制の命令を与えられたかのように体を揺らしステップを踏むと、呆気なくどさりと大樹の根元――桜の絨毯に倒れ伏した。

 記憶を逆再生する。最後、思ったよりも強烈だった銃声に瞬きをしてしまったような気がしていた。いくつか見逃していたように思う。


 失敗したかもしれない。


 僕は不安を抱きながら、家族のために倒れた彼女へと近づいていく。その表情は穏やかで、こめかみには二つ、だらだらと出血している傷跡があった。


 死んでいる?


 大切な家族の命がかかっているのだからと自分に言い聞かせ、奮い立たせた。念のためにと口元に手を寄せ、それから首筋に指を当てて呼吸と脈を確認する。

 呼吸は感じられなかった。しかし、脈のほうは弱々しいながらも振動する感触があった。


 僕は考える。

 五発撃つと言った。だから、残り二発も撃つべきではないだろうか。では、どこに?

 心臓ならば失血死は間違いなさそうに思えた。しかし、それははばかられた。このあと、胸から腹にかけて切り開いて胃を探しだし、臓器を切開して中身を探さなければならない。その前に心臓を撃ち抜いたりなどすれば、中身が血だらけで探し物が面倒になるだけのように思えた。それに。

 胸部から視線を移し、彼女の顔を確認する。


 穏やかな表情で、幸せそうで。

 桜の上半身を照らす光の残滓が浮き立たせる白く美しい整った顔は、鮮血と傷口からの流血により緋色に化粧され、尚のこと幻想の住人のように妖しく薄暗い魅力を際立たせていた。

 幻想の中身を見てみたい……。

 そんな欲求がふつふつと、水底から沸き上がる不明の気泡のように少しずつすこしずつ、好奇心の色を付けて浮き上がってくる。

 しかし自分を押しとどめた。まだ安全ではない。それに、人気がないとはいえ桜は満開。先ほどの銃声を夜の散歩で聞きつけた近隣住民が通報していないとも限らない。


 なによりまだ、家族の安全は保障されていない。


 黒の皮手袋を外し、スーツのポケットに押し込む。それからジプロックを一枚取り出して、中からラテックスの手袋を拾いだし、しっかりと両手に装着した。


 幻想。不透明の塊。常に周囲を煙に巻き続ける女……。


 スプリングコートに手をかけた。表のポケットも探ってはみたが、何も入っていない。しかしそんなはずはないと内ポケットや、隠しスペースでもありはしないかと脱がせて探ってみたものの、どこにも何も物はなかった。

 彼女を見る。他に何かを隠しているとすればワンピースか、下着か、靴底。腕時計にも何かあるかもしれない。

 僕は探した。探し尽くした。抱きしめた時にわかり切ってはいたものの、髪の中も探した。しかし、しかし。


 何も、ない。あるはずのものがなかった。


 携帯電話は直前に処分したのかもしれない。だが強迫手段を処分したとは考え難い。直前になって僕が殺人を躊躇し、怖気づいて取りやめにしようとする可能性も十分にあったはずだ。その一押しに、彼女は間違いなく切り札にソレを使うことになると見越していたに違いないのだ。


 殺人を確信していた……?


 彼女を見る。裸の彼女は寒そうだったが、その口元は光の印影からか邪悪な笑みを浮かべているように見える。


 ――めちゃくちゃにしてくれてもいいのよ。


 嘆息。茂みに近づいて、あらかじめ置いておいたスーツケースを手に戻ってくる。スナップ錠を開けて開くと、布で包んだ魚包丁や外科用メス三本に小ぶりのノコギリ、鞘に収まったサバイバルナイフなどなど色々の刃物が着替え一式の上に並んでいた。


 できるだろうか、自分に。


 彼女に服を着せてやった。服を脱がすのも大概だったが、着せるのにはさらなる労力が必要だった。しかし敬意を払って丁寧に、強情な展示用マネキンに着せるように、背が血濡れたスプリングコートを着せ終える。

 血みどろのワンピースを胸元までたくし上げる。胸の下着は気を遣ってくれたのか、もしくはそういう人なのか着けていなかった。真白の整った乳房があらわになり、意外にも多少鍛えていたのか張りのある引き締まった腹部に少しだけ感動を覚えた。

 外科用メスを右手に、刃先を胸元と腹筋の境で漂わせる。それから自分の胸を左手で探り、胃はどのあたりだったろうかと見当をつけて執刀の始点を固定した。


 果たして、探し物は順調にことを終えた。

 解剖は思いのほか集中力と、何より体力を要し。さらには生理的嘔吐感すらもよおさせるほどに沸き立つ強烈に血生臭い蒸気と薫り……。

 胃を切り開いた時は吐しゃ物特有のひどい匂いがしたものだったが、どろりとしたチョコレートらしき黒い液体の中を指先で探ると一つ、サイコロほどの大きさの真紅の小箱を見つけることができた。

 六角形の宝石じみた愛らしい小箱だったが、しかしさきほどの凄まじい悪臭の原液の中に沈んでいたことを考えると僕はどうにも生ごみとしてすぐにでもゴミ箱に放り込みたい衝動に駆られてしまう。

 開けると、中には小さな鍵が入っていた。

 おそらくはこれが、件のロッカーの鍵ということだろう。場所は今朝送られてきたメールによれば市民体育館のロッカーらしい。


 僕は、ほっと一息をつく。

 これで終わり。彼女との厄介な関係も、これで本当に終わった。

 自殺幇助という罪で覆い隠された悲劇は、これでようやく閉幕というわけである。


 …………。


 指先にまとわりついた、脂肪だか肉だか毛細血管だかもわからない赤黒いベトベトを見下ろす。使い捨てのメスは下手くその無茶苦茶な執刀ですっかりその鋭さは鈍り切っていた。いまだ緊張と恐怖に震える手は、本当にこれで終わりで良いのだろうかと不安を語りかけているようにさえ見える。


 悪寒戦慄。

 むせ返る生温かい鉄血の蒸気。散りすさぶ夜桜の歓声シュプレヒコール……。

 血みどろのメスを廃棄用の袋に入れ、ジプロックの袋から二本……魚包丁と外科用のメスを取り出した。

 どうかしている。酔っているのかもしれない。正常な思考ではないかもしれない。自分を抑えるべきなのかもしれない。しかし。

 耳を澄ます。周囲にゆっくりと視線を滑らせる。

 木々のさざめき、茂みの独特な舞踊ぶよう以外には一切の人の気配がなかった。ここは桜並木の終点、舗道ほどうすらされていない一本道の果て。夜闇の中とはいえ桜のライトアップのおかげで最低限の見通しは良く、逆にこの行為は照明の真下であるために具体的にどのようなことをしているのか、遠目に判断するのは容易ではない。

 つまるところ、人の気配などありはしなかった。


 僕は一息つく。それから、考えを改めた。

 いまさら何を重ねたところで、同じことに相違ないのだろう。

 決心する。これはよくあること。答えはひとつだけ。大切な家族のために……。

 震えが止まる。

 薄闇の中では人体の中を見るのはとても難しく、ましてや切断するからには余計な部位を切って大出血となってはさらに作業が困難になっていく。

 桜の花だけを照らす照明を見上げた。やはり光はあったほうがいい。

 僕は、彼女の核を見つけることにした。 

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