桜の花の満開の後
(※このネタは、特に好き嫌いが別れると思います。スミマセン。次はもっと楽しめるネタを選んで書きますので、よろしくお願いします)
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避暑地で暮らすのは昔からの夢だった。
静かで清らかな森。しっとりと水気を含んだ甘い空気。四季折々に変化する美しく素朴な景色。春には山桜やミモザ、木蓮、薔薇、ジャカランタまで、色とりどりの花が咲き乱れる。夏には濃い緑と野の果実の芳香に包まれる。秋は山が鮮やかな赤と黄色に色を変え、ハラハラと舞い散る葉緑素を失った葉が愛しく、時には黄緑色の果皮に包まれた胡桃がリズミカルに落ちてくる。冬は一面の銀世界。すべてが真っ白な雪で覆い隠され、モノクロトーンの幽玄な森に変わる。それでも時折、樹々の陰から鹿が顔をのぞかせる。命は常にそこにある。
私は少女の頃から森で暮らしたかった。
叔父が清里に残してくれたこぢんまりとした別荘に移り住んだ今、その夢は叶った。ロマンチックな夢なのに、その叶い方は妙に現実的で卑小だ。
でも私が森で暮らしたいと思い始めたのは、そもそも趣味人だった叔父が趣味で建てた別荘で、季節ごとに身内を集めて開いていたホームパーティーに招待して貰っていた事がきっかけだったので、その小粋な叔父の別荘を相続し住まう事が許されている現状は、夢の原点に回帰したとも言える。
不意に小さな溜息が零れた。
洗い物をしていた手を止め、蛇口から流れる水をじっと見詰める。古いシンクはアールヌーボーのモザイクタイル貼りで、手入れが少し面倒だが、陶製の青いチューリップが美しい。
築五十年のこの家は、別荘として建てられただけはあり、あちこちに贅沢な意匠が凝らされていた。模様張りの床と、手摺が奇妙にうねった螺旋階段と、赤い薔薇と十字架のステンドグラス、窓には鎧戸までついているので、まるで御伽噺に出てくる家のようだ。
ここは静かで優し過ぎる。
楽園に戻ったというのに、私は追放されたような気分を味わっていた。
不思議だ。
私は好きだった人から逃げに逃げてここまで来てしまった。
一度は、魔女が創った幻のような古い桜の樹の近くに住んだ。舞い散る薄紅の花びらに包まれて見上げる、濡れそぼった黒い枝は充分に夢のようだった。
それなのに、私は傷付き続けた。
彼女から距離を置いたつもりだった。だけど、ほんの少し離れただけでは彼女に傷付けられる事からは逃れられなかったのだ。
閑さんは意外と無神経だ。自分が優秀だから、出来ない人間の気持ちが分からない。出来ない人間が傷付くような厳しい事を平気で言う。自尊心の拠り所を取り上げ、劣等感を煽り、傷を抉る。私はそれを真っ直ぐ受け止めてしまう。出来ない人間を指導するような物言いは、私には痛かったし、苦しくて悲しかった。
それで、また逃げた。
引っ越してすぐに再度の引っ越しを決めたので、かなりの額のお金が無駄になったし、さらに出費が必要だった。叔父から相続した別荘は一年以上放置していたので、急に引っ越すとなるとハウスクリーニングを手配したり、ライフラインの点検を依頼したり、自分たちに必要な新しい電化製品と寝具やカーテンをそろえるのに随分と手間とお金がかかった。
これは本当に思い切った逃避だった。
これからは貯金を切り崩しての生活になる。
ハナも仕事を辞めてくれた。彼女はすでに再就職先が決まっている。元の職場のボスに紹介状を書いて貰い、こちらの同系統の仕事に就いた。来週の月曜日から出勤するらしい。私のくだらない我儘によくもここまで付き合ってくれるものだ。
引っ越したばかりの、まだ段ボール箱すら片付いていない部屋で、ぼんやりと桜を眺めながら「まだ足りない。もっと遠くに逃げたい」と言ったら「うん、逃げよう」と言われ、最初は信じられなかった。
私は逃げる為の人生を生きている。
そのくせ、閑さんから離れられない。
呆れて見捨ててもいいのに、ハナは、私が間違っているとは一度も言わなかった。
逃げて、逃げて、逃げて、それなのに逃げ切れずにいるのに、ハナは付き合ってくれる。
いつまで繰り返すつもりなのか、自分ではもう分からない。案外、閑さんから「もう関わる事は終わりにしましょう」と言われれば、すんなり終われるような気もしている。私は自分から関わりを断つことが出来ないだけなのだ。
ここまで逃げてこのざまとは、情けなくて涙が出る。
だけど、ひとつだけ、良い変化もあった。
閑さんへのこだわりは薄くなった。
もう自分を好きでいる為の恋はやめた。
あの人を好きでいると、自分がとても健気で可愛く思えたけれど、惨めでもあった。
今、私が愛しているのはハナだ。
それだけは確かだ。
もう終わった話をグズグズと続けてしまうのは、私が今住んでいるこの場所の美しさを誰かに聞いて貰いたいからかもしれない。あるいは……
蛇口の栓をキュッと捻り、流しっ放しだった水を止めた。
洗いたての白いタオルで手を拭く。
ハナは庭にいる。叔父が遺したイングリッシュガーデンの手入れを、庭仕事が苦手な私の代わりにしてくれているのだ。ハナは派手な見た目のわりに家庭的だ。薔薇の花壇から少し離れた庭の隅にトマトと胡瓜と茄子の苗を植えたいと言っている。私はそれには反対だ。洒脱だった叔父が天国で嘆くだろうことが目に見えるからだ。叔父は美意識の塊だった。
キッチンの大きな窓は裏庭に面しているので、正面玄関側で庭仕事をしているハナの姿は見えない。花壇に如雨露で水を撒くと言っていたから、煉瓦の小道を軽やかに歩きながら、調子はずれのハミングをくちずさんでいるはずだ。
窓のすぐ向こう、狭い裏庭を隔てた先には深い森が広がっている。樹々の間は適度に開けており、雑草が銘々勝手に生い茂っている。
若葉を透かしてキラキラとエメラルドクリーンに輝く木漏れ日。
遠くに濃いピンクの初夏の花が咲いている。
あれはなんという花だったか……
なにもかもが綺麗だ。
ここが私の原風景。
生きたかった場所。
閑さんの気配が少しも無い場所。
ハナだけが私を繋ぎとめる場所。
たぶん、私はここで数年をかけて、閑さんに「さよなら」を言う準備をするのだろう。
その後は、ハナとだけ生きていく。
ハナだけを見ていく。
約束するから、もう少しだけ待っていて欲しい。
さて、私は生きなければいけない。
冷蔵庫を開けてベーコンと卵を取り出した。近所のドイツパン専門店で買った岩塩がキラキラしているプレッツェルを赤いシチリア製の皿に乗せ、ハナの元同僚が餞別にくれたフィリピンのバラカ珈琲の粉もコーヒーメーカーにセットする。
フライパンをコンロの強火にかけ、オリーブオイルを少し垂らしベーコンを四枚並べる。火を弱めてベーコンの縁が縮んでカリカリになるまでじっくり焼き上げ、卵を二個落として、後は蓋をして少し待つ。ハナはトロトロの半熟が好きだからこれで良い。仕上げの塩と胡椒は各自。乾燥バジルを振っても美味しい。
こんな散漫な話、くだらないと思うだろうか?
結局は食べ物の話なんかをするのか、と呆れるだろうか?
でも、鬱で不眠症で閑さん依存で何も出来なかった私が、たったこれだけの料理だけど、やっとそれなりに作れるようになったから、私は、それを自慢したくて、そして、優しくて愛しいハナの事を惚気たいのだと思う。その為に、今、書いているのかもしれない。
私はキッチンを出て、正面玄関に向かって広い廊下を歩き出す。
料理が冷める前にハナを呼ばなければ。
私はドアを開けながら、たったひとりの恋人に向けて、普段通りに声をかけた。
「ハナ、ごはん出来たよ。早く食べよう」
Fin.
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