桜の花の満開の中_05

 一瞬、私の中に戸惑いが湧いたが、そう言えば付き合ってもう三ヶ月になるんだな、という感慨に取って代わられた。三ヶ月は充分に長い。愛を育むには。そして、次のステップに進む準備を整えるには。平凡な私たちには「三ヶ月で一区切り」という俗っぽい感覚が似合う。三ヶ月の次は一年、その次は三年、それから十年……たぶん、ハナとなら順調に仲は深まっていくだろうし、普通のカップルに起こるイベントもつつがなく起きるだろう。

 ハナとなら、一生、一緒にいられるかもしれない。

 私はハナの淹れてくれた珈琲を一口すすり、ちょっと意地悪を言ってみた。

「やだよ。この部屋狭いじゃん。私の荷物入りきらないよ」

「ああ、まあ、そっか……」

 ハナは、ガッカリした事がバレバレの表情で肩を落とし、持っていたカップをしょんぼりとローテーブルの上に置いた。閑さんなら表情は変えないだろう。いつも毅然としていて見事なまでに秀麗な姿勢を保っている。

 しょうがないなぁ。

 手近にあったチョコレートを摘まんで口元に近付けたら、ハナはぱくんと素直に食い付いた。むむ、と言いながら甘いチョコを口の中で溶かしている。

「美味しい」

 あまりに無邪気にハナが笑うから、ふんわりとした優しく穏やかな気分が湧いてきた。それで、私も少し気恥ずかしいけど頑張って素直になることにした。

「ハナが引っ越せば?」

「はあ?」

「私も引っ越すからさ」

「なにそれ?」

「もっと広い部屋借りて、一緒に住もうよ」

 ハナは猫のようにパアッと目を見開いて、くしゃっと笑った。

「だよね。うん、それ名案っ!」

 感激したのかハナはがばっと抱き着いてきた。そのまま押し倒されそうになる。

「ちょっと、ハナ、珈琲が零れる。危ないっ」

 カップが傾かないよう必死に注意を払ってハナを押しのけると、ハナはごめんと眉尻を下げた。

 ああ、ハナで良かった。

 ハナなら私を枯れさせない。

 確かに私は潤っている。生き返っている。

 あの夜の言葉は嘘じゃなかった。

 単純で、温かい、真実だったのだ。

 私は癒されつつある。

 よし、とこぶしを握った。

「そうと決まったら一旦帰る。捨てるものとか早く選別しちゃいたい。荷物の量が分かれば、新居も選びやすいでしょ」

 思い立ったが吉日。少しでも早く行動に移したくて、私は自分の通勤用カバンを引っ掴んで立ち上がった。ハナは唇をぴくぴくと震わせ、笑いを堪える顔で私を見上げた。

「意外と気が早いよね」

「そう?」

 閑さんからのメールの返事はいつも一週間から十日も待ち、忙しいから会えないと断られても何度も何度も何度も辛抱強く飲みに誘い続けて、フェミニズムやLGBTQ関連のイベントなどでは大勢の協力者の一人として軽い挨拶をして貰うだけで満足し、人としては大切にして貰えたけれど、結局のところ惨めったらしい恋心は報われなかったのに、五年も一心に尽くしてきたのだから、気は長いほうだと思うけど……

 耐えて待てる性格と、早く決断できる性格は、矛盾無く私の中にあるという事か。

「ねえ、明日は何食べたい?」

 ハナに問われて考えたけれど何も浮かばない。

「なんでもいい」

 そう言ったらハナは苦笑いで腕を組んだ。

「なんでもいいが一番困るんだけどな」

「明日の事は明日考えよう」

「うわ、適当~っ」

 怒ったふりをするハナに見送られて玄関を出て、電車で二駅。

 ハナとの同棲を決めた興奮を冷ます為に、ゆっくり歩いて自宅に戻り、玄関の鍵を開け、ワンルームの明かりを点けたら、不意に全身が凍るようなひんやりした気分に襲われた。

 住み慣れたはずの自分の部屋が空っぽに見えた。

 なんの音もしない。静かだ。

 ここは、閑さんを想う為の部屋だった。

 私は唐突に悲しくなって声を上げて泣いた。

 五年も何をしていたのだろう。

 綺麗な幻を追い掛けてボロボロになってしまった。

 彼女と私は、恋人はおろか、友達にさえなれなかったのだ。

 こんな簡単なコトを理解するまでに、私はバカだから、五年もかかってしまった。

 もう社交辞令は信じていない。「会いたい」と冗談めかして言う事すら出来なくなった。無理だ。気力が無い。絞り出せない。彼女にして欲しい事なんて何ひとつ思い浮かばない。何を望んだところで絶対に叶わないと思い知らされた。充分に打ちのめされた。徹底的に心を折られた。もう彼女には何も期待していない。

 私はボロボロになった。

 でも、苦しんだのは自分だけじゃない。

 閑さんも苦しんだと思う。

 彼女は私を好きだと言ってくれた。でも、流されるわけにはいかない、とも。それは、彼女の立場では仕方のない事だったのだ。彼女には崇高な使命があり、やらなければならない沢山の仕事があるのだから……

 もっと早く、自分らしい恋をすれば良かった。

 彼女は彼女、私は私。どうしたって私たちの運命は交わらなかったし、いくら彼女に憧れても、私は私以外には成れはしなかったのだから。

 ハナ……

 ハナ……

 ハナ……

 ああ、ハナに出会えて良かった。

 ハナ……

 悪戯っぽく笑う、ちょっとだらしなくて、気紛れで、淫らで、感情の起伏が激しくて、哲学なんて興味も無くて、LGBTQ問題なんて何も知らなくて、現実的で、妥協的で、低俗で、愛情深い、私だけのハナ……

 私を救い出してくれてありがとう。


   ◆◆◆


 新居はすぐに見つかった。

 大きな桜の樹がある洋裁学校跡の廃ビルの隣にある古いアパートだ。市道の突き当りにある為、人通りが少なく静かで、駐車場が南側にあるので日当たりも良く落ち着ける。

 私は、閑さんとの関係に疲れ切っていたからこそ、早くハナと暮らしたかった。「早く、早く」とハナを急かして、少し鬱陶しがられた。

 引っ越しを機に、閑さんの気を引く為に手伝っていた某グループの活動からは身を引いた。五年近くも雑用をこなしていたというのに──雑用くらいしかしていなかったせいかもしれないが──その活動から何かを学べたという実感は無い。

 結局、私の手元には、鬱病の診断書と抗不安剤と睡眠導入剤しか残らなかった。

 もちろん、閑さんのせいではない。自業自得だ。

 引っ越し当日、新居には段ボール箱が積み上がっていた。

 ハナと出会ったのはクリスマスイブの夜──

 あれから三ヶ月あまりが経ち、引っ越しを決め、慌ただしく新居に移る頃には、桜が満開になる季節になっていた。

 新居の窓からは隣の廃ビルの古い桜の樹が見える。

 張り出した枝には薄紅の桜の花が幾重にも纏わりつき、咲き乱れて溢れている。それは雲霞のように空を覆い、まさに春爛漫──物凄い眺めだ。

 窓から隣の桜を眺めていたら、ハナに散歩に行こうと誘われた。

 頷いて、私は立ち上がる。

 古い桜の樹がある隣の廃ビルまで十秒もかからない。

 ハナと手を繋いで満開の桜を見上げた。

 舞い散る花びらが雪のように私たちを包み込む。景色が薄紅色に溶ける。私たち以外、誰もいない。雑音はひとつもない。静かで、清潔で、恐い事も哀しい事もここには無い。

 現実が遠退いていく。

 桜の花の満開の中、私は、優秀で煌びやかで魅力的な彼女を想った。

 私は彼女からのメールに変わらず返信をし続けるだろう。今まで通り、吐きながら分不相応に難しい本を読んで……

 二度と会うことは無いだろうけれど、彼女が幸せなら嬉しい。

 桜の花の満開の中、私はハナに寄り掛かった。


   Fin.

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