桜の花の満開の中_04

 生活に大きな変化があったわけではない。ハナは、するりと私の毎日に溶け込んだ。日に何度も短いLINEが届く。返事が必要なら私も手早く短く返す。どうでもいい内容ならスタンプを送って簡単に済ます。彼女と違って、ハナにはいつでも連絡が付くし、すぐに返事が貰える。寂しさを押し殺して待っている苦しみが無い。

 ハナとは難しい話はしない。

 何もかもが簡単で楽だ。

 夜はたいてい駅で待ち合わせて、ハナの部屋でごはんを食べた。どちらかが、あるいは二人で頑張って手料理を作るわけではない。スーパーで買ってきた総菜やコンビニ弁当をつつきながら、安い発泡酒かチューハイで乾杯した。努力や生真面目さというものはまったく要らない安穏とした緩い時間。

 自律や節制、禁欲なんてものも無く、気の向くままに愛を貪った。

 ハナはいつでも私のそばにいてくれた。

 一緒にいない時も、ハナは私の心のそばにいた。

 誰かとずっと繋がっているという気配には懐かしい安心感があった。

 ハナの部屋に私の物がどんどん増えていった。

 マニキュアを塗っているハナの横で、彼女の話を理解する為の小難しい専門書を読んでいたら、不思議そうな顔で訊かれた。

「その本、面白い?」

 小首を傾げて私を覗き込んでくる仕草は猫みたいだ。私は一旦ページを閉じ、セピア色の味気ない表紙を眺めて首を振った。

「どうだろう? よく分からない……」

「じゃあ、読むのやめちゃえば?」

 そうできたらどんなに良いか……

 この五年、何度も考えたけれど、私はやめる事ができなかった。無理して自分には合わない本を読み続けては頻繁に吐いていた。

 今はハナがいるのだから──と考えても、彼女の話し相手でいる為の無駄な努力をやめられない。彼女の話を理解できるように……いや、完全には理解できないが幾分かは理解できるように可能な限りの努力をしなければと、私は切羽詰まった強迫観念に取り憑かれていた。

 出会ったクリスマスイブの夜、ハナは素敵なセックスで私の憑きものを落としてくれたけれど、それは憑いているモノの半分──彼女以外は少しも愛せないという思い込みだけでしかなく、ハナを愛しても尚、私は彼女の呪縛に囚われていた。優秀で煌びやかな彼女を心の底から愛していた。それはハナに対する気持ちとはまったく違う次元のモノで、性愛よりは崇拝だと思う。

 ところで……

 彼女──と呼び続けるのはそろそろ難しくなってきたので、仮にしずかさんと呼ぶ事にしたい。ハナと違って、彼女の本当の名前は、例えファーストネームだけであっても明かすわけにはいかない。思わせ振りで嫌な感じかもしれないけれど、どうか許して欲しい。

 ちなみに、ハナの事は気安く呼び捨てに出来るが、閑さんのことは気安くは呼べない。それは、二人の重要度の違いから生じる差ではない。ただ単に、二人の持つ雰囲気がそれぞれに違うというだけの事だ。ハナには呼び捨てが似合い、閑さんには呼び捨てが相応しくない。

 私は閑さんからどうにか離れようと努力してみた。

 それは私にとっては親離れのようなもので、当たり前のことだけれど、誰もが親からは離れ難いように、私も自分を導いてくれる彼女からは離れ難かった。親と言ってしまうのは閑さんに失礼かもしれない。彼女のほうが私より年下なのだから。彼女は生まれながらのリーダーで、誰と接しても立派な年長者のようになってしまう、ある意味、損な人なのだ。

「あなたの迷惑になるから離れるべきですが、離れると死んでしまうような気がします」

 ある時、思い余って、普段通りの長いメールの中にその一文を混ぜてみた。閑さんからの返信には「迷惑ではありません」という優しく節度ある言葉が添えられていた。

 私がバカだった。

 彼女に嘘をつきたくなくて、正直な気持ちを書いてしまった。あんな重い事を言われれば、誰だって「迷惑ではない」と答える。

 もしも誰かに相談したら「あなたを嫌いになったから」あるいは「あなたに興味が無くなったから離れたい」と言えば良いと笑われそうだが、それは、どうしても私には出来なかった。

 何の罪もない優しい彼女を傷付けたくはない。それに、一度離れたいと言ってしまえば、もう二度と彼女のそばには寄り付かせてもらえない気がする。そんな後戻りできない道は恐ろしくて進めない。

 奇妙な事に、閑さんは私の不眠症と鬱病に責任を感じているようだった。その事も私が彼女から離れ難い理由のひとつだった。確かに彼女と関わる為に無理をしてメンタルの状態が悪化し抗不安剤と睡眠導入剤に頼らざるを得なくなったが、私の精神が不安定なのは元からで、そもそもの原因は生い立ちにあるのだから、鬱病にはなるべくしてなっただけで、閑さんには一切責任は無い。想いに応えて貰えない虚しさで、彼女を愛して残ったものは不眠症と鬱病だけだと思ってしまうこともあるが、でも、閑さんには関係ない。本質的に、彼女は私の現状に関わりが無いのだ。

 だけど、彼女のことを考えると、ただただ息苦しい。

 閑さんは、私を好きだと言ってくれたこともある。でも、流されるわけにはいかない、と言われた。清く正しくある為に、彼女は自分を律すると……

 清く正しくあらねば。

 清く、清く、清く、正しく、正しく、正しく、一点の汚れも許されない。

 私が彼女に恋した事は、肌に触れたいと思った事は、ほんの一時でいいから信を曲げて、だらしない愛に耽って欲しいと願ったことは、そんなに汚い醜い許されない事ですか。

 少しの時間くらい、神様も──もしも存在するなら──目を瞑ってくれますよ。

 どうにもならない事を思って深い溜息を付いたら、直後、ふわりと珈琲の香りが漂ってきた。

 ハナがキッチンでドリップパックの珈琲を淹れている。

 ふんふんと軽い鼻歌を口ずさみながら冷蔵庫から牛乳を取り出し、赤いカップと黄色いカップ両方にたっぷり注いだ。

 ハナは黄色いカップを私に差し出しながら、なんでもない事のようにサラリと言った。

「もう、この部屋に引っ越して来ちゃえば?」


   ◆◆◆

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