桜の花の満開の中_03 ☆R15☆
クリスマスイルミネーションに飾られた街に白い息が流れて行く。
ハナは私の腕を掴んだまま調子はずれの歌を口ずさみ上機嫌で歩き続けた。ハナがどこへ向かって歩いているのか薄々は分かっていたが、されるがまま大人しく引きずられて行った。
私はハナの白いファーコートを着せられていて、ハナは私のベージュのダッフルコートを羽織っていた。クラブのクロークに預けていたコートを受け取った時、勝手に交換されて、私には絶対に似合わないふわふわの白うさぎみたいなものを着せられたのだ。普段なら拒んだと思う。でも、その日はなんとなく「まあ、いいか」という緩い気分だった。
近くのラブホテルまで十分もかからない。短いが、自己紹介をしてお互いの仕事を教え合い、ほんのエッセンス程度に社会問題のひとつやふたつ話題にするには充分な時間だった。でも私たちは何も話さなかった。ハナは簡単に「私、ハナ」と名乗ったが、私は「うん」と答えただけで自分の事は何も教えなかった。
キスをしながら焦って服を脱ぐなんて、そんな安っぽい映画のラブシーンみたいな真似、初めてした。やってみると意外とイイ。ついさっきまで浸っていた、クラブイベントの密閉空間に充満した熱気と、興奮状態の人間の汗と香水混じりの体臭と、脳天から内臓の奥まで突き刺すような音楽と光が、非現実の酩酊になり、ハナに無理やり口移しで飲まされたテキーラで完全にスイッチが入っていた。
ハナの首筋からは官能的で濃く甘いマグノリアの香りがした。
消して触れさせてくれなかった彼女は清楚なスズランの香りだ。
ハナはベッドルームに続く短い廊下に立ったまま私の耳を舐めて、吐息と共に私を煽る言葉を注ぎ込んできた。
「汗かいちゃったから一緒にシャワー浴びよう」
もどかしくて焦れたけれど、私も汗をかいていた。
ハナに腕を掴まれ引きずられるように歩いた十分弱の道で、正体不明の興奮が湧いて胸がドキドキしていたし、わけの分からない緊張もあって、寒くて指先はキンキンに冷えているのに、背中と脇は汗でぐっしょりと湿っていた。
青いライトの中でハナと抱き合って熱いシャワーを浴びた。ボディーソープをアメニティのスポンジで粗雑に泡立てて、ハナは当たり前のように体を洗ってくれた。だから、私も当たり前の顔をしてハナの体を洗ってやった。
なんだかくすぐったくて二人で笑った。
濡れた体をバスタオルで拭うのもそこそこに、もつれ合うようにベッドに倒れ込んだ。
さらりとしたシーツは少しひんやりと素肌に触れて心地好い。
今度は、ゆっくりと時間をかけて丁寧なキスをした。テキーラとジンの味が残っていて、チョコレートを溶かすような、どろりと魂に絡まるキスだった。
ついさっき知り合った──いや、まだ知り合いにもなっていないかもしれない──派手な女と、裸で、ラブホテルのベッドに横たわって、抱き合っている。
ハナの指が、唇が、舌が、私の肌を厭らしく撫でる。
私もハナの体をまさぐった。豊かな乳房は弾力があり、手のひらを当てると健康的な抵抗がある。なだらかな下腹は鍛えられていて程好い筋肉の躍動感がある。引き締まった手足。喘いで反る喉元。挑発するように開く唇。下生えは予想外に柔らかくフワフワしている。
ハナは瑞々しく濡れていた。
私は彼女に恋してから五年──正確には、彼女に恋するしばらく前から恋人はいなかったから、足掛け六年──誰とも肌を合わせた事が無かった。
六年ぶりの快感は刺激的で、甘い潤いに満ちていた。
そこには難しい理屈なんてひとつも無かった。
ただ、単純な、幸福があった。
◆◆◆
お互いに満ち足りて溜息をついた時、ハナはやっと私の名前を聞いた。
名乗ると、ウフフ、と鼻にかかった甘ったるい声で笑い、それから、ごろんと寝返りを打った。天井を見上げながらあっけらかんと言う。
「私、たぶん、ずっと前からあんたを知ってたし、好きだったと思うよ」
それは、つまり、私を見知っていたからクラブで絡んできたという事だろうか? でも、好きだった──という言葉は、どういう意味か分かりかねた。
「私のこと知ってたの?」
うん、と頷いて、ハナはズバッと言い切った。
「お姫様の小間使い」
おっと……それは言い得て妙だ。
確かに私は彼女の小間使いのようなものだと思う。ひたすらに彼女の為になる事をしようと、彼女に便宜を図ろうと、彼女の雑用をこなそうと、必死に媚を売っていた。この五年、私は彼女以外の誰の事も見ていなかった。
ハナはがばっと起き上がり、行儀悪く胡坐をかいて私を見下ろした。
「ねえ、どうせ、あの人とは付き合ってないんでしょう?」
ハナとのセックスで憑きものが落ちたようになっていた私は、うん、と正直に頷いた。
「じゃあ、私たち付き合おうよ。私はあんたを枯れさせないから」
あっ、と私は小さな声を上げてしまった。こんな驚きだらけの状況の中で、不意に現実感が戻ってきて、唐突にハナの言葉に驚いたのだ。付き合おうと言われた事にじゃない。枯れさせないと言われた事に。
自分でも不思議なくらい戸惑った。
ハナの言葉は、なぜか、真っ直ぐに、深く、胸に刺さったのだ。
「いいね。付き合おうか」
「そうだよ。付き合おう。私たちセックスの相性も良いし、仲良くやっていけるよ」
「うん、そうだね。本当にそうだね」
私は声を詰まらせ、それから「LINE交換して」とお願いした。
今さらながらお互いの事を伝えあい、ハナが意外と固い法律系の事務仕事をしている事にも驚かされた。髪や服装は自由らしい。あれこれ雑談をしているうちに夜はどんどん更けていった。時計の針が深夜三時を指す頃、ハナは片目を瞑って辛そうに欠伸をした。
「ハナ、眠いの?」
「あんたは眠くないの?」
「眠剤が無いと眠れないから」
「そっか。ごめん、私、眠くなっちゃった」
「眠っていいよ」
「うん……」
ハナは子供のように両眼をこすった。相当に眠いらしい。
「ねえ、私が寝てる間にいなくならないでね」
そう言われて、ぎゅっと胸が締め付けられた。誰だか知りもしなかった、最初は鬱陶しいとさえ思った派手な女が、たった数時間で、こんなにも愛しくなってしまった。
ハナはセックスの快楽について赤裸々に語る。
綺麗事で誤魔化さず、恋愛感情と性欲に真っ直ぐ向き合う。
大真面目に何が気持ちいいか口にする。
ちゃんと伝わる、普段使いの簡単な言葉で。
乾いた砂に水が染み込むように、私は命を吹き返していった。
◆◆◆
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