桜の花の満開の中_02

 セックスは生きる喜びを感じさせてくれる善なるものだと私は思う。

 例え、あなたの価値観では、結婚あるいはそれに類する制約を結んだ相手以外へのセクシャルな欲望は恥ずべきもので、自分を律して抑制すべきものであったとしても、それでも少々の悪辣さは凡庸な日々に刺激を与えるスパイスになるし、そもそも、欲の猥雑さや生臭さも含めて人間じゃないですか──と、私は思う。

 私はあなたに触れたい。抱きしめたい。キスしたい。

 そういう事をハッキリと言えば良かったのかも知れない。だけど、高尚な話題の途中に唐突に世間では低俗とされる『お願い』を差し挟むのは憚られた。

 あなたはイデオロギーの話をする。歴史の話をする。生物の進化の話をする。自由意志の話をする。同性愛者の置かれている状況、差別、生来与えられていて然るべき権利についても熱心に語る。セックスについてさえ、あなたは論理的に堂々と語る。あくまで論理的に。

 なのに、目の前にいる、あなたを愛する私との関係については何も語ってくれなかった。

 私は彼女にとって存在してもしなくても同じなのではないか。

 彼女は確かに対話のできる相手を欲している。でも、それが私である必然性は無い。私という『個人』が、彼女に必要とされているわけではない。彼女に必要なのは、ある程度の知識を持ち、ある程度は彼女の話を理解でき、ある程度の意見を返せる『人間』──その条件さえ満たせば誰でもいいのだ。

 彼女は映りの良いカメラに向かって高邁な演説を続けている。言葉はあくまでも冷静で柔和で理知的でフェアだ。その姿に魅了され、彼女の意見に賛同する支持者は大勢いた。それこそ、幾千幾万の、野を覆い尽くして群れ咲く花の如く。彼女の話し相手は、その花のどれかでひとつであっても構わないはずだ。

 なぜ、私なのか──?

 考えても、考えても、考えても、答えは出ない。いや、本当はとっくの昔に残酷な答えが出ているが、苦しくて飲みこめない。

 彼女の気持ちは分からない。なぜ私と語り合おうとしてくれるのか、理解できない。

 私を恋人にしてくれないなら、もう解放して欲しい。

 そんな出口の無い懊悩の渦に飲まれて、それでも、彼女に見限られるのが恐くて何も変えられない日々を茫洋と過ごしていた中で──

 新しい恋人に出会った。

 風変りで派手な女で、ハナという名前だ。本人は気に入っていないらしい。

「ハナなんて、犬の名前みたいじゃない? うちの母親のセンス疑うわ」

 事あるごとにそう愚痴ったが、ハナと呼ばれると機嫌良く振り返る。少し行儀の悪い笑い方が可愛いと思う。

 ハナは「難しい事は分からない」と悪戯っぽく笑う人だ。ちょっとだらしなくて、気紛れに始める淫らなセックスが大好きで、遊び好きで、感情の起伏が激しくて、哲学なんて興味も無くて、LGBTQ問題なんて何も知らなくて、現実的で、妥協的で、低俗で、愛情深い。

 ハナといる時は、楽に呼吸ができる。

 私はハナの毒々しいまでに強い生気を受けて息を吹き返した。

 ハナと出会ったのは去年の年末──

 彼女との関係に倦んで疲れ切っていた私は、気晴らしで二丁目に遊びに行った。その日はちょうど十二月二十四日で、定期的にクラブで開催されている出会い系イベントはクリスマス・スペシャルで盛り上がっていた。

 その会場で私に声をかけて来たのがハナだ。

 クラブは一人で行ってもそれなりに楽しめる。誰かしら知り合いがいるからだ。普段は見付けられたくなくても見付かってしまいハイテンションの乾杯に何度も付き合わされてうんざりするのに、その日に限っては誰も知り合いに会わなかった。

 贅沢な我儘だが、それはそれで寂しい。

 壁に寄り掛かって薄いジントニックを舐めていたら、人垣の向こうからひらひらと手を振ってくる派手な女がいた。

 知っている顔ではなかった。

 私ではなく、近くにいる誰かに向けて手を振っているのだろうと周りを見回してみたが、誰も手を振り返してはいなかった。

 派手な女の目は真っ直ぐに私を見ている。

 どうやら私に手を振っているらしい。

 挨拶されているのだろうか、だとしたら面倒だな、と私は思った。

 もう個々の顔など覚えていないが、LGBTQのワークショップか生真面目な昼イベの会場かデモ行進の事前集会のどれかで会ったことがある相手かも知れない。それならば彼女の賛同者だろうから無視するわけにはいかない。舌にわずかに苦いものが込み上げた。

 当時、私は某活動界隈では大勢いる彼女の取り巻きのひとりと認識されていた。特別な仕事をしていたわけではない。私には崇高な理念や思想など無く、差別や偏見に苦しんでいる人々に貢献したいわけでもなく、ましてや世界を変えたいなどとは微塵も思っておらず、ただ恋愛対象として彼女を好きだったから、誰にでも出来る雑用をこなしていただけだ。それでも、活動のイメージダウンに繋がる感じの悪い態度を取って、我々のリーダーである彼女の顔を潰すわけにはいかなかった。

 作り笑顔で片手を上げ、無難に「こんばんは、楽しんでる?」と唇の形で伝わるように言った。爆音のトランスミュージックがうるさくて聞こえてはいないだろうと思ったが、こういう場での挨拶は愛想とノリさえ良ければなんとかなる。無視していない事だけ伝わればそれでいい。挨拶が済んだら、回遊する熱帯魚のように流れに乗って踊りに行くのが夜イベのマナーだ。

 なのに、派手な女は人込みを掻き分けて、酔った危うい足取りでふらふらとこちらに近付いてくる。まだ私に絡むつもりのようだ。

 鬱陶しいなと思ったけれど、しがらみがあるから無視はできない。

 目の前に立った派手な女は何事か話しかけてきた。

 当然、爆音のミュージックに掻き消されて何を言っているのか分からない。

 聞こえない、と耳を近付けたら、酔っていたハナは私の首に腕を絡めて乱暴に引きずり寄せ、よりにもよってショットのテキーラを口移しで飲ませやがった。

 その手の悪ふざけには慣れていたので噎せる事は無かったが、飲み下せずに零してしまった酒で顎と服の胸元が濡れた。怒っても大丈夫なのかマズイのか判断しかねて、私は笑顔で固まってしまった。

 ハナはけらけらと笑い、私の腕を掴んだ。

「外に出よう」

 なぜか、その言葉だけはクリアに聞こえた。


   ◆◆◆

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