07【桜の花の満開の中】(失恋と新しい恋)

桜の花の満開の中_01

 

 引っ越しを決めたのは、彼女との関係に疲れていたからだ。

 彼女はとても優秀な人で、私とは別世界の煌びやかな場所で、私には想像も出来ない厳しい職業倫理を要求される仕事を、昼も夜もなく忙しくこなしていた。

 出会いは奇跡だった。

 とある有識者が主催するウェブサイトに、彼女がボランティアで書いたフェミニズムとLGBTQに関する記事が掲載され、偶々それを読んだ私が一方的に憧れて、ほとんどファンレターでしかない感想を書き送ったら、丁寧な返信をもらえたのだ。

 私は舞い上がった。

 まず彼女の言っている事を理解しようと、それまでろくに知らなかったフェミニズムと哲学の入門書を買い込んで読み漁った。頑張って読んだけれど、どの本に書かれている思想も、なんとなくは理解できても、深く共感する事は出来なかった。何を読んでも、私程度の人間の脳味噌では「なるほど、そういうものなのか」という感想しか持てなかった。

 明らかに、彼女と私は生きる世界が違っていた。

 氏と育ちが違うというだけでなく、生まれ持った器も違うし、そもそも魂の重さが違う。

 彼女は頭が良く、特別な才能を持ち、高潔で、寛大で、優しく、容姿も魅力的で、今の時代に必要な思想を分かりやすく提示し社会運動を牽引するオピニオンリーダーの資質さえ備え持っていた。

 私はただの凡人だ。彼女の記事に一目惚れしただけで、彼女と恋がしたいだけだった。

 私は彼女を理解する事は出来なかったし、彼女も私を理解する事は出来ないだろうと最初から分かっていた。

 それでも、私は彼女の気を引こうと躍起になった。

 出来る事は何でもした。

 思いつく限り、何でも。

 吐きながら本を読んだお陰で、なんとか、彼女の話にあまり的外れ過ぎない返信が出来る程度にはなった。私は会話の相手としては不足だっただろう。彼女が議論を交わす相手としては知識不足で思想も浅く歯ごたえが無さ過ぎる。でも、劣っているなりに、彼女の話を一生懸命理解しようとした。彼女はその姿勢を汲んでくれたのだろうと思う。

 何度か長文メールで意見を交わし、話せる奴だと思ってもらい、まるで戦前の文通のような待ち時間の長いやり取りに耐えて交流を続けた。

 私は自分の個人情報をどんどん彼女に明かした。彼女は私には本名や年齢などの個人情報を教えてはくれなかったけれど、それは当然だと思うし、私も教えてくれとは言わなかった。一方的に自分を明かしたわけだけれども、彼女を信頼していたから不安は無かったし、とにかく私という人間を知ってもらいたかった。

 私が女性にしか恋愛感情を抱けないレズビアンであることは、最初のメールで伝えてあった。これは早めに踏んでおくべき重要な手順だ。だって、私には下心があったのだから。

 私から熱心に何度も何度も何度も頼み込んで──「忙しい」とやんわり断られる度に「じゃあ、また誘います」とあくまでもアッサリした態度に見えるよう苦心して引き下がり、しばらく時間を空けてはストーカ―認定されるかされないかのギリギリの軽い感じでオフ飲みに誘う事を繰り返し──数年越しでやっと会ってもらえた。

 よく挫けなかったものだと我ながら呆れる。

 初めて実物の彼女を間近で見た時、私は感激して泣きそうになった。あの時間だけが、私のくだらない人生で唯一の、最高に幸せな宝石のような時間だったと思う。

 輝くような逢瀬はたった二時間でお開きになった。彼女はとにかく忙しく、残った仕事を片付ける為にまたオフィスに戻るとの事だった。私は離れ難くて心臓が止まりそうだったけれど、引き留めるわけにもいかず笑顔で彼女を見送った。彼女は別れ際に握手をして「一度お会いしたからには、もう友達ですから、時々こうしてお会いしましょう」と言ってくれた。

 私は彼女の言葉を真に受けた。

 社交辞令をバカ正直に信じて、また彼女を飲みに誘った。何度も何度もやんわりと断られて、それでも、あの夜の言葉を信じて縋った。

「一度お会いしたからには、もう友達ですから、時々こうしてお会いしましょう」

 都合の良い約束が実現されるわけもなく、私は次第に疲れて病んでいった。

 期待と失望を繰り返すこと五年──

 ようやく悟った。

 彼女と私は、恋人はおろか、友達にさえなれなかったのだ。

 こんな簡単なコトを理解するまでに、私はバカだから、五年もかかってしまった。

 もう社交辞令は信じていない。「会いたい」と冗談めかして言う事すら出来なくなった。無理だ。気力が無い。絞り出せない。彼女にして欲しい事なんて何ひとつ思い浮かばない。何を望んだところで絶対に叶わないと思い知らされた。充分に打ちのめされた。徹底的に心を折られた。もう彼女には何も期待していない。

 だから、私は引っ越すことにした。

 心機一転、知らない場所で、まっさらな状態から新しい自分を始めようと思ったのだ。

 新しい住居は大きな桜の樹がある洋裁学校跡の廃ビルの隣にした。古いアパートだが、静かで日当たりも良く落ち着ける。

 同居人は新しい恋人だ。

 知り合って三ヶ月。LGBTQが集うクラブイベントで知り合い、その場で意気投合し、その夜のうちにベッドを共にした。頻繁にLINEを送り合い、毎日のように会い、すぐに「一緒に住もうよ」と言えた。

 ああ、これが普通の恋愛の速度なのだ──と、新しい恋人との同居を決めた日の夜、私は自分の部屋で、独り、声を殺して泣いた。

 五年も、私は何をしていたのだろう?

 綺麗な幻を追いかけて、ボロボロになってしまった。

 私の手元には、鬱病の診断書と、抗不安剤と、睡眠導入剤だけが残った。

「散歩に行かない?」

 優しい声に顔を上げると、新しい恋人が困ったような寂しい笑顔を浮かべて壁に寄り掛かっていた。詰み上がった段ボール箱の色が不思議と温かい。

 頷いて、私は立ち上がる。

 古い桜の樹がある隣の廃ビルまで十秒もかからない。

 新しい恋人と手を繋いで満開の桜を見上げた。

 舞い散る花びらが雪のように私たちを包み込む。景色が薄紅色に溶ける。私たち以外、誰もいない。雑音はひとつもない。静かで、清潔で、恐い事も哀しい事もここには無い。

 現実が遠退いていく。

 桜の花の満開の中、私は、優秀で煌びやかで魅力的な彼女を想った。

 私は彼女からのメールに変わらず返信をし続けるだろう。今まで通り、吐きながら分不相応に難しい本を読んで……

 二度と会うことは無いだろうけれど、彼女が幸せなら嬉しい。


   ◆◆◆

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