嘘つきハニー/32
「可奈は傷付いてないの?」
責めるようなニュアンスにならないよう語尾に気をつけて訊ねた。
「分からない」
可奈は静かに呟き、前方を注意深く見張りながらステアリングを左に切った。不意に車通りが途切れ、街燈の少ない細い砂利道へ入る。タイヤが砂利を踏んで途端に騒がしくなる。駅周辺の住宅の密集した市街地を離れ、背の高い雑草が生い茂った鬱蒼とした草地が広がっている。
水場が近いのだ。
「私はね、気が付いたら女の子が好きだった。でも男になりたいとか、相手に男っぽくしてほしいとかじゃないの。なんて言うか、上手く言えないんだけど、女性として女性が好きってこと。意味分かるかな?」
「うん、たぶん……」
可奈は前方を見据えてハンドルを握ったまま淡々と話し続ける。
「真里に対する好きは、友情の好きじゃなくて、恋愛の好きだから、キスしたいとか、裸で抱き合いたいって思うの。分かってくれる?」
「うん」
「そういうコトを、すぐに真里としたいってわけじゃないの。でも、私はそういう意味で真里を好きなんだって忘れないで」
「うん。忘れない」
可奈はスピードを上げて急にUターンした。対向車も後続車もいないから出来る乱暴な運転だ。タイヤに弾き飛ばされた砂利が小さな雷のような音を立てる。
「あれ、戻るの? 星でも見るのかと」
車のフロントガラス越しでもくっきりとした黒曜石のような夜空が広がっているのが見える。街灯りが無いと、まるで降るような星景色だ。
私はかなり惜しいと思ったのだけど、ただ暗い道を走りたかったの、と可奈は不思議な眼差しで言った。
「それに、こんな場所に女二人で車を停めるのは物騒だから無理よ。星が見たいなら高原のホテルでも予約しないと。女って不便ね」
まあ、確かに、それはそうだ。女って不便だ。大塚曰く、私は女じゃないらしいが。
でも、夏の大三角形を探すくらいはしたかったな、と思う。
◆◆◆
途中、コンビニに寄って夕食用のお弁当とサラダと缶チューハイを買った。
私と可奈がしたい話は人の多いレストランには相応しくない内容だったし、六年四か月ぶりに確執がほぐれ、やっと心が通じ合ったばかりだったので、誰の視線も気にせず、二人きりでいたかったのだ。
可奈の運転する軽自動車は、少しずつ私が住んでいるボロアパートへ近付いていた。
緊張する。
ちょっと、さっき可奈に言われた事を意識していた。
──キスしたいとか、裸で抱き合いたい、とか。
ぶわっ、とジェットコースターで急降下するような感覚が襲ってきた。そわそわすると言うか、いたたまれないと言うか、じっとしていられなくて今すぐ車のドアを開けて飛び出したくなると言うか、なんだろう、この感覚は。嬉しい、と、恥ずかしい、と、怖い、が混じり合って混濁している。
落ち着かず、膝の上で両手を軽く握って、悶々としてしまった。
「あの、そんなに身構えないで欲しいんだけど」
「え、あ、ああ、あっ、コインパーキング、そこ。その先の角、左に曲がって」
「はいはい」
もう、私が真里を襲うみたいじゃない、とぶつくさ言いながら、可奈はコインパーキングに車を停め、ドアを開けた。
「暑いね」
アスファルトに昼の熱が残っている。蒸し暑い、ミストサウナのような空気。
都内に比べれば田舎とはいえ、駅の周辺は街灯りが多く、星はあまり見えない。ここでもベガとアルタイルとデネブくらいは見付けられるかも知れないが、建物の屋根が密集していて、空を見上げでもよく分からなかった。細い月はもう建物の陰に落ちてしまって見えない。電線が空に無粋なラインを描いていた。
私のボロアパートまでの二百メートルほどを、片手に荷物を持って、もう片方の手を繋いでゆっくり歩いた。人とすれ違っても特に奇異の目は向けられなかった。これが男同士だったら違う反応だったのだろうけど、複雑な気分だ。
鍵を開けて、どうぞ、とドアを開ける。
「突然だから、片付いてないけど」
「平気。気にしないで」
靴を脱いで狭い部屋に足を踏み入れて、可奈は物珍しそうに、辺りを見回した。
「狭いのね」
母親と同じことを言って、ベッドに勝手に腰を掛ける。
懐かしさに眩暈がした。
可奈が実家の私の部屋を訪れる時はいつもこうだった。可奈がベッドに腰掛けて、私は自分の勉強机の椅子に座る。夏は冷たい麦茶を飲んで、冬は温かい紅茶を飲んだ。可奈が持って来てくれたお菓子を食べて、他愛の無い話をして、ずっと一緒にいたいねと笑い合った。だけど、将来の話はしなかった。
あの頃の私達には、「今」しかなかった──
「あ、このぬいぐるみ、まだ持っててくれたんだ」
ベッドに座ったまま手を伸ばして、可奈は黒いウサギのぬいぐるみを抱き上げた。可奈がプレゼントしてくれたものだ。可奈はこれとペアになる白いウサギのぬいぐるみを持っていたはずだが、まだ持っているのだろうか……と考えていたら、
「私もまだ持ってるわよ」
と唐突に言われて驚いた。
「何考えてるか表情に出ちゃうのは相変わらずだね」
「えっ? そんなに顔に出るかな?」
「出てないと思ってたの?」
「そう言われると……」
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