嘘付きハニー/31

 日没後にほんのわずか訪れる水色の暮色が辺りに満ちていた。県道は車のテールランプが光るオレンジの河になっている。何度か赤信号に引っ掛かりながらも、歩道を歩く人や自転車を追い越し、可奈の運転する軽自動車は船のように進んだ。

 煉瓦敷きの歩道には黄色く灯るスズランのような街燈が連なり、民家の窓灯り、コンビニやスーパーの灯り、時々はネオンサインが眩く煌めく。

 夜が静かに降りて来る。

 空の色は見ているうちにみるみる暗くなっていき、ぽつぽつと星が輝き始めた。細い月が進行方向に出ている。

 たまらなくロマンチックな景色だった。

 イオンの近くまで来た時、それまでずっと黙っていた可奈が唐突に声を出した。

「ねえ、真里……」

「なに?」

「ディルムッド・オディナとグラーニアの伝説、まだちゃんと覚えてる?」

「ああ。いや、まあ、因縁がありますから」

 ははは、とゆるく肯定したら、可奈は、ふう、と溜息をついた。

「ディルムッドが最期どうなったか知ってる?」

 運転しながら、私を見ずに可奈は問う。

「えっと……大怪我をしてグラーニアを残して死ぬんだっけ?」

「そうよ。そして残されたグラーニアは元の婚約者フィンの妻になるの」

「それはなかなか……あれですな……」

 何の話をしたいのかと思ったら、可奈はサクッと、とんでもない事を言った。

「それって最悪よね。好きな人が死んだからって別の人に乗り換えるなんて。私はずっと真里と一緒にいたいし、真里が死んでも他の人は愛さないわ」

 うわあ、と顔が真っ赤になる。

 返事に困るよ。相変わらず──っ!

 ズバッと物凄い告白をしてくれて、それきりまた可奈は黙り込み、私は運転の邪魔をしないよう静かにしていた。何も言わないのもどうかと思い、ありがとう、とぼそっと言ってみたのだけど、聞こえているのかいないのか可奈は返事をしなかった。

 じわじわと時間が戻って行く。肌が可奈との空気を思い出していく。

 会わない間に儚いイメージを熟成させてしまっていたようだ。よくよく考えてみると、可奈はこんな女だった。強くて、自己中心的で、凄まじく重かった。

「少しドライブしない?」

「いやいや、私は仕事が……」

「今夜くらい良いでしょ」

「でも……」

「いいよね?」

「うん」

 可奈は駅の近くまで来ると、私が指で示した私のボロアパートがある方角とは逆の方角へステアリングを切った。アクセルを踏み込む。遊水地へ向かうルートだ。

「こういう時、身内が雇い主だと得ね。明日ズル休みをしてもパパは怒らないもの」

 悪戯っぽく言って可奈はスピードを上げる。道はもう混んでいない。車列はテールランプの尾を曳いてスルスルと流れて行く。

「私ね、中学生の時に……」

「えっ、なにっ!?」

 思わずがたんとシートの上で仰け反ってしまった。

 例の事件について話すつもりなのだろうか。

 心の準備が出来てない。

 私が不自然にわたわたしていると、ちょうど赤信号に差し掛かったので、車を止めてから、可奈はジトッとした半眼を向けて来た。呆れているというか、ちょっと軽蔑含みの視線に射抜かれて、あはは、と誤魔化し笑いで頭を掻く。

「大丈夫、重い話じゃないから。ママが話したんでしょ?」

 うん、と言っていいのかどうか分からず黙っていると、可奈は、ふうっ、と乱暴に息を吐き出した。そこで信号が青に変わり、車は再び動き始めた。

「ママがどういう人か分かってるから、隠さなくて良いのよ。その様子だと、どうせ真里のアパートに押し掛けて一方的にあれこれ言ったんじゃない?」

 はあ、有体に言えばそうですが……

 窓の外には当たり前の夜の街。

 買い物帰りの主婦や、部活を終えて家路に着く学生達、仕事帰りの様々な年齢の人々、みんな、家に帰れば誰かが待っていてくれるのだろうか。それとも、普段の私のように独りで過ごすのか。でも、あまりにも哀しい境遇の人でもなければ、この世のどこかに、その人を気に掛けていてくれる人が一人か二人はいるはずだ、誰にでも、きっと。

「先生を誤解しないで欲しいの」

 可奈は、気遣うように優しい声音で言った。

「なんか、ね。もういいかなって思ってるの。色々。こだわるのに疲れちゃった」

「でも……」

 中学生の女の子を裸にするような人間は、例え同意であっても許されない。

 私はそう思っている。法も許さない。最低で下劣な犯罪だ。未熟な子供の人権を蹂躙している。性的搾取はすべて厳しく断罪されるべきだ。

 そんな恥ずべき罪を犯した人物を気遣う必要など無い。

 私は、正直、そいつを滅茶苦茶に殴ってやりたいと思っていた。

 可奈は静かに息を吸い込んだ。

「ママは私が被害者だと思ってるけど、あれは私が誘ったの。先生はすごく女らしくて綺麗な人だった。女優の藍沢ユナに似てたかな」

 それは少し意外だった。中学生の女の子に性的虐待をしたのだから、男っぽいタイプなのかと勝手に思い込んでいた。藍沢ユナはおっとりした近所のお姉さんぽい容姿で、癒し系と言われている。

「先生に恋していたとか特別に好きだったわけじゃなくて、女性同士の恋愛に興味があっただけなの。私は先生とああなった事、今も後悔はしていないのよ。うちの仕事をクビにさせちゃった事だけは悪かったと思ってるけど」

 可奈の言い草に、私は不満の呻きを零した。

「納得は出来ないよ。その人がした事は犯罪だからね」

「うん……そうね……」

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