嘘つきハニー/20
「セクシャリティの問題ってやつか……」
重い、重過ぎる……
人生最大の難問だよ。
ぐあああっ、と私は頭を抱え込んだ。
正直、可奈との性的な行為について、一度もマトモに考えた事は無かった。
仕事でエロ漫画なんぞを描いているけど、しょせん、資料や他人様の作品などから上澄みを汲み取っただけの真似事の偽物だ。何もかも想像で描いている。百合モノもたまに依頼を頂いて描くには描くけど、男女の性交はもとより、女性同士のセックスなんて、まったく、これっぽっちも、一ミリも分からん。というか、恋愛というものすべてを知識でしか知らない。分からない。
そうなのだ。私には何の経験も無いのだっ!
「ヤバイ……何をどうしたら良いのかサッパリ分からん……」
可奈には会いたい。会って直接話したい。気持ちを確かめたい。
けど、それって《責任》が発生するという事なのか。
ローテーブルの上には、可奈の前から消える覚悟が出来たらここに電話しなさい、と渡された090で始まる電話番号が記されたメモが置いてある。
可奈のお母さんは言いたい事を言い切ると、さっさと腰を上げて帰って行った。
後に残された私はと言えば、台風に蹂躙された貧相なビニールハウスのようになっていた。要するに原型も残さないくらい滅茶苦茶って事で……
「と、とてもじゃないが、こんな精神状態じゃ漫画なんか描けないっ」
元の木阿弥、いや、状況は更に悪化した。最悪だ。二日前、駅ビルで可奈に偶然出くわしてガン無視され、ネームが出来ない、と呻いていた時よりなお悪い。
セクシャリティについてまで考えなければならなくなったのだから。
「ネット……そうだ、ネットで検索……」
ゾンビのようにへろへろになりつつ、私はパソコンを立ち上げ、インターネットプラウザを起動した。
「何を検索したらいいんだ?」
ググれカスと言われましても、何を検索すればいいのか分からない場合だってある。とりあえず《同性愛》で検索して、ウィキペディアを読んでみたが、通り一遍の事しか分からない。
しかたない。
なるべくなら奴にだけは頼りたくなかったが……
私は漫画専門学校時代につるんでいた仲間の一人、私が困窮していた時にエロ漫画を描くよう勧めてくれた恩人の彼女……ではないほうの極め付けの変人、エウレカ何某(ナニガシ)に連絡する事にした。
あいつならセクシャリティ問題に詳しい気がする。
◆◆◆
エウレカ何某というのは、当然ペンネームだ。念の為に言っておくと、ナニガシまでがペンネーム。専門学校時代から頑なに本名で呼ばれる事を拒絶し、講師にまで「エウレカ君」と呼ばせていた。というか、そう呼ばれないと返事をしなかった。
そんなふざけた態度が許されたのも、エウレカには才能があったからだ。在校中に某ファンタジー系月刊少年誌に投稿し、見事、大賞を取ってデビューを果たしてしまった。
今もその雑誌で連載を続けている。何度も雑誌の表紙を飾った人気作品だ。ウイルスによる人類滅亡をモチーフにしたディストピア系の世界観でコアなファンが多い。アニメ化の話はまだ無いようだが、それでも、メジャーな月刊少年誌で連載を続けられるなんてスゴイ事なのである。同期の中で、メジャー誌で仕事を貰えているのは、今のところエウレカただ一人だ。
「アシスタントに来るなら、相談に乗ってもいいけど?」
開口一番、エウレカはスマートフォン越しにのっぺりと乾いた声で言い放った。
「いやいや、私だって締め切り近いんだぞ?」
「真里の締め切りは八月の二十六日あたりだろ? 察しは付いてる」
ちなみに今日は八月六日。今月の仕事は二十四ページの読み切りで、一人で描くなら最低二週間は欲しい。アシスタントに行く余裕がまったく無いわけではないけれど、今回の原稿は特別なのだ。いや、まあ、毎回特別な意気込みで描かなきゃイカンのだけど、そんな建前を取っ払えば、こんなに精魂込めて、しかも担当氏に褒められたネームは初めてなので、作画も過去最高の傑作に仕上げたい。
時計を見ると、午後三時になろうとしていた。
「いや、でも結構ギリギリで……」
自分から相談に乗ってくれ、と電話しておきながらぐずぐずしていると、エウレカは無機質な声で懐柔案を提示してきた。
「一日くらいなら大丈夫だろ? たまには来なよ。寧々も会いたがってるよ。なんなら空き時間にうちのパソコンで自分の原稿やってもいいからさ」
「う……うん……」
寧々ちゃんの名前を出されると断りづらい。寧々ちゃんは、漫画専門学校卒業後、三年以上投稿を続けても少女漫画家としてデビュー出来ず、掛け持ちバイトと投稿原稿作画の多重苦生活で困窮を極めていた私に「思い切ってエッチ描いてみたら?」と道を示してくれた恩人でもあるのだ。
あの時、寧々ちゃんがああ言ってくれなかったら、そして、あられもなく大泣きさせてくれなかったら、私はもう漫画を描いていなかったと思う。
それに、成年誌に私の漫画が初掲載された時、あの苦い思い出の祝勝会の席で、屈託のない笑顔で祝ってくれたのは寧々ちゃんだけだ。
たしかに、寧々ちゃんには会いたい。
「わかった……」
私は思い切って肚を決めた。
「よろしくお願いします、エウレカ先生」
「うむ。苦しゅうない」
そんなこんなで話は決まり、トートバッグに着替えのTシャツと下着、化粧水と制汗スプレー、歯磨きセット、ヘアブラシ、ハンドタオル、作業着のジャージ、電車の中で読む好きなミステリの新刊、トドメにネームのデータを入れたUSBメモリを突っ込んで、陽射し除けの帽子と中身の少ない財布を引っ掴むと、アパートの鍵をかけて駅まで走った。
最寄り駅から池袋まで急行列車で一時間ほどだ。池袋のデパ地下でエウレカと寧々ちゃんへの差し入れにバウムクーヘンを買って、今度は池袋から急行で十五分ほど。
エウレカが住んでいるのは日本有数の漫画家が多い地域だ。
寧々ちゃんの知り合いの漫画家もこの近所に住んでいて、彼がごみを捨てに出たらゴミ捨て場に大量のコピー用紙の入ったゴミ袋を発見し、もしやと思っていたら、案の定、お向かいのアパートに同ジャンルで仕事をしている漫画家が住んでいた──なんてエピソードもある。もちろん実話だ。
さて、駅から徒歩二分。目的地には汗だくになる前に到着した。
エウレカの住居はオートロックの付いた高級タワーマンションだ。エレベーターで七階まで上がり、目当ての部屋へ向かう。豪華なドアの707号室。ちょっとお金に余裕のあるファミリー向けの分譲マンションで4LDK~5LDKの間取りがデフォらしい。
エントランスのインターフォンでオートロックを開けてもらった時は、エウレカが「招かれざる客が来た」という態の不機嫌な声で応答してくれたのだが、それはいつものことなので慣れている。
さて、玄関脇のインターフォンを押すと、中から、はあい、と可憐な声が聞こえ、
「わあ、真里ちゃん久しぶり」
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