嘘つきハニー/18
なんとなく嫌な予感がして、首の後ろが落ち着かなかった。
「コーヒーでも淹れますね」
とキッチンに下がろうとしたら、逃げ出したい気持ちを見透かされたのか、またもぴしゃりと言われた。
「結構よ。気を遣わないでちょうだい。すぐに帰りますから」
「は、はあ……」
自然な流れで、私は床に正座して可奈のお母さんの話を聞く姿勢になった。びしっと身を固くする私を見て、可奈のお母さんは不快げに眉根を寄せた。
「椅子に掛けてちょうだい。文句を言いに来たんではないんですよ」
いや、すっげえ文句を言われてる感じですが……
「は、はあ……」
言われるまま仕事用の椅子を引いて腰を落とす。
ここで「お口に合うかしら」とお菓子の折詰を差し出された。なんと、京都の本店と都内のデパートでしか買えない抹茶と和三盆を使った高級和風ガレットではないか。これ雑誌で見ましたよ、とは言えず、ははぁ、とかしこまって拝領する。
「可奈がお世話になりましたね」
意外な言葉を掛けられてびっくりした。
「え? は?」
「あなたには感謝しているのよ。可奈が高校を無事に卒業できたのはあなたのお陰だわ。仲良くしてやってくれてありがとう」
「い、いえ、そんな、こちらこそ、あの……」
あまりにも予想外の展開で、不覚にも私は舞い上がってしまった。
「あなたと一緒にいる時の可奈は、本当に楽しそうだったわ」
ど、ど、ど、どうもありがとうございます。そう言って頂けると、まことに救われると申しますか、気が楽になると申しますか、卑怯にも、可奈と中途半端に付き合ってしまっていた時期があるとバレてなくて良かったぁ、と胸を撫で下ろしそうになります。
エアコンは強めにかけているはずなのに私は汗だくになっていた。
可奈のお母さんは遠くを見るような眼差しで話を続けた。
「実はね、可奈は中学二年生の時、クラスで急に仲間外れにされてしまって……」
え、と思わず私は顔を上げた。
「そんな事があったんですか?」
そうよ、と可奈のお母さんは悩み抜いて漂白されたような雰囲気で頷いた。
「理由は些細な事だったみたい。可奈と仲良しだった女の子が好きだった男の子が、可奈を可愛いと言ったとかなんとか……そんなくだらない事よ。可奈は目立ってしまっていたのかもしれないわね。でも、クラスで無視されるなんて、あの年頃の女の子にはとても辛い事だわ。部屋に閉じこもりがちになって、よく泣いてた」
「そう……だったんですか」
信じられない、とは思わなかった。確かに可奈は目立つ。絶世の美少女で、お金持ちのお嬢様で、しかも成績まで良いのだから。容姿や才能に恵まれた子は上手く立ち回れないと不幸だ。本人が悪いわけじゃないのに、目障りだからと嫌われる。
現に、可奈は高校でも同じように無視されていた。
けど、私が見ていた可奈はものすごく強くて、クラスメイトに無視されて泣いている姿なんて想像も出来なかった。中学校での苛めで泣き尽くして、私と出会った頃には、もう涙は涸れてしまっていたのだろうか。
それにしても、つくづく美少女は損だ。ただ綺麗なだけで嫉妬され、苛められる。
そんなのってどうなんだ? なんで嫉妬しなきゃいけないんだ? 羨ましいと思ったからって、どうして拒絶して、排斥して、攻撃して、傷付けようとするんだ? 自分より優れた個体がそんなに目障りなのか?
女って──いや、人間って酷く醜い。
私は知っているべきだったのに──そう図々しく思ったら、的外れかも知れない謝罪が勝手に口から滑り出ていた。
「すいませんでした。中学時代の事、初めて知りました……」
一瞬、可奈のお母さんは冷たい表情をパキッと固め、じっと私を凝視した。
マズイ言い方をしただろうか、とぎくっとしたが、可奈のお母さんは、
「わざわざ話したくなかったんでしょうね」
と囁くように言って目を伏せた。それから独り言のように続ける。
「気晴らしになればと思ってイギリスにホームステイさせてみたりもしたのだけれど、逆効果だったわ。可奈が担任の先生にイギリスの話をしたら、それがクラスの女の子達にも伝わってしまって……妬まれたんでしょうね。二学期の半ばくらいから学校へ行けなくなってしまったの。環境を変えようと思って高校は主人の地元を選んだのよ」
ああ、そうか、と昨日大塚に言われて気になっていた疑問が氷解した。
だから可奈は不似合いな田舎の公立高校に通っていたんだ。
高校でも可奈は浮いていた。むしろ自分から距離を取って、誰とも積極的に関わらないようにしていた。私以外の誰にも寄り付こうとすらしなかった。
──可奈には、出会う前から、私しかいなかったんだ。
ぶわっ、と何かが胸の奥から込み上げてきた。
熱く潤んだ不思議な感情──
だけど、込み上げてきた感情が何なのか、可奈のお母さんの前でじっくり考える余裕は無かった。
不機嫌そうに見える表情は相変わらず苦手で、無駄に気持ちが萎縮する。やっぱりコーヒーを淹れるべきだったんじゃないか、としょうもない事を考え始め、置き去りにされた感情とコーヒー問題が胸の底で手を取り合ってぐるぐる回る。
可奈のお母さんは痛みに耐えるように深くて静かな溜息をついた。
「今でも後悔している事があるの」
嫌な予感がした。
「学校へ行けなくなってしまった可奈の勉強が遅れてはいけないと思って、中学二年生の三学期から家庭教師を付けたの。きちんとした家庭教師派遣会社に頼んだのよ。可奈は女の子だから、わざわざ女性を選んだのに……」
ぎくっ、と自分の体が震えるのが分かった。
話の流れが汚れた方向へ変わったことがなぜか直感出来た。
可奈のお母さんは秘密の扉を開けようとしている。
罪が匂う。
ちょっと待って、まだ覚悟が──
◆◆◆
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