嘘つきハニー/17
──と、決心したところで、すぐには動けないのが大人ってやつだ。
まずは書き上がったネームをスキャナでパソコンに取り込んで、読みやすいように画像ソフトで補正をかけて、業務用メールを書いて、ZIPで圧縮したデータを添付して、担当氏に送信する。
それが済んだら担当氏からの返事待ち。
「はあ……ヤバイ、眩暈がする……」
ネームに集中しているうちに日は暮れて、外はすっかり暗くなっていた。卓上カレンダーの横に置いた時計を見ると、なんと午前三時。
担当氏から電話が掛かって来るのはどうせ明日の昼過ぎだろうし、今はシャワーを浴びてもう寝ちゃおう。くたくたで瞼が重い。気絶しそう。
半分意識を飛ばしながらシャワーを浴び、適当に髪にドライヤーを当て、床に投げ捨ててあったパジャマを着て、満ち足りた気分でベッドに倒れ込んだ。
◆◆◆
青天の霹靂とはこういうコトを言うのだな──と、翌日、私は思い知った。
いや、心配ご無用。仕事には関係無い事で、だ。
担当氏からの返事は上々だった。
「今までで一番面白いですよ。OKです。文句無し。この調子で作画もお願いします」
寝起きに、といっても正午は回っていたのだけど、普段の担当氏とは別人のような明るく爽やかな声で言われて、私は思わずスマートフォンを握りしめて呆然としてしまった。
褒めてくれた事の無い担当氏が、初めて、面白いと言ってくれた。
いつも、まあいいでしょう、と全然よくない感じの不機嫌極まりない声で言われて、毎度毎度テンションだだ下がりで自信喪失しながら原稿作業に取り掛かっていたのに。
今回は、文句無しとまで──
嬉しい、とか、やったぁ、とか、あまりにも馴染みが無くてその場では湧いて来なくて、
「はあ、ありがとうございます」
と気の抜けた声でうすらぼんやりと言うのがやっとだった。
電話を切ってからじわじわと嬉しくなった。
よっしゃあ、と小さくガッツポーズ。顔を洗って、着替えをし、シリアルに牛乳をかけて食べ、早速、原稿の下書き──私は下書きからデジタル作画だ──に入ろうかとパソコンの電源に指を置いた時、ピンポーンと呼び鈴が鳴った。
「誰だろ……?」
そして、玄関ドアを開けた時、青天の霹靂とは何であるか、私は思い知ったのである。
「こんにちは、急にお邪魔してごめんなさいね」
なんと、可奈のお母さんが能面のような冷たい顔で立っていた。
タクシーでいらっしゃったようで、このくそ暑い季節に汗ひとつかいていない。上品な麻のサマースーツを着て、白いハンドバッグを持ち、お菓子の折詰が入った紙袋を下げていた。
ああ、なんか、一瞬、現実とは思えず、白昼夢でも見てるのかと思った。
「上がってもよろしい?」
どうぞ、と答えるしかない威圧感で可奈のお母さんは微笑んだ。高校生の頃毎日のように見た、人を疑っているような、蔑んでいるような、居心地の悪くなる笑みだ。
正直に言って、私は可奈のお母さんが苦手だった。
しかし、毎日のように可奈の家に上がり込んでいた私が、可奈のお母さんの訪問を断れるわけがない。
ササッと室内に視線を巡らせる。出ていてマズイ物は出ていないハズだ。両親や妹の突然の押し掛けに備えて普段からエロ資料はクローゼットに入れてある。本棚に詰まった漫画やアニメのソフトは丸見えだが、この際仕方がない。私が漫画家を目指していた事は可奈のお母さんも知っていた事だし、オタク趣味くらいは大目に見てくれ──
「どうぞ、散らかっていますが……」
苦渋の決断だった。
「あら、狭いのね」
失礼な事をサラッと言って、可奈のお母さんは私の差し出したスリッパを履いて、パタパタと室内に進んだ。
「どこに座れば良いかしら?」
「す、すみません……」
私の部屋は1DKで、きちんとしたお客さんを通せるような場所は無い。
ベッドと、仕事用のパソコンデスクと事務椅子と、これだけは場所を取っても失くせない大量の漫画と資料の詰まった本棚と、アニメを見る為のテレビとHDレコーダー、小さなローテーブルと、使い過ぎてぺちゃんこになった薄汚れたクッション。
両親や妹が来る時は、すぐに近所のファミレスに出掛けてしまうし、専門学校時代の友達が稀に遊びに来る時は床なりベッドなり勝手に座って貰っている。
可奈のお母さんの高級そうな麻のスーツを見て、とてもじゃないが床に座らせるわけにはイカン、と変な汗が出た。綺麗な生成りなので、汚れが付いたら恐ろしい。
慌ててベッドカバーを整え、
「こんな場所で失礼ですが、どうぞこちらに」
ササッと下がりながら両の手の平で指し示すと、可奈のお母さんはあからさまに嫌そうな顔をして、それから床を見回して、まあ、いいわ、とベッドに浅く腰かけた。床よりはマシだと思って頂けたようだ。
うわあ、全然くつろげなそうだなぁ。
「あの……こんな場所ではなんですから、近くのファミレスにでも……」
気を遣ったつもりで言ったら、可奈のお母さんはぎろりと私を睨んだ。
「ここでいいわ。人に聞かれたくないお話があるの」
ぴしゃりと言われて、もうそれ以上ファミレスを勧めるわけにもいかなくなった。
──っていうか、人に聞かれたくない話って何だろう?
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