嘘つきハニー/16

「うわっ、なんで忘れてたんだろっ!」

 そこまで思い出したら、酔いが一気に醒めた。

 私は両手で顔を覆い、ぐああああ、と言葉にならない苦悶の呻きを吐き出しながら、ベッドの上で右に左にのた打ち回る。

 ヤバイ。すっげえ恥ずかしい。悶え死ぬ。身の置き所が無い。

 人の気持ちが理解できない自分のバカさかげんも情けないけど、それよりも。

 ディルムッド・オディナとグラーニア。

 そうだよ、まんま、可奈は私達をあの二人に例えてた。信じられん。なんで綺麗さっぱり忘れていたのか──

「忘れてたっていうか、思い出したくなかったのか」

 たぶん、あの日の会話は無意識に封印していたんだと思う。

 私にとって、可奈と会えなくなった事は痛手だった。ものすごく寂しかった。自分の半分が切り取られて無くなってしまったような、それほどの重い喪失感だった。

 深く考えると自分を保っていられないような気がして、別れの時に何を言い、何を言われたのか、思い出す事すら拒絶していたんだ。

 だから、ディルムッド・オディナをモデルにしたアニメを見ても、ぼんやりと、なんとなく被るな、と思うだけで、それ以上の事は思わなかった。いや、思わないようにしていた。思考にブレーキをかけていたんだ。

 痛過ぎる。ものすごい重症じゃないか。

「うわあぁぁぁ」

 ちょっと自分が怖い。

 普通、そこまで完璧に忘れてしまえるものなのか──?

 冷や汗がだらだら流れた。

 私は卑怯だった。自分の中で、ずっと身勝手な言い訳をしていた。

 向こうが、連絡するまで待ってて、と言ったのだから、こちらから連絡しないのは悪くない。どうせそのうち近所で会うだろうし、会いたければ向こうから連絡をしてくるはずだ。連絡が無いのだから用は無いのだろう──と、いかにもな理由を並べ立てて、考えなければいけない事からずっと目を逸らしていた。

 可奈の気持ちが片付いていなくても、私は連絡すべきだったんだ。

「そりゃあ無視もされるわな……」

 ああ、と情けなさに盛大な溜息が漏れ、全身の力が抜けていった。

 起き上がって仕事机の端に置いた卓上カレンダーに目を向ける。ネームの締切に丸印が付いている。デッドラインまでまだ日はあるけど、甘えてる場合じゃない。

 よしっ、と気持ちを切り替え、飛び起きて机に向かう。

 まずはやらなければならないネームを片付ける。

 自分の都合がどうであろうと、一旦引き受けた仕事はしっかりやらなきゃならん。落としたらド三流漫画家の私如きは仕事を切られるとかどうとかそんなんじゃない。保身の為じゃなく、関係者に迷惑がかかるから、それが仕事だからだ。

 責任はきっちり果たさなければ大人とは言えない。

 立派に建築家への道を歩み始めている可奈と比べたら、売れないエロ漫画家の私なんて見劣りするし、つうか比べ物にもならないし、仕事も少なくて金も稼げなくて貧乏で情けないけど、でも、目の前にある責任くらいは自分で負わなきゃ恥ずかしくて可奈の前に出られない。私に仕事を回してくれた担当氏や関係者のみなさまにも顔向けが出来ない。

 私はやる。人として当たり前のことを──

 白いコピー用紙に向かって、今の自分に考えられる最高のストーリーを全力で叩き付けた。ガリガリとシャーペンが唸る。走る。

 あんあん喘ぐ美少女を、いかにエロく、いかに可愛く、いかに切なく魅せるか。バカバカしく見えるかも知れないが、本気で考えた。

 いかに読者の性欲を刺激できるか。心を掴めるか。

 世のエロ好きの男子諸君に、いわゆる夜のオカズに使って貰って、さらにちょっぴりの愛と感動も混ぜ込みたい。キュンとさせたい。ドキッとさせたい。ズキンとさせたい。グッと来させて、しんみりさせて、盛り上げて、叩き落として、エロさで興奮させて、ついでに感動させたい。楽しんで貰って、心の片隅に残して貰いたい。

 どんな設定の、どんなキャラの、どんなシチュエーションの、どんな恋愛が、どんなエッチが、どんな心の交流が、結び付きが、恋愛成就の感激が、エクスタシーの激情が……

 どう描けば、読者の心に届く──?

 2Bの芯が入ったシャープペンシルを握りしめて、ガリガリとコマを割り、構図を決め、台詞を書き込んでいく。

 変な状況だけど、これが私の本気だ。魂の真剣勝負だ。

 考えに考えて、ついにその時の自分の最高が形を取り始めた。

 灼熱した坩堝の中で溶かされ、精製され、固化していく。

「……出来たっ!」

 無我夢中で十二時間──私に出来る精一杯の仕事をした。

 白かったコピー用紙は何度も書いたり消したりを繰り返した末にボロボロに汚れ、必要な箇所、不要な箇所、何度も切り貼りをして、まるでゴミのようになっていた。

 だけど、過去最高のネームがそこにはあった。

 もしかしたら、ここまで熱い気持ちでストーリーを作ったのは初めてかもしれない。

 漫画専門学校に通っていた時も、講師に言われるがままに投稿作をかいた時も、落選続きで落ち込みながらも某有名少女漫画誌に投稿を繰り返していた時も、専門学校時代に知り合った恩人から男性向けエロ漫画を勧められて描いてみた時も、それで担当さんが付いて初めて雑誌に載る作品を描いた時も、私は本気で向き合っていなかった。

 全力を出して、自分の「これ以上描けない」という魂を込めた作品で、挫折するのが怖かったのだ。

 本気を出してダメだったら、本当の本当に絶望的にダメって事で、才能の限界が完全に分かってしまう。自分には大した実力は無いんだとハッキリ自覚するのが怖かった。向き合わなければ、有るか無いか分からない可能性に縋っていられる。

 逃げていた。

 でも、逃げてちゃダメなんだ。

 やるべき事をやる時には、混じりっ気無しの超本気でやらなきゃダメなんだよ。

 そうでなければ、努力したとは言えない。精一杯やったとは言えない。

 出来上がったネームを目の前に掲げて、私は達成感に打ち震えた。これが良い結果を出そうが、ダメだろうが、もう満足だ。これが私の全力だ。

「私はやったよ。全部、出し切ったよ……」

 もう逃げない。

 この仕事が終わったら、また少女漫画を描いて投稿する。夢に挑戦する。一度はあきらめて投げたけど、今度こそ死ぬ気で好きな漫画を頑張るよ。

 だから、可奈──あんたにも本気でぶつかってやる!


   ◆◆◆


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る