Sugary Walk/09

 麻紀に会いたかった。

 どうしてあんなに怒ってしまったのか、今となってはよく分からない。

 見合いをしろとうるさく言う弟から逃げる事も、その理由を説明するのが嫌で、追い掛けて来る弟をストーカーだと言ってしまった事も、他愛の無い嘘と言えなくもなかった。私だって、会えない時に仕事が忙しいからと嘘をついたし、隆という婚約者がいる事も黙っていた。嘘偽りはお互い様だった。

 それなのに、猛毒にでも触れたように激しい拒絶反応を示してしまった。

 嘘をつかれたという事実が、なぜか酷く恐ろしくなって、耐えられなかった。

 麻紀に裏切られたくなかったから……?

 いいえ、違う──

 違う、違う、違う、違う、違う。

 嘘なんて、本当はどうでも良かった。

 私は確かに怖かった。けど、私が怖がっていたのは別の事だ。

 自分が同性に惹かれる人間なのだと、正面から直視するのが怖かった。

 麻紀を好きになっていると認めるのが怖かった。

 たぶん私は、麻紀を嫌いになる理由を探していたのだ。だから飛び付いた。

 私は、他の怖い事すべての理由を、あのたったひとつの嘘に纏めて乗せて、片付けてしまって、本当に大切な事を何一つ考えなかったのだ。

 何も見てはいなかった。

 誤魔化していたのだ。

「麻紀が好きだった……私は、彼女に惹かれていた……」

 言葉に出すと、不思議なくらい胸に刺さった。

「私は、まだ、麻紀が好きだ……」


   ◆◆◆


 だからと言って、今更、頭を下げて麻紀に連絡出来るわけがなかった。

 そんな見苦しい真似が出来るわけがない。

 私は意地を張った。張らなければならなかった。

 だって、私にもプライドがある。

 浅はかな理由で、私の我儘で、私の勝手な都合で、酷い事をしてしまった。やっぱりあなたが好きですなんて、言えるわけがない。言って良いわけがない。

 泣いて、泣いて、泣き喚いて、それでも私は意地を張った。

 そして、意地を張るのに疲れ果て、後悔も未練も絶望も漂白されたように何も感じなくなった頃、季節は夏になっていた。

 私が死んだように過ごすうちに、世間では三ケ月が経っていたのだ。

 そんなある日、いつも通りに仕事を終えて帰宅すると、ポストにダイレクトメールやちらしに混じって思いがけないモノが入っていた。

 麻紀からの手紙だった。

 LINEメッセージでもeメールでもない。今時珍しく、切手を貼ってわざわざ郵送された手書きの封書。白地に淡い緑色で木の葉の模様が描かれていた。

 ソファに座ってペーパーナイフで封を切る。

 便箋は封筒と同じ柄で、気の利いた事に沙羅の花を模った文香が同封されていた。ほのかに白檀の香りが立つ。

 麻紀の書いた文字はとても丁寧で、綺麗だった。


   ◆◆◆


 突然のお便り失礼します。

 どうしてもあなたに謝りたくて筆をとりました。

 未練がましいと思われるかも知れませんが、あれからずっとあなたの事を考えています。

 どうしてあんな下らない嘘をついてしまったのか、後悔しない日はありません。

 ストーカーに付き纏われていると言われれば、誰でも不安になりますよね。実桜さんが本気で心配してくれていたというのに、私は深く考えもせず、ただ、あなたと少しでも長く居る為の口実にしてしまいました。ストーカーの件で困っているから相談させて欲しいと言って、騙して実桜さんを呼び出してしまった事も卑怯だったと分かっています。

 お怒りになるのは当然です。

 許していただけるとは思っていません。

 それでも、これだけは信じて頂きたいのです。

 私はあなたを、実桜さんを、本気で好きでした。初めてお会いしたあの日から、ずっと、あなたが心に焼き付いて消えてくれません。正直に言えば、今も、あなたが好きです。

 もしも、もう一度だけチャンスを頂けるなら、どうか……


   ◆◆◆


 手紙の最後の一文は、涙が溢れて読めなかった。

「酷い……今更こんな手紙……」

 堪えでも堪え切れず嗚咽が漏れた。

 麻紀は酷い。

 今更また私の心を揺さぶるなんて。

 ずっとずっと後悔していた。

 麻紀を傷付けなければ良かった、と。

 自己保身なんかで逃げずに、素直に、麻紀に惹かれていた気持ちを認めれば良かった。

 もう一度やり直せるなら、私はもう狡い事はしない。

 ただ真っ正直に、好きな人を好きだと言い、真摯に自分の心に従いたい。

 やり直せるなら……


   ◆◆◆


 夏の井之頭公園は、うるさいほどに蝉が鳴いていた。

 陽射しは焼けつくようで、何もせず立っているだけで肌が汗ばむ。

 真っ青な空には白い入道雲。小さなヒマワリの鮮やかな黄色が目に沁みる。

 氷水に浮かぶラムネが涼しげで、思わず二本買ってしまった。

 夏の緑は濃い。遠目にはほとんど黒に見える。

 日傘を閉じ、日陰のベンチに腰掛けて池を眺めていると、誰かの足音が近付いて来た。砂利を踏む音は、何かを迷っているようにリズムが乱れている。

 予感はあるが、まだ振り向いてはいけない。

「偶然ですね」

 ああ、息が止まるかと思った。

 声をかけられて顔を上げると、おずおずと少し困ったように微笑む麻紀がいた。

 目深に白い麻の帽子をかぶり、鮮やかな真紅のサマードレスを着ていた。白いトートバッグとサンダルが涼しげで、麻紀の派手な美貌に小憎らしいほど良く似合う。

 だけど、陽に焼けていない青白い額には濃い疲労の翳が射していた。少し痩せたように見える。私も痩せた。あれからろくに食べられなかった。麻紀に会えないことが痛手で……

 何か言おうと口を開きかけたが、舌が上顎に貼り付いたように言葉が出なかった。

 私は力無く笑った。自分を嘲笑うように。

 麻紀はもう一度微笑んで、それから、今にも泣きだしそうに、くしゃっと顔を歪めて、震える声を絞り出した。

「三度、偶然に会いましたね」

 麻紀が何を言わんとしているのか、私には分かった。

 分かってしまった。

 三度繰り返し、には運命を感じさせる力がある。一度では特別な意味は成さず、二度では偶然にとどまり、三度で神意を得る。

 運命──という言葉が頭の奥で明滅した。

 彼女に出会ったのは運命のような気がする。

 誰かにこんなに惹かれたのも、こんなに好きになったのも、麻紀が初めてだ。

 抗い難い引力が麻紀と私の間にはある。

 きっとある。

「偶然……でしょうか。運命のような気がします」

 意を決して、私は立ち上がった。

 心は夏の青空のように澄んで晴れ渡っていた。


       fin.

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