Sugary Walk/08

 麻紀を振り切って捨てたというのに、隆の待っている彼の部屋には行けなかった。

 自分の部屋に帰って、閉じ籠りたかった。

 隆にLINEで、今日は熱があるから行けない、とメッセージを送った後、自暴自棄になって、特別な日に飲もうと冷蔵庫にしまっておいたカヴァを開けた。大丈夫か、と隆から折り返しメッセージが届いたが、返信できる精神状態ではなかった。

 アルコールに強いわけでもないのに、一人でカヴァを飲み干したから、酷い酩酊状態になってしまった。耳の奥と頭の芯でどくどくと血の流れる音がうるさかった。

 うとうとしかけた時、スマートフォンが鳴る。

 夢うつつで応答したら、麻紀だった。

《実桜さん、今日はごめんなさい。謝らせて欲しくて……》

 麻紀は真摯な声音だったが、酔っていたせいで乱暴な言葉が出た。

「二度と会いたくない。もう連絡してこないで」

 電話の向こうで麻紀が狼狽えるのが分かった。息を飲む気配が伝わり、数秒、痛々しい沈黙が続いた後、ごめんなさい、と絞り出すような声が聞こえた。

「じゃあ、さよなら」

《待って。私が悪いのは分かってる。でも、そんなこと、納得できない》

「私は納得してる。あなたは嘘つき。だから信じない」

 麻紀は必死な様子で追い縋って来た。

《あなたが好きなの。信じてもらえるチャンスが欲しい》

 そんな言葉、もう空々しい。

「無理よ。傷付きたくないの。お願いだから放っておいて」

《実桜さん、実桜──》

 麻紀の悲鳴のような呼びかけを無視して、私は強引に電話を切った。それから、麻紀の番号を着信拒否に設定する。メールも、LINEも同様に。

 あまりにも惨めで情けなかった。スマートフォンを投げつけて壊してしまいたい。そんな衝動が湧き起こったが、頭のどこかが冷静で、そんな事は出来なかった。

 代わりに、ベッドに突っ伏して声を上げて泣いた。


   ◆◆◆


 隆に対しては、もう、どうしようもなかった。

 麻紀と絶縁してから、隆に呼び出されて彼の部屋でデートをしたが、砂を噛むようなザラザラとした倦怠感と嫌悪感が渦巻いて、触れられたら鳥肌が立った。体を求められて、体調が悪いと誤魔化したが、原因は体調不良などではないと私自身がよく分かっていた。

 もうダメだ、と心底落ち込んだ。

 私はもう、麻紀でなければダメなのだ。

 三日後、改めて隆の通勤途中にある池袋の珈琲店に彼を呼び出して、別れ話を切り出した。

「自分勝手で申し訳ないと思います。でも、あなたと結婚は出来ません」

 目を見てこの上なくハッキリと要件を告げたつもりだったが、隆はきょとんとして的外れな事を言った。

「別れたいって意味?」

 そうです、と私は頷いた。

 私の言わんとしている事を理解し、やっと隆は取り乱し始めた。テーブルに両手を突き、前のめりになって唾を飛ばす。

「どうして? 俺のどこが悪かった? 言ってくれ」

「隆は悪くない。ただ、私の気持ちが、もう隆には無いの」

 冷めてしまった。完全に。

「気持ちがあるとか無いとか、結婚はそういう問題じゃないだろう。もう皆にも婚約したって言っちまったし、親にも挨拶しちまっただろう。どうすんだよ?」

 隆は半狂乱になっていた。

 だが、幸いまだ結婚式場は決めていない。それは隆がもう一年遊ばせてくれと傲慢な我儘を言ったせいだが、別れを決意した今となっては、隆の我儘のお陰で救われた。キャンセル料などの金銭的な損失は無い。招待状ももちろん誰にも出していないし、上司に挨拶をしたという事実も無い。ただ、お互いの両親には挨拶をしてしまったし、身近な友人にも婚約した事は告げてしまったが、それだけだ。

「ごめんなさい。皆にもきちんと謝ります」

「だから、そういう事を言ってんじゃないって!」

 隆は声を荒げ、持っていたグラスの底を乱暴にテーブルに叩き付けた。

 静かだった店内にその声と音は不躾に響いて、他のテーブルに居た客達の視線が一斉に集まる。言い争いの内容を探るような好奇の視線に混じって、店員は迷惑そうな視線を投げて来た。

 隆は必死に自分を抑えようとしていた。テーブルの上で握りしめた両手が小刻みに震えている。俯いた顔はハッキリとは見えないが、たぶん、私が今まで見た事の無い、怒りと悲しみに歪んだ顔をしているのだろう。

 申し訳ないとは思ったが、それでも、麻紀に出会う以前に彼に抱いていたはずの愛情は甦らなかった。

「なんでだよ……」

「ごめん」

「だから、なんでなんだよ……」

「本当にごめんなさい」

「……俺の何が悪いんだよ」

 その言葉を耳にした瞬間、私は驚きに目を見開いていた。

 別れたいと告げた直後に、俺のどこが悪かった? と優しく問いかけてきた時と、微妙に言い回しが変わっただけだが、思いがけない下劣な言葉だった。

「俺の何が悪いんだよ……」

 隆は、自分には何の負い目も無かったと思っているのだ。私という婚約者がいるのに合コンに参加していた事や、私を時々軽く扱った事や、まだ遊びたいから結婚を先に延ばしてくれと言い放った事など、すべて、彼の中では負い目にもならない当然の行動だったという事か。

 それどころか、俺は何も悪い事はしていない。俺のどこが不満なんだ、と上から目線で私を責めている。

 この俺と結婚できるのに、何が不満だ、と──

 呆れ過ぎて眩暈がした。

 ああ、そういうところが、結局は愛せなかった原因なのだと、私は初めて悟った。いや、今までもずっと無意識下で感じていた真実を、初めて言語化して、明確に理解した。

 誤魔化しの霧が晴れただけなのだ。

 こんな男を今まで愛していると思い込んでいたなんて、私は本当にバカだった。

 隆は、私がうんざりして席を立つまで、くどくどと粘着質に私を責め、俺はこれからどうしたら良いんだよ、と泣きそうな声で愚痴り続けていた。

 私は芯から白けて、いっそ笑い出しそうだった。


   ◆◆◆


 

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