02【指輪とビールと優しい嘘つき】

指輪とビールと優しい嘘つき/01



「今時の若い子にはわからないかもしれないわね」

 ブラインドデートという古い言葉を聞いたのは、私が幼い頃だった。吉祥寺に住む祖母が笑って話してくれたのだ。祖母は若い頃からハイカラな人だったらしく、歳を取ってからもお洒落を忘れず、いつもきちんと髪をセットし、上品な薄化粧をしていた。そんな祖母が、若い頃の思い出話のついでに、私達の世代には馴染みの無い祖母の時代の若者文化を色々と教えてくれたのだ。そんな流れの中で、ブラインドデートなるものを知った時、私は少しワクワクした。

 ブラインドデートとは、元々は欧米の若者文化で、友達などの紹介で、初対面の男女が顔も知らぬまま、仲介者を交えず一対一で待ち合わせをしてデートするカジュアルなお見合いのようなものだ。仲介者は、男女それぞれにお互いの連絡先を知らせた後は関与しない。当人同士が連絡を取り合う中で、相手とフィーリングが合わないと思えば、関係を進展させず、デートもしなくてもいい。会いたいと思った場合だけデートをして、それで二人が合意に至れば恋人になればいい。気楽なものだ。もっとサプライズ的なブラインドデートもある。恋人候補の異性を紹介すると知らせずに、仲介者が待ち合わせ場所に連れて行って引き合わせた男女をいきなり二人きりにするのだ。まるでハリウッドの恋愛映画のようで楽しい。

 まだ十歳の少女だった私は、ブラインドデートに憧れた。

 時を経て、インターネットが発達した現代では、仲介者なしで見知らぬ人と出会えるようになった。

 SNSでの出会いは、少しだけブラインドデートに似ていないだろうか。まあ、リスクが断然違う。ブラインドデートは友達や知り合いの紹介だ。相手の身元はある程度は保証されている。SNSでの出会いには保証が全く無い。相手が犯罪者である危険もある。高額な品を売りつけようとする詐欺師に当たれば財産をだまし取られるかもしれないし、強盗や乱暴目当ての凶悪犯に当たれば殺されてしまう事もあるかもしれない。

 しかも、私の性癖は特殊だ。女性でありながら女性に惹かれてしまうのだ。男性ともお付き合いはできたし、結婚までしたので、生粋のレズビアンではなくバイセクシャルだけど、どちらかと言えば、女性に惹かれる比率のほうが高いと思う。

 LGBTの恋愛は難しい。まず出会いが無い。だから、共通の悩みを持つ仲間を求めてインターネットの世界を彷徨うのだけど、噂では、そうしてSNSでやっと知り合った相手に、性癖を理由に脅される事もあるという。ハイリスクだなぁ、と思う。

 だけど、知り合った場所がどこであれ、また、デートをするまでの経緯がどうであれ、顔も知らぬ二人が待ち合わせてデートをする――それだけは、古き良き時代のブラインドデートと同じだ。

 相手が、自分と同じように、恋に憧れ、些細な出会いを求めている人でさえあれば、恋に落ちる可能性はきっと古き善き時代のそれと同程度にはあるだろう。

 そう。運命の相手でさえあれば……


   ◆


 新宿駅東口の階段を登り切った横、交番前の待ち合わせ場所に決めたのは、まさか交番前に犯罪者がのこのこと顔を出すことは無いだろうと思ったからだ。待ち合わせを決めるメールで、交番の真上にあるスターバックスではダメかと問われたけれど、私は頑として交番前での待ち合わせを譲らなかったし、相手も執拗にはこだわらなかった。それで、寒風吹きさらす中、交番前などという味気ない場所での待ち合わせになった。

 夕暮れの迫った空は薄曇りで、十二月の街はクリスマス一色に飾られている。見慣れた人混み。沢山の人が分厚いコートに身を包んで、寒さに背を丸めて歩いて行く。駅前の簡素な木は青いイルミネーションを巻きつけられて居心地悪そうだ。

 指輪を外して、少しむくんだ左手薬指を揉みながらエスミを待っている間中、私は一瞬たりとも落ち着かなかった。

 私は、もうじき三十歳になる。職業は事務系の一般職で、四年前に結婚したが、子供はいない。夫婦仲は円満と言っていい。だけど、満たされない何かを抱えていた。その理由をはっきり自覚したのは四年前、結婚したばかりの頃だった。

 結婚一年目、結婚を機に転職もし、地元を離れて東京郊外に借りた賃貸マンションで新生活は始まった。夫は休日出勤が続いていて、慣れない土地で周りに友達はいなかった。私は休日を一人ぼっちで手持無沙汰に過ごすはめになっていた。

 そんな時、一人の時間の暇つぶしに、新居のリビングでなにげなく見た映画がきっかけになった。作中のワンシーン──ある女優が服をゆっくり焦らすように脱いで行くシーンだった――その情景がテレビ画面に映し出されている間中、私はじっと物欲しげに彼女の背中を見詰めてしまっていた。持っていたグラスを落とすまで、私は自分が我を忘れて女性の裸体を凝視していたことに気付かなかった。

 ガラスの砕ける音が響いて、突然、ハッと何かが弾けるように、自分が綺麗な女性に性的な魅力を感じていたことに気付いた。

 あの肌に触れたい、あの体に抱きしめられたい、あの唇にキスして欲しい、そんな異様な情欲が私の背筋を騒がせた。

 信じられなかった。

 新婚で幸せなはずなのに、どこか満たされなかったのは、私の女性に惹かれる性癖のせいだったのだ。私はずっと自分がレズビアンだなんて思いもしないで生きてきた。それなのに、自覚してしまったら止められなかった。綺麗な女性を、憧れだけではない、欲に濡れた目で見てしまう。

 こんなこと口が裂けても身近な人間には言えない。

 私はインターネットの世界に救いを求めた。自分はおかしくない。同性に魅かれてしまうのはおかしくない。この感覚を共有できる誰かと話したい……

 辿り着いた掲示板で、私は彼女――エスミと知り合った。

 最初はただ悩みを語り合うだけで良かった。だけど、次第にメールのやりとりが増えていき、そのうちにエスミの実像に興味が湧いてしまった。生身の彼女に会ってみたくなった。もしかしたら私の理想の女性かもしれない、彼女となら情熱的な恋ができるかもしれない、と都合の良い妄想をするようになってしまっていたのだ。そんな時に、相手のほうから「お会いしませんか」とやけに礼儀正しく誘われて、断るには心が動き過ぎてしまっていた。

 会いたいけれど、怖い。

 怖いけれど、会いたい。

 グズグズしていると、もう一度、「会いましょう」と簡潔なメールが届いた。余計な粉飾の無い強く単純な言葉で押されると人間は弱い。

 何度も迷って、私が出した返信の文面は「かまいませんよ」だった。

 ここに至るまでの経緯を考えて少しだけほんやりしていた私の手の中で、携帯端末が短く震えた。エスミからのメールだった。もうすぐ待ち合わせ場所に着くことと、自分の今日の服装を詳しく伝えてきた。

 端末をバッグにしまい、手袋をしていない両手に息を吹きかけて温めた。指先が冷えてしまっている。

「あの……」

 現れた彼女は、最初、おどおどした様子で話しかけてきた。ほんの一分前にメールで伝えられた通りの服装。シンプルな黒のダウンコートにキャメルのマフラーとニット帽、足元は細身のブルージーンズに黒いミリタリーブーツだった。

「カミヤさん、ですか?」

 加宮というのは私の祖母の旧姓だ。SNSでバカ正直に本名を名乗るのは不用心だし、抵抗がある。かと言って、自分からかけ離れたハンドルネームも恥ずかしい気がして、あまり考えずに、大好きだった祖母の旧姓をカタカナで使うことにしていた。

「あなたがエスミさん?」

 用心深く相手を確かめながら、私はチラリと交番の警察官に視線を向けた。彼女に何か不審な真似をされたら交番に駆け込む――というつもりではない。何かあっても、そんなことは出来ない。恥はかきたくない。私には既婚者のくせにSNSで出会った同性愛者とデートのための待ち合わせをしたという弱みがある。だから、ただ不安をなだめるために警察官を見ただけだ。そんな風に私はピリピリと警戒していたのだけど、エスミはあまり警戒していない様子だった。

「はい、エスミです」


   (つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る