指輪とビールと優しい嘘つき/02

 待ち合わせの相手だと確信すると、彼女ははじけるように笑った。思わず毒気を抜かれそうになる。それくらい屈託のない爽やかな笑顔だった。

「良かった。ちゃんと来てくれたんですね」

「え、ええ。だって、約束したじゃないですか……」

 そう言いながら、私は今さらそのことに思い至った。すっぽかされるかもしれないという不安はなぜか無かった。もっと悪質な不安のほうが強くて、些末なことにまで気が回らなかったのだ。

 待ちぼうけを食らっても、実害なんて無いじゃない。

 もっと怖いことを心配しなさいよ。

 なんとなく苛立って、心の中で毒づいた。メールは何十通も交わしていたが、初めて顔を合わせるのだ。相手がどんな人間か、もっと疑って当然なのに。

 私はこの時、エスミに会いたいと思っていた自分を棚上げにしていた。ご都合主義で、狡くて、わがままで、何も考えていなかったのだ。それどころか、勝手に理想の女性の姿を妄想し、勝手に失望して、憂鬱にさえなっていた。

 エスミは、私の好みのタイプではなかった。

 決して容姿に恵まれていない人ではない。どちらかと言えば、美形に分類されるのではないだろうか。ニット帽でくしゃくしゃになったボーイッシュなショートヘアに、人好きのするサッパリした顔立ち。ノーメイクで、服装も男っぽい。ネコの女の子からモテそうに見える。ただ単に私の好みではないだけだ。だけど、私は彼女を恋愛対象としては見られそうもない。

 私は、嫌みなくらいフェミニンな女性が好きなのだ。

 インターネットで知ったことなのだが、レズビアンの世界に限らず、ネコと言えばたいていフェミニンで、タチと言えばボーイッシュをイメージする人が多いらしい。

 タチとは、下衆な言い方をすれば男役をするレズビアンで、タチはボーイッシュという先入観がある。ネコは受け身の女役のことを指す。もちろん、性のあり方は多様で、一概に男性的ならタチ、女性的ならネコとばかりは言えないし、タチとネコの境界は曖昧で両方の要素を持っている人が大半だそうだ。それでも、外見のイメージは精神にも作用するようで、外見のイメージ通りという傾向はある。あるいは内面が外見に作用するのか。ともかく、私はフェミニンな外見だし、精神的にも受け身なタイプで、女性との経験はないが、たぶんネコだ。SNSで目にした噂によると、フェミニンなタチは少なく、また、そういうタイプが好みという私は、マイノリティの中でも更なるマイノリティらしい。

 我知らず、溜息がこぼれる。

 メールで教えてもらったエスミのプロフィールは、二十九歳で、身長は百六十センチ、普通に女性に見える容姿だという事だけだった。それ以上を細々と訊ねるのは、なんとなく失礼な気がして、くどく問う事はできなかった。それに、私には自分が既婚者なのを隠しているという負い目があった。

 メールでは気が合うと思ったのに……

 とにかく、実際に会ってみたエスミは、私の好みではなかった。適当にお茶を濁してこのデートは終わりだ。デートだと思っているのは私だけかもしないが、でも、私は少なからず、まだ見ぬエスミという女性に恋愛的なものを期待していたのだ。だから、指輪を外した。

 勝手なことを……と自分でも思うが、会って二分で、私はエスミを片付けていた。

 今後、この人とは友達として距離をおこう。

「どこに行きます?」

 私の狡い内心など知らないエスミは屈託なく笑って、小首を傾げた。気が重くなっていて、素っ気なく「任せます」と応える。憂鬱な時間が始まると思っていた。

 エスミは少し考えるような仕草をしてから、またクシャッと笑った。

「じゃあ、ちょっとゲーセン行きません?」

「え、ゲームセンターですか?」

 その提案を聞いて、ますます気分は重くなった。

「もう、そんな場所に行ける年齢じゃ……」

「大丈夫。私もよく行きますから」

「でも……」

「大丈夫ですよ。カミヤさん、さっき、任せますって言ってくれたでしょ。だから、ちゃんと楽しんで貰えるように考えてます」

「だって、新宿のゲームセンターですよね?」

「ああ、そういう心配ですか」

 エスミは片手を軽く握って、もう一方の手の平をポンと打った。

「まだ早い時間だし、怖い人や変な人はいません。ちゃんと警察官も見回りをしている店ですし、ゲーセンにしては店内も綺麗で安全ですよ」

 そこまで言われては、それなら、と渋々頷くしかなかった。

 でも、ゲームセンターなんてほとんど言ったコトが無いし、好きじゃない。

 しかも、仕事帰りに待ち合わせをした為、その日の私の服装は堅い印象のワンピースと無個性なダウンコートで、仕事用の書類が入ったバッグを肩にかけ、靴も地味なパンプスだった。いかにも会社員の通勤着という格好で、不釣り合いにカジュアルなエスミと、選りにも選ってゲームセンターに行くなんて……

 憂鬱を通り越して、私は不機嫌になった。私の表情には、きっとその気持ちが雄弁に現れていたはずだ。

 エスミはどう思ったのだろう?

 緊張しているとでも取ったのか、気にせず、サッサと歩き出した。私に歩調を合わせるでもなく、振り返りもしないでどんどん先に行ってしまう。嫌々歩く足取りは重く、いっそこのまま、はぐれたフリをして消えてしまおうかと思った。

 そう思った瞬間、くるりとエスミが振り向いた。

「この速さで大丈夫?」

 思いやりのある言葉だったが、お陰で逃げられなくなった。はあっと、一息、苛立ちを吐き出して、私は習い性になったひきつった笑顔を作る。

「大丈夫です」

「もう少しゆっくり歩く?」

「ううん。大丈夫だから」

 そう私は言ったが、エスミは、今度はゆっくり歩き出した。時々私を振り返りながら、こっち、と手振りで道を示しながら進んでいく。

 途中、エスミは百果園で串刺しのパイナップルを買った。「カミヤさんもどう?」と勧められたが、田舎から出て来たおのぼりさんのように見られるのではないかと、変なことが気になって断った。エスミは自然な様子で食べながら歩く。少し行儀が悪いように見えたけれど、板についていて、そんなに浮いている感じには見えない。周りを見ると、店の横や道路脇などで、肩の力の抜けた人達が気軽な様子で頬張っている。小綺麗なスーツを着た出来るキャリアウーマンという雰囲気の女性もその中には混じっていた。つまり、この街に馴染んでいる人達が食べているということだ。地方出身者の私は、東京に不必要な劣等感を抱いていた。食べるのが恥ずかしいなんて、私の気にし過ぎだったのだ。

 ゲームセンターは、駅からすぐ近くにあった。エスミの言う通り、雰囲気は明るく掃除も行き届いていて、それほど嫌な感じはしなかった。店内にいるのは若い子ばかりだろうと思っていたが、意外なことに私と同年代に見える客も多い。仕事帰りの気晴らしに少し立ち寄ったという風情だ。煙草の臭いも耐えられないほどではない。

 一緒にプリクラを撮ろう、とエスミは言った。私は渋ったが、強引に手を掴まれて、プリクラのカーテンの中に引き入れられた。

「待って、プリクラなんて……」

「大丈夫、大丈夫。今のプリクラって、ものすごく綺麗に映るんですよ」

 そう言われて、なんとなく嫌な気分になった。綺麗に映るという事が引っ掛かったわけではない。初対面の人間に簡単に自分の肖像を与える事が、だ。それはとても怖い行為なのではないか。私が、同性愛者の彼女と一緒にいたという決定的な証拠になる。WEBで知り合った人に性癖を理由に脅された、という噂を思い出してゾッとした。

「ごめん。私、写真は……」

 そう言いかけた時、エスミは自分の掌を私の目元にかざした。

「これで、顔は映らないでしょ?」

 同時にフラッシュが光り、ディスプレイに、目元を隠された私と、屈託なく笑うエスミの顔が並んで映し出された。

「これでいい?」

 いいも何も、私は映っていないも同然だ。エスミだけが笑っている。

「これでいいの?」

 困惑が声に出た。

「日付もいれよう」

 エスミは、私の様子には気づかない調子で、付属のタッチペンでディスプレイの私達の写真に日付を書き入れると、さっさとプリクラ撮影を完了させてしまった。あとは印刷された写真シールが出てくるのを待つだけだ。

 シール取り出し口をじっと見ながら、エスミは勝手に話し始めた。

「日付を入れておいたら記念になるし、記録にもなるでしょ。最初は目隠しだけど、私を信用してくれたら顔出しで、好きになってくれたら、手をつないで写ってくれるかもしれない。ゆっくり、仲良くなっていく過程の記念が残るよ」

 カタンッ、と、取り出し口の鉄底に、印刷が終わったシールがすべり落ち、こちらを向いたエスミの瞳が私を映した。

「カミヤさんとは、仲良くなりたい」

 不意打ちだった。

 こんなに真っ直ぐに、仲良くなりたい、と言われて、拒絶できるだろうか。

「私も……仲良くなりたいと思うよ」

 精一杯、気持ちを取り繕って私は言ったのだが、エスミは、

「そう思ってもらえるように頑張るよ」

 と言った。少し淋しそうだった。

「出ようか?」

「え?」

「もうゲーセンには用は無い。それとも何か取って欲しい?」

 エスミはクレーンゲームを指差したが、私は正直、その手の景品が嫌いだった。ガラスの向こうに山積みされたぬいぐるみやストラップなど、安っぽくてうんざりするのだ。

 趣味じゃない。

 景品も、こんなデートも、エスミも、趣味じゃない。

 私は何も言わなかったが、気乗りしない表情を隠す気は、もう無くなっていた。

 エスミは軽くため息をついた。



   (つづく)

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