指輪とビールと優しい嘘つき/03

「無理をする気はないよ」

 二重の意味でそう言った、と後で気付くのだが、その時の私にはそこまではわからなかった。エスミは、私に恋愛を無理強いする気が無い、と言うと同時に、自分も、あなたの心を乞う為に無理をする気は無い、と言ったのだ。自分にできる事は知れている。生まれも、育ちも、職業も、収入も、教養や遊びのセンスも、無理してもどうにもならない。できる範囲でしかできない。

 エスミは、背伸びをせずに好意を乞う人だった。

「居酒屋でもいい? 安い店なら奢れるよ」

 歩きながら、浅く微笑んで言ったエスミに、私は少しカチンと来た。

「奢ってくれなくていいです。私はちゃんと働いてるから」

 言ってしまってから失言に気付いた。私は、と限定してしまった。口が滑った。エスミの軽い服装から、勝手に想像して、定職についていないと決め付けていることが察せられる言葉になってしまった。

「私も、ちゃんと働いてるから」

 また、エスミが淋しそうに笑った。奢ってくれなくていいと言ったのに、どうしても奢りたいと言い張られる。柔らかい口調だし、態度も険が無いのに、なぜかエスミは譲らなかった。プライドを傷つけてしまったのだろうか、と罪悪感に囚われる。

「だって、一方的にお金を払ってもらう理由が無いから……」

「分かった。じゃあ、次はカミヤさんが奢ってよ。ね?」

 私は根負けして頷いた。次は無いと切り捨てているのに、そんな約束……

 エスミが連れて行ってくれたのは、本当に安い居酒屋だった。仮にも初対面なのに、どこにでもあるつまらないチェーン店に入るなんて信じられなかった。

 そう言えば、エスミは一度も私と並んで歩いていない。いつも、少し前を自分のペースで歩き、遅れた私を振り返り、立ち止まって待っては、また自分のペースで先に行った。

 色々な事が気に入らなくて、だけど、エスミは何も悪い事はしていなくて、拒絶する決定的なモノが無い事にまでイライラして、私は妙に情けない気分だった。

 カウンター席に案内され、隣同士で座った途端、エスミは、私に何も聞かずに、生ビールの中ジョッキを二つと、つまみを適当に何品か注文してしまった。そんなところにまでイライラして、私はついムキになって言った。

「ビールは嫌いなのに。どうして注文くらい訊いてくれないの?」

「まあまあ、任せてよ。カミヤさん、あなた、今日は何しに来たのか忘れてる。思い出させてあげるから、任せてよ」

 ニヤリ、と、エスミは初めて毒を含んだ顔で笑った。

「カミヤさん、いつもと違う事しなくてどうするの? あなたさ、日常から逃げる為に来たんじゃないの? そうなんでしょ?」

 エスミは、あごに手の甲を当てたまま、ほんの少し下品な仕草で、私の左手薬指を指さした。

「指輪を外すタイミングが遅いよ。跡が残ってた」

 カアッ、と顔が赤くなるのがわかった。恥ずかしさと、見抜かれた悔しさと、なんとはなしに見下されたような気分が綯い交ぜになって、私は何も言えなくなってしまった。

「私……」

 帰ります、と言いかけたら、エスミは私の腕にそっと触れて、小声で囁くように言った。

「カミヤさん。別にいいよ。初めて顔を合わせた時に、私は、カミヤさんならそれでもいいと思ったから」

 あっ、と声を上げそうになった。プリクラを撮った時点で、エスミはもう私が既婚者だと気付いていたんだ。気付いていたから、あんな目の隠し方をして私を写してくれた。自分はあんなににこやかに笑って……

「座って。みんなが変に思うよ」

 優しい笑顔だった。

 私は泣きそうになるのをこらえて、座りなおすのがやっとだった。

 しばらくして注文したビールが運ばれてくると、エスミは、何事も無かったような明るい調子で「乾杯」と言い、カウンターに置いたままの私のジョッキに自分のジョッキをカチンと当てた。

「飲もうよ。ほら。気にしないで」

「うん」

 胸に沁みるビールだった。

 ほろ苦く、冷たく、優しく、私の中に入ってきた。

 一口飲んで、溜息をつき、今度はジョッキの半分までを一気に飲んだ。

「いい飲みっぷり」

 おどけた表情で言ってから、エスミは居酒屋にいる間中、他愛のない自分の日常や、愉快な友達の話を、一人で勝手に喋り続けた。私はただ聞いているだけでよかった。ただエスミに甘えて、そこに座っているだけでよかった。酒の席で初めて何も気配りをしなかった。誰といてもいつも何かしら気を遣って、注文をしたり、料理を配ったり、酒をついだり、話題を振ったり、あくせくと常に何かしているのが私だった。人に任せてただ座っているのが、こんなに快いなんて初めて知った。

 エスミは、私のジョッキが空くと自分も慌てて残りを飲み干して、おかわりを注文してくれ、料理もバランスよく追加してくれた。話し上手で、その話を聞きながらだと、居酒屋のありふれた料理も、平凡なビールも、不思議なくらい美味しくて、知らず知らずに飲み過ぎてしまっていた。笑いと酔いのお陰で緊張がほぐれてくると、あんなに苛立たしかったエスミのスタイルも、かえって心地好く魅力的なものに思えて来た。隠し事をしていた私をサラッと許してくれた懐の深さに、感謝以上のものを感じていた。

 第一印象はすっかり書き換えられていた。

「エスミさんに、出会えてよかった」

 私は心から言った。

「うん」

 笑って、エスミはカウンターの下で、そっと私の手を握った。

 それはほんの一瞬で、決して性的な触れ方ではなかった。

 エスミの爽やかな人柄が現れた、温かい信頼のしぐさだった。

「そろそろ出ようか。店を変えよう」

 エスミが勘定を済ませる間、私は寄ってふらふらしながら待っていた。

「ありがとう」

「じゃ、行こうか」

 エスミは、自然に私の手を繋いで歩き出した。

 相変わらず並んでは歩かない。少し先を、だけど手を引いてくれながら歩いて行く。

 花園神社の鳥居を横目に、ゴールデン街の入り口を無視して、さらにその先へ……


   ◆


 新宿二丁目の通りを抜けて、私は、私は今日初めて会った人と歩いていた。

 今日初めて会った、とても優しい人と……

 雑踏の騒音と、煩雑過ぎるネオンに、胸が締め付けられて切ない。すっかりエスミに心を許した私は、このままずっと、エスミと手を繋いで歩き続けたいと思っていた。

 エスミの連れて行ってくれた店は、人通り多い道を一本入った静かな場所にあり、店員も客も女性しかいなかった。

 カウンターと二人掛け用の小さなテーブル席が一つしかない、客が十人も入ればいっぱいになってしまう狭い店だ。それでも、スーツ姿の女性バーテンダーの背後の棚にはズラリと酒瓶が並んでいる。本格的なカクテルを出してくれそうだ。店内のインテリアは落ち着いたヨーロッパ調で、壁には森を想起させるアラベスクの壁紙が貼られ、青い照明がロマンチックに店内を照らしている。

 エスミと二人、奥のテーブル席に座ったら、先客の女性二人がチラリと視線を投げてきたが、すぐに自分達の会話に戻っていった。

 お香が焚かれているようで、上品で甘い芳香が漂っている。

「女の人しかいないのね?」

「そういう店だから」

 エスミの含みがわからずに首をかしげたら、レズビアンの為のバーなんだよ、と小声で教えてくれた。

「だいぶ酔ってるね。少し酔いを覚ましたほうが良い」

 エスミは、私にはオレンジティーを、自分は黒ビールを注文した。

 しばらく、彼女は無言だった。居酒屋でのお喋りが嘘のように、黙ってジャズに聴き入り、頬杖をついて時々視線を投げてくる以外は、嫌になるくらい何もしてくれなかった。

 私は焦れて必死に縋る声を出した。

「何か言って」

 囁くように言ったはずの言葉は、意外に大きく響いて、私をひどく動揺させた。自分の声が迷惑になっていないか気になって、先客の二人とバーテンダーの顔色をうかがったが、みんな、聞こえないふりをしてくれている。

 エスミだけが困ったように笑いながら、意地悪に私を見ていた。

 その優しい顔に追い詰められる。

「何か言って」

 なんだろう、この気持ち。胸の奥がザワザワして、怖くて走って逃げ出したくなるような……だけど、いつまでも味わっていたい気もする。ドキドキして、たまらなく気持ち良い。変な気分だ。私は、どこかおかしくなってしまったのだろうか。

 エスミは相変わらず黙り込んだままだ。

 イライラする。

「ねえ、何か言ってよ――」

「また会ってくれる?」

 不意打ちのようにエスミは私の心の真ん中を射抜いた。

 オレンジティーの氷が、カランッと硬い音を立てて崩れる。

 もう会わないつもりだった。エスミは好みのタイプじゃなかったから。

 ふと、祖母に聞いたブラインドデートの話を思い出した。私とエスミの出会いも、仲介者はいないけれど、私が幼い少女の頃に憧れたブラインドデートだった。これは気軽な出会いで、お互いに何の責任も無い。フィーリングが合わなければ関係を進展させなくてもいいのだ。気に入らなければその場限りで終わり、何も気にする必要はない。

 だけど、もしも、お互いが運命を感じたら……

「また会って欲しい」

 言いながらテーブルの下で手を握られた。振り払わなければいけない。こんなことダメだ。拒絶しなければ、彼女の要求を受け入れたようになってしまう。だけど、軽く掴んでいるだけのエスミの手を、私は振り払えなかった。

 酔い冷ましの紅茶が一層私を酔わせている気がして、怖くなって目を閉じた。

 耳に、彼女の声が弱く響く。

「また会いたい」

 小さな声なのに、その言葉は私の心を強く打った。

 閉じた目の端から涙が零れそうで、目を開ける事はできなかった。

 唐突に、エスミを愛しいと思った。

 私は生まれて初めて、声を出さず、涙も出さずに泣いていた。

 もう、恋に落ちていた……


   Fin.


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