Sugary Walk/05

 それでも、私は現実を生きなければならない。

 隆に会って、婚約者らしく振舞って、将来の安定を繋ぎ止めなければ。

 気乗りはしなかったが、隆の住むマンションの最寄り駅に向かった。池袋から数駅の学生の多い街で、隆は大学時代に上京して以来ずっとこの近辺に住んでいるらしい。

 改札を抜けると、黒いロングTシャツにダークブルーのポロシャツを重ね、黒いデニムパンツとショートブーツに革のボディバッグを合わせた隆が待っていた。手首にはがっしりとしたタグホイヤーが存在を主張している。爽やかな好青年然とした笑顔。目を見張るほどの美形ではないが、申し分ない容姿だと思う。十人中七人はカッコイイと言ってくれるのではないだろうか。隆には欠点らしい欠点は無い。何でもそつなくこなすし、明るく気さくなムードメイカーで、空気も読める。

 この人と結婚すれば、順風満帆の人生を歩めるだろうと容易に想像が付く。一戸建てのマイホームと国産車のマイカー、週末のレジャーと、少し面倒な親戚付き合いと近所付き合い。子供が産まれれば可愛いだろうし、余裕があれば犬を飼うのも良い。

「実桜──」

 私を見付けた隆は片手を上げて駆け寄ってきた。

 感じの良い、いつもの隆だった。

 正午の待ち合わせだったので、駅前のカフェでランチを食べようという事になり、通い慣れたその店に向かう。学生街には珍しく本格的な珈琲を出している店で、学生よりも会社員をターゲットにしている為、客層は落ち着いている。

 案内された入口に近い席に隆と向かい合わせで座って、私は和風きのこパスタを、隆はボリュームのあるカレードリアを注文した。二人分の珈琲も付け足す。

 グラスの水を一口飲んで、隆はおもむろに切り出した。

「最近どうしてた? そんなに仕事が大変なのか?」

「うん、少し面倒な事が重なって……」

 言葉を濁す。仕事が忙しいというのは嘘だ。麻紀にも同じ嘘をついている。

「なんか冷たくされてる気がしたから、ちょっと心配したよ」

「冷たかったかな?」

 自覚していたくせに、心外な事を言われて驚いたふりをした。我ながら下手な演技だと思ったが、隆はそれ以上疑わなかった。

「実桜は要領が悪いからな。余計な仕事を押し付けられやすいところがあるよな。もっとしっかりしないと、人に利用されて損ばかりする羽目になるぞ」

 鷹揚に笑って椅子の背もたれに身を沈めた隆は、偉そうで嫌な奴に見えた。

 思えば、ふとした瞬間に隆は性格の悪さを垣間見せる事がある。普段は爽やかな好青年の笑顔で巧妙に隠しているが、上から目線で誰の事も低く見ているフシが彼にはあった。

 それでも隆は、決して意地悪な人間ではない。そもそも欠点の無い人間なんていない。隆は人の顔色や場の空気を読む能力に長けているから、私のように要領良く立ち回れない人間が愚鈍に見えてしまうのだろう。彼が優秀だからだ。

 気分が弾まない。

 本当は麻紀と神楽坂へ行きたかった。

 麻紀には一昨日の夜、今週末は仕事が入ってしまったので来週末ではいかがですか、とLINEメッセージを送っておいた。こういうところ、私は狡いと思う。無視して麻紀の気持ちを冷えさせてしまうのが嫌で、次の約束を提案することで気を持たせて、繋ぎ止めておこうとしたのだ。

 私が上の空だったせいで会話が続かず、注文したパスタをウエイターが運んで来た後も、なんとなく白けたムードで味のしないランチを口に運んだ。

 隆はさすがに少し不機嫌そうにしていた。

 食後の珈琲を飲んでいた時、カフェのドアが開き、カラン、と乾いたベルの音が響いた。私の座っている席からは、店の入口は背後になっていて、わざわざ振り向きでもしない限り見えない。お二人様ですか、と訊ねる店員の声で、二人連れの客が入ってきたと分かったが、私は気にも留めなかった。

 次の瞬間、隆の目に好奇心の光が閃いた。おっ、と驚いたような様子で顔を上げる。有名人でも入って来たのだろうか、と入口に顔を向けようとした時、

「偶然ですね」

 後ろから不意に声を掛けられて驚いた。

 麻紀だった。

 きちんと髪をアップにして、ダークグレイのビジネススーツを着ている。

 井之頭公園で会った時のラフな印象とは違う。初めて会った時のような、周囲を圧倒する女優のような雰囲気だった。麻紀はフルメイクをするとクールな美貌が冴えるのだ。

 隆は獲物を前にした猫のように浮足立っていた。

「誰? すごい美人だな」

 聞こえよがしにそう言って、どうも、と麻紀と彼女の連れに会釈した。

 麻紀と一緒に居たのは初老の紳士で、仕立ての良いブリティッシュスタイルのスーツを着ていた。白い口髭を生やし、上品な書類カバンを小脇に抱えている。小さな会社の社長さんという印象だ。被っていた帽子を脱いで、どうも、と感じよく挨拶をしてくれた。

 麻紀は、隆の軽薄な態度に一瞬苦笑いを浮かべたように見えたが、すぐに完璧な営業スマイルを貼り付けて優雅に挨拶をした。

「初めまして、千早麻紀と申します。実桜さんとは仲良くさせて頂いています」

 凛とした声。隆はだらしなく鼻の下を伸ばして麻紀に挨拶を返す。

「どうも、新谷隆です」

 男が美人に弱いのは仕方がないが、それにしても婚約者である私の前で、よりにもよって私の友人にそんな態度をすることはないだろうに……

 隆にも腹が立ったが、少しだけ麻紀にも腹が立った。

「今日は、どうして……」

 麻紀は困ったように小首を傾げて微かに片眉を上げた。

「急ぎの依頼が入って、これからクライアントと打ち合わせなの。仕事相手と会う時はいつもこの店を使っているから……偶然ね」

 する必要の無い説明をする麻紀は、私に卑屈な言い訳をしているようにも見えた。

 偶然なのは分かってる。

 ただ、なんともいえない複雑な気分だった。

 私達の席のすぐ側の通路で待たされていた男性が、そろそろ行きましょう、とにっこり笑いながら麻紀に手招きをする。

「すみません、知人がいたもので……」

 連れにぺこりと頭を下げて、麻紀は立ち去り際に私の肩を軽く叩いた。

「こんな素敵な彼がいるなら、正直に教えてくれれば良かったのに」

 言われて、私はビクッと身を竦めた。

 麻紀は怒っている──?

 嘘をついた事を責められているのだろうか。仕事があると言った事も、付き合っている人はいないと言った事も、些細で、程度の軽い嘘ではないか。

 何も悪い事はしていない。婚約者がいるということは個人的な問題だ。まだ出会って間もない友人にプライバシーをすべて曝け出さなければならないという義理は無い。

 麻紀は友人だ。あくまでも友人なのだ。

 だから、私はただ言わなかっただけで、悪い事をしたわけじゃない。

 そう思うのに、罪悪感が込み上げる。

 麻紀に嫌われたかもしれないと考えただけで手の平にぐっしょりと汗をかいていた。

 私は勝手だ。

 狡い事をしておきながら麻紀にだけは嫌われたくないのだ。


   ◆◆◆


 珈琲を飲み終わってすぐに店を出たので、その後の麻紀の様子は分からない。

 クライアントと仕事の打合せをしながら彼女がどんな表情をしていたのか、怖くて視線を向けて確認する事が出来なかったし、お先に、と挨拶をする事もなく席を立ち、隆が支払いをするのも待たずに店の外に出てしまった。

 逃げてしまった。

 隆はしきりに麻紀の話を聞きたがったが、私は言葉を濁して、偶然知り合った友達だという話しかしなかった。

 隆の部屋で映画を観ている間も、夜になって私の好きな白ワインを開けた時も、ずっと私の気分は沈んでいた。相槌も打ち、そつなく愛想笑いだけは返していたから、場の空気がおかしくなる事はなかったが、隆の陽気さは虚しく空回りしていた。


   ◆◆◆


 翌日の夜。

 早い時間に麻紀から通話着信があった。

「もしもし?」

 嫌味のひとつでも言われるのではないかと身構えて電話に出たが、麻紀の声は雨上りの空のように晴れて爽やかだった。

《実桜さん、もし良かったら、今度の週末こそ神楽坂の料理屋に行きませんか? 少し多めに原稿料が入ったんです。ご馳走しますよ》

 まるで隆と一緒に居るところを見られた事など無かったような態度だ。明るい調子の、なんということもない食事の誘い。あの日、彼がいるなら教えてくれれば良かったのに、と言ったのは何だったのだろう。他意は無かったという事か。

 じゃあ、麻紀が私に好意を持っていると思った事が勘違いだった?

 それなら、あんな熱のこもった視線で見詰めて来たのは何だったのか。

 分からない。

 麻紀はいったいどういうつもりなのだろう。

「あの、私……」

 口籠ると、すかさず麻紀の明るい声が畳み掛ける。

《どうしました? ご都合が悪いですか?》

 都合は、悪いと言えば、悪い。その日も隆と会わなければならない。最近冷たかったとなじられ、今度の週末も一緒に過ごす事を別れ際に強引に約束させられていたのだ。

 断ろうとして、喉の奥が震えた。

 ここは微妙な潮目のような気がする。

 今断ったら、先週に続けて二度目だ。二度も続けて断れば、麻紀は、私にセクシャリティを理由に避けられているのではないか、と疑いはしないだろうか。

 麻紀にとっては、きっと、とても繊細な問題だ。

 私の側に避けるつもりが無くても、立て続けに断れば傷付けてしまう。避けていると思われてしまう。そうなったら、麻紀は二度と私を誘ってくれないような気がする。

 それは嫌だ──

《実桜さん?》

「あの、私……」

 無意識に隆と麻紀を天秤にかけて、私はどうしても踏ん切りがつかなかった。麻紀を繋ぎ止めておきたい気持ちと、これ以上深入りするのを危ぶむ本能がせめぎ合う。

 麻紀は私の逡巡を見透かしたように言った。

《お願いです。ストーカーの件で少し困った事があって、相談に乗って欲しいの。他の誰も頼れないから……》

 弱々しく懇願されて、思わず安堵の溜息をつく。

 そういう事なら、言い訳になる。ストーカー絡みで何かがあったというなら、麻紀の身の安全の為にも私は親身になるべきだし、麻紀に会って相談に乗るのは正しい行いだ。

 何も疾しい事は無い。

「あの、夜は他の友達に誘われていて、だから、あの……」

 息を吸い、吐き出す。

「昼間だけでも良ければ……」

《もちろん》


   ◆◆◆


 迷う必要なんて無いはずだった。

 隆と麻紀、結婚して子供をもうけて、親が望むような平凡で安定した人生を歩める相手は隆のほうだ。

 それに、私は同性愛者じゃない。

 今まで一度も女性に心惹かれた事は無かった。

 隆に対して燃えるような恋心があるかと問われれば、イエスとは言い難いが、それでも、隆を嫌いなわけではない。

 惹かれてはダメだと思いながら、麻紀を思い切れない。

 私はどうかしている。

 女同士で、どんな未来があるというのか。


   ◆◆◆


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