Sugary Walk/04
「え……」
隆の顔が浮かんだが、咄嗟に掻き消す。
「特に、いないけど」
思わず無意味な嘘をついてしまった。理由は無いが、なんとなく、麻紀の前では隆の話はしたくなかった。心地好い空気を変えてしまうような気がして。
「そうなの?」
パッと麻紀は顔を輝かせた。
とても嬉しそうだ。
微妙な違和感が湧き上がる。
どうしてそんなに嬉しそうな顔を──?
私に恋人がいないほうが都合が良い事情でもあるのだろうか。
分からない。
もしかしたら独身三十路女子の、仲間がいて良かった、というアレだろうか。麻紀にはそんな卑屈な意識は似合わないが、私は無理矢理そう片付けようとした。そうしなければ、その些細な違和感が奇妙な答えを引き寄せてしまいそうだったから。
思えば私は初対面から、麻紀は独身だろうと直感的に判断していた。ものすごく男性にモテそうだけど、家庭を持っているような感じはしない。生活臭が無いというか、とにかく結婚が似合わないタイプなのだ。
こんな美人でも劣等感なんてあるんだろうか?
勝手にそんな事を考えて、くすっと笑ってしまった。
「麻紀さんは、きっと素敵な人と付き合ってるんでしょうね」
半ば、麻紀に恋人はいない、と確信しながら私は言った。
「そんな、私なんてダメよ。誰も相手にしてくれないわ」
予想通り、麻紀は言外に独り身だと白状した。
やっぱり、と顔には出さずに得心する。
少しホッともしてしまった。どうして安堵したのか分からない。なぜか、水が体に沁みるように、麻紀が誰のものでもなくて良かった、と自然に胸に沁み通った。
私はわざとらしくずけずけと麻紀の恋愛事情に踏み込む。
「そんなことないでしょう。モテて困っているんじゃない?」
冗談めかして言ったら、麻紀は寂しそうに首を横に振った。
「私が好きになる人は、私を好きになってはくれないの」
またも些細な違和感と疑問が鎌首をもたげる。
麻紀が誘惑して乗らない男性がいるだろうか。稀にはいるかも知れないが、それは変人の部類の少数派だろう。
「そんなことないわよ。麻紀さんはすごい美人だもの」
「好きになってくれる人はいるけど、私の好きな人は私を好きにはならないの」
違和感がまた大きくなる。
「そうかなぁ、麻紀さんに好意を寄せられたら誰でもグラッとくると思うけど……」
「だから、私が好きになってもダメなのよ」
さっきから漣のように打ち寄せるこの違和感は、期待と言い換えてもいい。彼女は何かが違う。他の女性とは違う。予感が私に囁きかける。この人は特別な相手だ、と。
麻紀は特別だ。何か、私に対する引力のようなものを持っている。
それが何なのか知りたくて、私はつい踏み込み過ぎた。
「どうして? 麻紀さんみたいな美人、ダメなわけないでしょう?」
「ああ、もうっ」
麻紀はじれったそうに両手を振り下ろした。
ずっと息を止めて水中に潜っていた人が、我慢の限界を超えて、やっと水面に顔を出して、ぷはっ、と思い切り息を吸い込んだような、決定的に空気を変えるアクションだった。
麻紀の勢いに押されて、私はたじろぐように一歩下がってしまった。
怒らせてしまったのかとも思ったが、そうではなかった。
麻紀は、困ったようにではあったが、微笑んでいた。その表情はどこか少女っぽく、懐かしくも瑞々しい青春の香りを漂わせていて、私は場違いにもドキッとした。文化祭の前日、友達同士集まって好きな男子の名前をみんなの前で告白した、あの夕暮れの教室に良く似た、切ないような甘酸っぱい雰囲気に包まれる。
「言おうかどうしようか悩んでたんだけど、後になるほど言い難いから今言っちゃう。いいかな? ビックリしないでね?」
麻紀は、頬を少し赤らめ、瞳を潤ませ、まるで恋する乙女のように宣言した。
「え、なに?」
「私、男性が苦手なのよ。好きになるのはいつも女性で、だから、好きなタイプからモテるわけないの。たまに迷惑な奴が寄って来るだけよ」
はあ、言っちゃったあ、と大仰に両手を上げたり降ろしたりしながら深呼吸をし、フフッ、と自嘲するように麻紀は笑うと、麻紀は肩を竦めた。
「という訳なの。私、レズビアンなのよ」
驚いた──と言うのは嘘だと思う。正直、少しそんな気がしていた。
なんとなく気付いていて、私は敢えて麻紀に事実を口にさせたのだと思う。言語化される以前の違和感を弄び、責任を自覚しないまま、そわそわと浮足立つような兆候に誘われるまま、彼女にセクシャリティを告白させるまで追い詰めたのは私だ。
いや、予感していたというよりも期待していたのかもしれない。
麻紀がそうなら良いと思っていた。
興味本位で悪い事をしてしまったと突然気付いて、私は、遅ればせながら消沈した。
「あ……あの、ごめんなさ……」
「謝らないで」
言葉は鋭かったが、凛と顎を上げた麻紀の表情は爽やかだった。微笑んでいた。
「謝られたくない。ただ、知っていてほしいだけ」
「う……うん、分かった……」
ごめんなさい、とまた喉から出掛けて、慌てて口を噤む。
「また会ってくれる?」
「もちろん、ぜひ。私たち、もう友達よね?」
私は強引に言って麻紀の手を両手で握った。麻紀の端正な指先は冷えていた。自分のセクシャリティをカムアウトして、彼女も緊張していたのかもしれない。
「うん、友達……」
物言いたげに語尾を濁して麻紀は頷いた。恥ずかしがっているというか、照れているというか、心なしか目の縁と頬が赤くなっている。物言いたげに麻紀の唇は微かに開いて震え、怖じけて言葉が出て来ないといった様子で再び閉じられた。
おかしな態度だ。友達に対するというより、もっと別の……
思わずハッと身を固くしてしまった。
その瞬間、ずっと感じていた違和感が唐突に理解になって弾けたのだ。
ああ、そうか。そういう事なのか──
熱っぽく見つめられていることに、私は気付いていた。
麻紀が、私を、見ている。
その瞬間、自分の中に狡くて黒い何かが生まれたのが自分でも分かった。
麻紀は私を見ている。私を、だ。
「友達以上には……」
か細い声で言い掛けた麻紀を無視して、私はわざとらしく視線を逸らして遠くの枝垂桜を指差した。すごい枝振りね、と話を変えて、そのくせ、麻紀が私を見詰めている事を何度も目の端で確認した。
麻紀は、おやつを貰えなかった仔犬のように物欲しそうな目をしていた。
◆◆◆
焦らしてしまった。
初めて、意図的に、誰かの気持ちを煽った。
悪い事をしたと実感するほどに体の芯が焼けるように熱くなっていく。
あんな綺麗な人が私を好きだなんて……
誰もが振り向く派手で艶やかな牡丹のような彼女の心を、この私が支配しているのだと思ったら、胸に陶酔めいた優越感が込み上げる。どろどろに溶けた苦くて甘い勝利の喜びが、胸から溢れて、体中を淫らに撫でまわしているような気がする。
悪い事をしている。
私は悪い事をしているのだ。
ああ、と我知らず悦楽の溜息が零れた。
◆◆◆
公園を散策する間、麻紀は私の後を従順なペットのように付いて来た。
さっき生まれたばかりの狡くて黒いモノが、心の中で、私じゃないみたいな声音で囁く。
この人、私を好きなんだ、と──
私は桜の満開を褒めちぎった。
古木の大きな桜の樹を真下から見上げると、薄紅の花弁が雲霞の如く視界を覆い、埋め尽くし、この世のものならぬ神秘的な眺めだった。
別世界に迷い込んでしまったような錯覚に囚われる。
本当に、そうなのかも知れない。私は麻紀との出会いによって、それまでと少し違う世界に足を踏み入れていたような気がする。それまでの世界と違ったのは、麻紀のセクシャリティだけではない。幼い頃からおとなしそうと言われ、頼み事を押し付けられ、時には人に利用され、あからさまではなくとも低く見られがちで、なんとなく気弱に生きて来た私が、麻紀という華やかで人の輪の中心にいるような美貌と才覚を備えた女性を、相手が好意を持っているのを良い事に振り回している。
不思議な気分だ。別の人間に生まれ変わったような……
公園を離れ、事前に行こうと約束していた和風カフェに向かう段になっても、麻紀は私に縋るような目を向けたまま、物欲しそうに私の後を追い掛けてきた。
これが、優位に立つという事なのだろうか。
◆◆◆
その夜、麻紀から来週末の予定を尋ねるメールがあった。
《お暇があれば、神楽坂の古民家風の料理屋に一緒に行きませんか?》
初めて会ったあの日、ストーカーから逃げる途中で通りかかり、麻紀と一緒に訪れたいと思ったあの店だ。願ってもない事だというのに、私は返事に迷った。
特に用事は無い。せいぜい隆と一緒に過ごして、どちらかの家に泊まって、惰性的な夜を過ごす程度だ。しかも隆は束縛が強いタイプではない。都合を付けようと思えばいくらでも付けられた。
だけどハッキリとした返事はしなかった。
《仕事が立て込んでいて休日出勤になるかも知れません。予定が分かり次第お返事します》
そんな嘘をついてしまった。
麻紀に淡く惹かれていたのは事実だと思う。
その証拠に、私にしては珍しく、隆をすでに一週間以上も避けてしまっていた。麻紀と出会ったあの日以来、LINEの返信もおざなりになっていたし、電話も仕事で疲れているからと短く済ました。週末のデートの誘いも雑用が立て込んでいるからと断った。
でも、麻紀の気持ちに応えるつもりは無かった。簡単に受け入れては軽く見られるかも知れないという計算もあったし、そもそも同性との恋愛なんてよく分からなかった。ただ、自分より人目を引くタイプの人から想いを寄せられるという珍しいシチュエーションを、すぐに失うのは惜しかったのだと思う。麻紀の美貌だけでなく、商業翻訳家という職業も、五万円の食器を軽く買ってしまえる経済力も、貴重なステータスのように思えて、そんな人に好意を寄せられる自分の価値を高めてくれるように錯覚していた。
もう少しだけ、この奇妙にワクワクする立場を楽しんで、誰かに恋される甘く切ない雰囲気を味わっていたかった。
だからなのか、麻紀には焦らしたままはっきりした返事をしていないくせに、隆に対しても気乗りがしなかった。今、彼に会っても、つれなくしてしまいそうで怖かった。もしかしたら幻滅するのが怖かったのかも知れない。
とは言え、いつまでも婚約者を避けているわけにはいかず、週の半ばには深夜の電話で押し切られて、週末は隆の部屋で好物を摘まみながらゆっくりレンタル映画でも観ようという事になってしまった。
《実桜の好きな白ワインを買ったから絶対来てくれよな》
そう熱心に誘ってくれる様子は、出会ったばかりの頃に戻ったようで、交際五年目になって緊張がほぐれ、悪く言えば、関係がだれてきた為に素っ気なくなりがちだったいつもの隆とは別人のようだった。私につれなくされて、隆は少し焦っているようにも見えた。いつもは私が隆に振り回される側だったのに、ここ最近は、私の方が隆に素っ気なく対応し不安にさせる側になっていた。
結果的に、麻紀と隆の両方から熱烈にアプローチされる形になり、私は急にモテる女のようになってしまった。
《じゃあ、週末楽しみにしてるから》
電話を切った後に送られてきた隆のLINEメッセージを見詰めながら、私は溜息をついた。
嬉しくないわけではないが以前ほどではない。確実に心が冷めている。
隆は何も変わっていない。ただ、麻紀の印象は鮮やかで、目の奥でチカチカと線香花火から散る火花のように明滅する。
私には同性に惹かれる性癖は無かったはずなのに、井之頭公園で打ち明けられた言葉が頭の奥でぐるぐる回っていた。
「私、男性が苦手なのよ。好きになるのはいつも女性で……」
麻紀は私に好意を持ってくれている。
怖い──
あの人を射竦めるように強い眼差し。
あの瞳に絡め取られたらどうなってしまうのか。
平穏な人生を踏み外す。そんな気がする。
あの人が自分に恋していると考えると、胸がざわめく。この甘い切なさはもったいないけれど、なるべく早く、麻紀を振らなくてはいけない。
このまま何もかもに目を瞑って隆と結婚してしまえば、私は目立つ事の無い、平凡で、平穏で、誰からも好奇の目で見られないありきたりの人生を送ることが出来る。隆と結婚しても幾らか予想外の苦難は起こるかも知れないけれど、それでも、なんという事もない波風の少ない人生を送れる確率は高いのだ。
麻紀との人生はどんなものになるのだろう?
無意識に想像しようとして慌てて首を横に振る。
ダメ。考えたら揺れてしまう。
再びフマホのビープ音が響いて、隆からのLINEメッセージが表示される。
《実桜、愛してるよ》
彼の情熱的な言葉が、彼女の言葉で潤んだ私の心を上滑りしていく。
私は苦笑いを浮かべ、テーブルに放り出してあったセロファンの包みに手を延ばす。ガサガサと不躾な音を響かせてリボンを解き、異国の青年から買った琥珀色の塊を一粒、口に含む。
ころころと舌の上を転がしながら、麻紀の顔を思い浮かべた。綺麗な顔だ。きっと誰もが彼女に好意を抱く。私にでなくとも、麻紀は愛されるだろう。スポットライトを浴びているような華のある人だから、きっと、それにふさわしい人生を送るのだろう。
鼈甲飴の甘さはしつこく舌に残り、これが未練だ、と私に思い知らせた。
隆の事を麻紀に話せなかった理由が分かった。
ずっと結婚に乗り気になれなかった理由も。
私は未練を感じている。かつて味わえなかった理想の恋に……
恋の幻想に──
◆◆◆
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