Sugary Walk/03
新谷隆(しんたにたかし)──結婚を前提に付き合っている二つ年上の恋人だ。
五年前、友達に連れて行かれた合コンで出会った。連絡先を聞かれた当初は興味が湧かなかったが、何度もしつこく食事に誘われて、懇願に負けるかたちで付き合い始めた。職業は固い公務員だし、よく笑う人懐こい性格で、趣味はスポーツ観戦とフットサル。職場の友人に話したら、絵に描いたような好青年だと揶揄われた。
隆と一緒にいるのは楽だし、将来も安定している。だけど、彼に対しては胸が締め付けられるようなときめきは感じない。慣れた平穏だけがある。
納得しているつもりだけど、時々、これで良いのかと不安になる。
プロポーズをされた時も、入籍まであと一年は遊ばせて欲しいと言われて、本来ならそんな言い草には腹を立てるべきなんだと思うけど、正直、ほっとしてしまった。
本当に隆を愛しているのか、私には自信が無い。
◆◆◆
結局、隆からのLINEは既読無視をしてしまった。
電車を降りる頃、再びスマートフォンのビープ音が鳴った。
「メール……」
今度こそ、麻紀からだった。
《今日は色々とありがとう。私も無事タクシーに乗れました。ご迷惑をかけてしまったお詫びも兼ねて、近いうちに改めて食事をご一緒しましょう》
登録されていないメールアドレスを見た瞬間、それから、貰った名刺に印刷されていたメールアドレスと照らし合わせて麻紀からだと確認できた瞬間、舞い上がるように気持ちが華やいで自分でも驚いた。
私は喉から手が出るほど彼女との繋がりを欲していたのだ。
そう思い知って、わけが分からず、なのに、ひどく胸が高鳴った。
偶々合席になっただけの、行きずりの連れでしかなかった彼女と、このまま縁が切れてしまうのは嫌だった。子供の頃と違って大人は友達になりにくい。名刺を交換して連絡をすると約束しても、社交辞令で終わってしまう事がほとんどだ。
麻紀とは、それでは嫌だった。どうしてもまた会いたい。そう思っていた。自分からお願いしてではなく、相手から望まれて……
だから、麻紀の側から最初のメールをくれたという事で、痺れるような、一種、勝利に似た歓喜に満たされていた。
求められた、という熱いシャワーのような実感に包まれていた。
私は浅はかで、そんな事で喜んでしまう意味を深く考えもしなかった。考えていれば、危険から遠ざかっていれば、もしかしたら、私の運命は違っていたのかも知れない。
それでも、その時はあまり気にしなかった。駅から自宅アパートへ帰る途中、着物姿でコンビニに寄りお気に入りの月餅を買った。夕食は軽く済ませて、その後で、ジャスミンティーを淹れて月餅を味わおうと思った。少しぼそついた無愛想な皮に包まれているくせに、こっくりと濃密な餡と、意外な松の実の歯触りを思い浮かべて待ち切れない気分になっていた。ほんの少し前に抹茶寒天を食べたのに、甘味が欲しくてたまらなかったのだ。
甘い、何かが……
◆◆◆
待ち合わせは吉祥寺。
神楽坂での数奇な巡り合せから六日後、私は麻紀に会う為に道を急いでいた。出掛けに近所のおばさんに捕まって立ち話に付き合わされてしまい、予定していた電車に乗り遅れてしまった。お陰で、約束の時間に五分ほど遅刻してしまいそうだったからだ。
早足で井之頭公園へ向かう途中、自転車の荷台を小さな棚代わりに、手作りの鼈甲雨を売っている露天商に出会った。急いでいたのに、私は思わず足を止めた。
エキゾチックな顔立ちの中東系の青年だったのだ。
「美味しいですヨ」
不揃いのおはじきのような楕円。透き通った琥珀色に輝いている。
「奥さんのグランマに教わって、ボクが作ってますヨ」
白い歯を見せて屈託なく彼は言葉をかけてきた。眩しいほどの笑顔だ。澄み渡る青空のような、どこまでも爽やかで強引な。これが彼の民族の笑みなのだろう。
彼の感性は、たぶん、私の常識の外にある。
「ヒトツツミ、ゴヒャクエンです」
吹っ掛けて来たな、と思ったが、なぜだか愉快な気分になってしまって、二包み、千円分を買ってしまった。
鼈甲飴の包みをバッグに仕舞う時、スマートフォンが目の端に映り、昨夜、麻紀から貰ったメッセージが思い出されて、思わず笑みが浮かぶ。
《明日、公園で桜を見ませんか》
相手から誘われて優越感に浸る。そんな気分は久しぶりだった。隆に熱心にアプローチされた時も、表面では困ったふりをしながら心の底では楽しんでいたように思う。同性の麻紀を相手にそんな気分になるのは妙な気もするのだけれど、あれほど綺麗な人なら、相手のほうが熱心に誘ってくれるというシチュエーションは珍しくて、良い気分だ。
公園のゲート付近の大木が繁り湿り気のある木蔭を作る通りには、奥から運ばれてきた桜の花びらがひらひらと風に舞っていた。
あたりは花見客でごった返していたが、麻紀はすらりとした立ち姿が独特で、人混みの中でもすぐに見付けられた。
麻紀も目聡く私を見付け、嬉しそうに片手を上げてくれた。
先日の和服とは打って変わって、二十代の子が着るようなくつろいだアーティストめいた服装だ。白いコットンブラウスにフォークロア風のジレとロングスカートを合わせて、タータンチェックの厚手のショールを羽織っている。長い髪は一つに編んで背中に垂らし、女優のようなメイクはしていなかった。
赤い口紅をくっきりと塗っていた時とはだいぶ雰囲気が違う。控え目と言うか、穏やかになっていて、整った美貌が今日は少し地味に見える。そこはかとなく翳りのようなものが漂っていて、悩みがありそうにも見えた。もしかしたら今日は何か相談をされるのかもしれない、と心の隅で思った。と同時にストーカーの件も脳裏をよぎる。あの男絡みで何か困った事があったのかも知れない。
打ち明けやすいように、頼もしい部分を見せないと。
そう気負っていたのに、麻紀と並んで歩き始めると、またも落ち着かない気分に囚われ始めた。どうして落ち着かないのか、自分でもよく分からない。
そわそわするような、ふわふわするような、妙な気分だ。
今日は、初めて会った日に比べれば、さほどの気後れは感じない。二人ともラフな普段着だからかも知れない。今朝クローゼットを開けて、桜色のゆったりとしたワンピースとベージュのカーディガンを選んだのは正解だった。ラフな服装の麻紀と並んで歩いても違和感は無いと思う。偶然にもお互い編上げのショートブーツで、近い雰囲気だ。
それだけで私は上機嫌になっていた。
うきうきと弾むような足取りで、人混みに流されながら池に渡された橋を渡った。
桜の古樹が池の水面に枝を大きく張り出して、薄紅の花霞が岸辺を埋め尽くしている。家族連れや恋人同士が花弁の浮いた池でボートを漕いでおり、はしゃいだ声が時折聞こえてきた。
騒がしいけど、悪くはない。
橋の途中で立ち止まり、欄干に凭れてしばらくその眺めを楽しんだ。
そうだ、とさっき買った鼈甲飴のことを思い出す。
公園内を一通り散歩して桜の花を堪能した後は、麻紀のお勧めの抹茶も置いてある和風カフェでゆったりランチをしようという約束になっていたので、飲食店で食べ物を出すのはマナー違反だと思い、これもまた不躾ではあったけれど、池と桜を眺めながら、紙袋から鼈甲飴の包みを差し出した。
「さっき買ったんですけど、どうぞ」
「あら、珍しい。鼈甲飴? 手作りかしら?」
透明なセロファンに青いリボンが巻かれた包みを受け取り、麻紀は興味深そうに中身を覗き込んだ。
「外国人のお兄さんが、すぐそこで売ってたの」
「へえ、面白いわね」
麻紀は遠慮なくリボンを解き、澄んだ琥珀色の薄い楕円を摘まみ上げ、形の良い唇を思い切り良く開いて、ぽんっと口の奥に放り込んだ。
「うん、美味しい」
無邪気に微笑むと、麻紀は自分の分の包みからもう一つ鼈甲飴を摘まみ上げ、私の手の平に乗せた。
これは、食べて見ろ、という事だろうか。もちろん、それ以外に有り得ない。この歳になって誰かに手ずからお菓子を貰うなんて少し照れ臭かったが、そんな戸惑いは顔に出さないよう、目を瞑って手早くぱくっと鼈甲飴の小さな塊を口に含んだ。
口に放り込んだ途端に、強く濃い甘味が刺すように舌に乗る。
「美味しい」
異国の青年が作った、日本のおばあちゃんの味。じわりと優しい気分に包まれる。
意外にも、その刺々しい甘さが、むしろ鮮やかで心地好い。
「本当。こういうパッとした味って良いわね」
麻紀も鼈甲飴の味を気に入ってくれたようだ。欄干に手をついて、味覚に深く没頭するように目を閉じた。ノーメイクの麻紀は少し地味だと思ったけれど、絵になる仕草をすると、やっぱり華やぐ。通りすがりの人達がチラチラと麻紀を盗み見ていく。
美人は大変だな、と少し呆れがちに思いつつ口を開いたら、無神経になってしまった。
「変な話を蒸し返しちゃうけど、この前、神楽坂で追い掛けられたストーカーの気持ちも分からなくもないな。麻紀さんくらい綺麗な人が相手だと諦めきれないんでしょうね」
言ってしまってから、不快にさせたかも知れないと軽く後悔したが、麻紀は気分を害した様子は見せず、むしろ一瞬、分からない、という顔をした。
「え? ああ、あいつの事ね……」
違和感があった。あの日のように外出先まで追い掛けて来るタイプのストーカーに付き纏われていたら、もっと切羽詰まって怖がっているだろうし、それほどの恐怖の対象なら、四六時中気になってしまうものではないだろうか。
それなのに麻紀は、忘れていた、と言った。
「あいつはどうでもいいのよ。鬱陶しくて迷惑なだけだから」
「警察に相談しないの?」
「ううん。それはいいの。なんと言うか、一応知り合いだし、あの日はしつこく追い掛けて来たけど、普段はそんなことはないし……」
呑気な麻紀に、私は苛立った。彼女は危機感が足りない。
「でも、もし暴力を振るわれたりしたら大変じゃない。ストーカーに酷い目に遭わされる事件だって起こってるし、気をつけたほうが良いわよ」
「うん、そうね、ありがとう。でも、あいつは大丈夫なの。子供の頃からよく知ってる相手だし、たまに追い掛けて来るだけだから」
「それが怖いんじゃない」
しつこく言い募る私に麻紀は困ったような苦笑を浮かべた。
「ごめんね。本当に大丈夫だから」
やんわりと、それ以上の追及は拒絶されてしまった。
納得がいかなかったし、不安で仕方なかったが、それ以上は何も言えない空気になってしまって、私は渋々と口を噤んだ。身の安全に頓着しない麻紀が腹立たしかったし、こんなに心配しているのにと恨めしくも思った。何か起きてからでは遅いと言うのに……
麻紀はムッと黙り込む私を見て、ごめんね、と両手を合わせて小首を傾げる仕草だけで謝罪した。おまけにぺろっと舌も出して見せたので、なんだか毒気を抜かれてしまった。
そう言えば、という態で麻紀は話題を変える。
「実桜さん、付き合ってる人はいるの?」
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