Sugary Walk/02
囁くように告げられたのに、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「え? 本当ですか?」
ストーカーだなんて穏やかじゃない。
言われて注視してみれば、男はチラチラとこちらを見ている気がする。彼女ほどの美貌ならストーカーの一人や二人居てもおかしくない。最近テレビで見たストーカー殺人事件の報道を思い出し、怖い想像が脳内を駆け巡る。
それから、当たり前の正義感と憤りも湧いてきた。
勝手に想いを寄せて、それが通じないとなるや想い人にしつこく付き纏うだなんて、卑劣だし、酷い。麻紀はどれほど怖い思いをしているだろうか。非力な女性にとって、男性は腕力があるというだけで脅威だ。
「私の後を付けて来たんだわ」
おろおろと狼狽える彼女を、私も同じように落ち着かなくなって見上げる。
「どうしましょう、警察に連絡を……」
「いえ、大袈裟にはしたくないからこのまま人混みに紛れてしまいましょう」
「警察に知らせた方が良いです。何か事件が起きてからでは……」
「それは大丈夫。ただ後を付けて来るだけですし、彼はその、なんと言うか、子供の頃から知っている相手なので、警察に突き出したくはないんです」
「でも……」
子供の頃から知っている相手、という言い方に違和感を覚えたが、その時は深く考える余裕は無かった。私の戸惑いを余所に麻紀は強引に話を進める。
「大丈夫です。裏道に入って巻いてしまえば良いんです」
そう言われても、こんな目立つ二人連れを見失うような間の抜けた人がいるだろうか。ましてや、あのストーカーの男は眼光鋭く抜け目が無さそうに見える。
「あの、それなら私は足手纏いになると思うんです。置いて行って頂いたほうが……」
「ダメです」
きっぱりと彼女は言い切った。
「あいつに捕まったら、実桜さんがしつこくあれこれ聞かれて嫌な思いをさせられるかも知れないでしょう。そんな目には遭わせられませんよ」
「あの、でも……」
「大丈夫、まずは少し先の細道に入ればなんとかなります。付いて来てください」
強引に手を掴まれ、引き寄せられる。慣れない和服と草履で走るのは初めてだ。途中でバランスを崩し掛けたが、麻紀が手を繋いでいてくれたので、みっともなく転ぶような事はなかった。凶悪な容貌のストーカーから逃げていると言うのに、不思議と怖くはなかった。ただ、胸がドキドキした。
小走りに走って、早稲田通りから細い路地へ入り左に曲がり、すぐにまたもっと細い小路へ入る。人がすれ違うにも狭いほどの石畳の古めかしい道で、個人の邸宅へ続く私道のように見えた。勝手に入り込んでいいのかと不安になったが、麻紀に手を引かれているので私は大胆になっていた。気にせず十メートルほど走って、建物の陰に身を隠した。
そこからそっと顔を出して、小路へ入ってきた元の道を伺っていると、すぐにストーカー男が走ってきた。男は私達が脇道に逸れた事に気付かなかったようで、小路を無視して真っ直ぐ駆けて行った。
「上手く巻けたみたい」
麻紀は勝ち誇ったように言い、私もホッと胸を撫で下ろした。
◆◆◆
落ち着いてから改めて見ると、風情のある小路だ。白っぽい花崗岩の石畳は打ち水の名残りか少し湿っていた。
こんな道があるなんて知らなかった。
麻紀は慣れた様子でその道をどんどん奥へ進んで行く。いくらか進むと古民家風の料理屋の門が現れた。
「ここの二階にある個室が面白いんですよ。天上が低くて、ちょっと隠れ家っぽいの。まだ夕食には早過ぎるのが残念だわ」
言われて見上げると、低い部分は居板塀に隠されてはいるが、確かにちょっと珍しい古民家風の建物だった。場所と店名を覚えておいて、気の置けない友人か身内と来ることも考えたが、それよりも麻紀と一緒に訪れたいと思った。
彼女が気に入っている場所は、彼女にこそ相応しい。
だからと言って、すんなりと誘える性分ではない。社会人になって以来、いつのまにか遠慮が習い性になってしまった、私なんかが誘っても迷惑なのではないか、という卑屈な懸念が鎌首をもたげる。
逡巡していると、麻紀のほうから誘ってくれた。
「あの、ご迷惑でなければ、また今度ご一緒しませんか?」
途端に気持ちが軽くなる。
嬉しい。
「え……ええ、はい、ぜひ」
麻紀はにっこりと微笑んで、自然な仕草で歩き始めた。追いかけて、横に並んで私も歩く。
「妙な事に巻き込んでしまってごめんなさい。恥ずかしいわ」
「いいえ、そんな……」
慌てて慰めようとしたら石畳のひずみにつまずき、彼女の肩に手を掴んでしまった。思わぬ距離で、ふわりと微かなマグノリアのフレグランスが香る。不自然に鼓動が跳ねた。
「大丈夫? 暗くなってきたから気を付けて」
「は、はい……」
心配気に顔を覗き込まれて頬が熱くなる。恥ずかしい。
それに、麻紀の少し掠れた声には妙な艶がある。間近で囁きかけられると背筋がゾクッとするのだ。こういう人を婀娜っぽいというのだろう。同性の目から見てもやけに色気があって落ち着かない。
「すみません」
そう言って肩から手を離そうとしたら、自然に手を重ねられた。
うふふ、と喉で笑って、麻紀は繋いだ手を子供のように振りながら、愚図愚図する私を引っ張って歩き続けた。小学生の頃、友達の多美ちゃんと学校帰りにこうして手をつないで歩いた事を思い出す。あの頃は無邪気で何も悩みが無くて楽しかった。そんな事を思ったら、鼻の奥がつんと痛くなった。
泣きたいような、妙な気分だ。
ストーカーから無事逃げおおせて緊張が解けたせいだろうか。我知らず、普段は蓋をして我慢していた物事に対して無防備になっていたようだ。今この場で考えるべきではない日常の不安や不満がぽつりぽつりと浮かんで来て、奇妙に打ちのめされた。
もう無邪気な子供じゃない。今の自分には悩みがある。そう、いつまでも目を逸らしていられない《人生設計》という悩みが……
身近な人の顔を思い浮かべて、溜息をついた。
そっと麻紀の横顔を伺う。憂鬱な溜息に気付かれなかっただろうか。
「そう言えば、実桜さんはお幾つなんですか?」
不意に質問されて、ビクッと肩を震わせてしまった。
私は童顔でおっとりしていると言われ、たいてい実年齢より若く見られてしまう。年齢を伝えるといつも意外そうな顔をされるので、正直、言いたくない。とは言え、隠すような事でもないし、なるべく軽い口調で打ち明けようと努めた。
「こんな可愛い柄の着物を着ていて恥ずかしいんですけど、もう三十五歳です」
嘘、信じられない、という呆れ混じりにも聞こえるお定まりの言葉を向けられると覚悟していたのだけれど、麻紀はそんな言葉は口にしなかった。
「嬉しい!」
そう言って嬉しそうに破顔したのだ。
「すごい偶然ですね。私も同じ歳なんですよ。実桜さんはお若く見えるから年下だと思っていました。同じ歳なら気後れしないで済むわ。良かった」
繋いでいた手を両手で掴んで、まるで女子高生のようにぶんぶんと振られた。
「そんな……」
私相手に気後れなんて、と言おうとしたが、麻紀の嬉しそうな声に遮られてしまった。
「偶然が三つ重なりましたね」
にこにこと上機嫌で笑っている。
「三つ……重なると何かあるんですか?」
「こんな言葉を知ってますか?」
麻紀はすうっと真顔になり目を閉じた。
神妙な表情に釣られて、神前で巫女の託宣を訊くような不思議と張り詰めたような気配が降りて来る。心臓の鼓動が駆け出す。
「三度繰り返し、には運命を感じさせる力がある。一度では特別な意味は成さず、二度では偶然にとどまり、三度で神意を得る。偶然の三度繰り返しは運命なんです」
吐息のように、麻紀が言ったその言葉は、私の心の奥深くに一瞬で浸透した。
三度繰り返しは、運命……
運命──
「誰の言葉ですか?」
「少し前に仕事でお会いした年配の社長さんが教えて下さったんですけど、誰の言葉かは訊き忘れてしまいました。でも文学好きな方でしたから、小説の中の言葉かもしれませんね」
「素敵な言葉ですね」
「ええ、お陰で実桜さんに運命を感じてしまいます」
「私も……」
言い掛けた途端、猫が現れた。
「あ、猫!」
麻紀が見た目に似合わぬ素っ頓狂な声を上げた。
「野良猫でしょうか?」
私が問うと、麻紀は面白そうに猫を目で追いながら答えた。
「首輪をしているから飼い猫じゃないかしら。毛並みも良いしよく肥っているわね」
「本当……」
ふてぶてしい顔をしている。茶虎の猫は赤い首輪を付けて、ゆったりと主のような風情で道を横切り、植え込みの下をくぐり民家の庭に消えて行った。
フフッ、となぜか満足したように麻紀は笑い、パッと話題を変えた。
「駅はJRですか?」
「いえ、大江戸線です。でも飯田橋からでも帰れます」
「そう、ではこのまま道なりに行きましょう」
都心とは思えない狭く静かな小路を何度も曲がって、たぶん、遠回りをして私達は迷路のような裏通りを抜けた。板塀や籬(まがき)、常緑の垣根が古い時代の名残りをとどめ、椿や山吹、小手鞠の花は柔らかく瑞々しい。どこかから沈丁花の香りが漂っていた。
このままずっと歩き続けたいと心の浅い部分でぼんやりと思っていた。
人の多い通りに出ると、麻紀はぱっと手を離してしまった。
「ここで大丈夫ですか?」
急に外気に晒されて、さっきまで麻紀に触れていた手が寂しく冷えた。
「ええ、でも、麻紀さんは一人で大丈夫? さっきの人がまだこの辺りにいたら……」
ストーカーの事が気になって、このまま別れてしまって良いのだろうかと心配になる。
「大丈夫。私もすぐ帰ります」
「それなら良いんですけど……」
煮え切らない調子で言った私に、麻紀は鮮やかな笑みを向けた。
「後でメールします。そんなに心配しないで」
とん、と肩を叩かれて、それで話の片は付いてしまった。仕方なく、ではまた、と会釈をして地下鉄の駅に続く階段を降り始める。階段の途中で立ち止まって振り返ったら麻紀はまだそこに居て気軽に手を振ってくれた。
私も同じように手を振り返す。
目を離し難い美貌に後ろ髪を引かれながら、私は不自然に見えないように渋々と歩を進めた。階段を降り切ってから、もう一度振り返った時には、麻紀はもういなくなっていた。
定期で改札を通り、電車に乗って、ハンドバッグからスマートフォンを取り出すと、狙い澄ましたようにLINEのメッセージが届いた。
「あ……」
一瞬、麻紀からかと期待したが、恋人の隆からだった。
《仕事終わったら実桜の部屋に行きたいんだけど良い?》
◆◆◆
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