Des Études(エチュード)
THEO(セオ)
01【Sugary Walk】(切ない系・社会人百合)
Sugary Walk/01
Sugary Walk
「ご合席お願いできますか」
海老茶色の作務衣を着た中年の女性店員に声を掛けられて一瞬戸惑う。
けれど店内の混み具合を見れば、一人でテーブルを使っているおひとり様の私が合席を頼まれるのは当然だった。他にも一席おひとり様のテーブルがあったが、そちらは気難しそうな初老の紳士で、たいていの人が、男性よりも女性の方にお願いしやすいのだと思う。
しかも、私は幼い頃からおとなしそうなお嬢さんと評されてきたタイプだ。誰でもいい候補が何人かいる場合、真っ先に《お願い》をされてしまうのだ。それで貧乏くじを引くことも時にはあるが、外見の印象は自分ではどうしようもない。
しょうがないな、と内心で溜息をつきながら笑顔を作った。
「ええ。はい、どうぞ」
「ありがとうございます。助かります」
店員はいかにも客あしらいに慣れた感じの無駄に明るい笑みを浮かべて手早く会釈をし、他の客を案内しながら忙しそうに階下へ降りて行った。
月一で通っているこの店は、昔ながらの甘味処だ。畳敷きの和室に衝立もなく卓袱台が並べられ、堀炬燵状になった席には和柄の座布団が敷かれている。昭和初期に創業した老舗であり、手作りで甘さ控えめのさらし餡を使ったあんみつが人気だ。私の目当ては別のメニューだったが、店内のほとんどの客がそれを注文している。
(知らない人と合席か、困ったな……)
人見知りをする性質(たち)なので少し気を重くしていたのだが、間もなく、合席を頼んできた店員とは別の若い店員が、モダンな和服に身を包んだ客を先導して戻って来た。
その人は、パッと大輪の牡丹が咲いたような、目立つ美貌の女性だった。
二階席に居た客の視線が一斉に彼女に集まる。
真紅の口紅が似合い、立ち姿は堂々としていて、まるで女優のようだ。長い髪を小粋に結って鼈甲のかんざしを挿し、粋な矢絣の小袖に濃紺の袴を合わせている。手元にはダークモーヴのショールを掛け、和装用の黒革のハンドバッグを持っていた。下手をすれば卒業式の女子大学生のように見えてしまう組み合わせを、品良く大人っぽく着こなしている。
片や私は、と自分を顧みて途端に恥ずかしくなった。
今日は着付け教室の帰りに気紛れを起こして遠出をしてしまったので、折悪しくと言うべきかどうか、私も和装だったのだ。しかも薄紅の地に麻の葉柄の無難な小紋に藍紫の半幅帯と若草色の帯揚げと鈍紅(にびくれない)の帯締めを合わせただけの無個性で未熟な。こんな事なら、和服は着替えて目立たない洋服で来れば良かったと後悔していた。
着付けを習っているとはいえ普段は着慣れないので、帯に締めつけられて苦しかった胸が益々苦しくなった。俯いて顔を隠してしまいたくなる。
「こちらでお願いします」
店員に声を掛けられ、彼女は軽く頷いて私の向かいの席に座り、メニューも見ずに白玉クリームあんみつを注文した。常連なのだろう。少し掠れのある小粋な声で、注文の伝え方がやけにしっくりと板に付いていた。
彼女はすぐにゆったりとくつろいで、ハンドバッグから文庫本を取り出し読み始めた。カバーを付けていないので背表紙が読める。
夏目漱石の虞美人草。溜息が出るほど似合っていた。
私はと言えば、他の客の視線がこの卓に集まっていて居心地悪く落ち着かない。せめて目の前の彼女には気に留められないように、と身を小さくして注文した抹茶寒天を待っていた。
手持無沙汰に香ばしい匂いのほうじ茶を啜り、チラと目を上げた瞬間、虞美人草から目を上げた彼女と視線が絡み合った。間近で正面から見ても、ものすごい美人だった。優美な嫦娥眉の下にはくっきりとした二重瞼に大きな黒硝子のような瞳、鼻筋はつんと通っていて、唇はきりっとしている。
「偶然ですね」
少し掠れた艶っぽい声で唐突に声を掛けられて、最初は自分が話し掛けられているとは分からず、次いで言葉の意味が分からずあたふたしてしまった。
「え、あ、はあ、偶然……ですか?」
何が──と訊ねる前に、くすっと彼女は形の良い唇の片端を上げた。
「私達そろって和服でしょう。こうして向い合せに座っていると、連れに見えるんじゃないでしょうか。店員さんもわざと私達を合席にさせたのかしら?」
「あ、ああ、本当、そうですね」
俯いて自分の手元を見ながら、やっとの思いで返事をした。
ただでさえも引け目を感じているのに、連れに見えるだなんて、そんな事を言われたら益々緊張してしまう。隣の席の三人連れの老婦人が彼女の話に聞き耳を立てているのが分かる。これほどの美貌だ。どんな人なのか気になるのだろう。それに比べて私は、目立たない平凡な容姿だ。こんな綺麗な人と並べて見られたくない。
「今日はお一人なんですか。何かのお教室の帰りとか?」
「え、ええ、着付けの帰りで……」
「そうですか。どうりで端々がきちんとしてらっしゃると思いました。お着物の色と柄、よく似合ってらして素敵ですね」
「あ……ありがとうございます」
消え入りそうになりながらお礼を言う。自分でも顔が赤くなっているのが分かっていた。
──まさか、こんな美人に褒められるなんて。
嬉しさ半分、恐縮半分、どうせ……という卑屈な気分が少々。
複雑な感情に身じろぎした時、店員が私達の注文した品を運んで来た。抹茶寒天と、白玉クリームあんみつ。
テーブルに甘味の器が並べられ、彼女はハンドバッグから取り出したレースの縁取りの付いた白いハンカチを膝の上に広げ、上品に白玉クリームあんみつを食べ始めた。赤い唇に漆塗の匙を運ぶ仕草が様になっている。本当に女優のようだ。
私も自分の分の抹茶寒天を食べようと、ハンドバッグからハンカチを取り出し、手元で開いてから膝の上に乗せた。それを見て彼女は瞳を輝かせた。
「あっ、ハンカチの刺繍、ひなげしですね」
彼女は匙を盆の上に置き、ハンドバッグに仕舞った文庫本をわざわざ取り出して表紙を私に向け、優雅に顔の横に掲げて見せた。
「ひなげしの別名は虞美人草。偶然が二つ重なりましたね」
◆◆◆
冷たい甘味を食べている間も、彼女はまだ話し掛けてきた。
この店名物のさらし餡だけではなくアイスクリームもお気に入りである事、近くにかき氷の美味しい店があるという事、神社でお参りをしておみくじを引いてから甘味を食べるのがいつものコースである事、和服の着付けは出来ないのだという事──
「意外です。とても堂に入ってらしたのでご自分で着付けをなさったのだと……」
「いいえ、違うんです。実は、お見合いをしろと言われて、貸衣装屋でわざとこんな風変わりな恰好を選んだんです。母への嫌がらせです」
彼女は片目を瞑って悪戯っぽく笑った。
思わず釣られて笑ってしまう。と同時に、お見合いはもう済んだのだろうか、こんな場所で一人あんみつを食べていて構わないのだろうか、と少しだけ気になった。
それはともかく、先刻からこんな調子で人懐こく話し掛けて来るので、強引にリラックスさせられてしまい、もう周りの視線は気にならなくなっていた。お陰で、最初は砂を噛むようだった抹茶寒天の味も正常に戻って来た。鮮やかな香りと甘みが舌の上に広がり始める。黒蜜と黄な粉が優しく、抹茶の苦みも強くて美味しい。
「ここのスイーツは最高ですね」
食べなれた雰囲気で気軽に匙を口に運び、またも人懐こく彼女は言った。
不思議な人だ。絶世の美女なのに、気さくで、愉快で、いつの間にか話し相手をくつろがせてしまう才能がある。きっと誰からも好かれるだろう、羨ましいな、と思った時、彼女から意外な申し出があった。
「この後、少しお時間ありませんか? この近くで買い物をしたかったんですが、こんな目立つ格好で一人だと気後れしてしまって。同じ和装の方と一緒だと心強いんですが……」
思いがけない申し出に、一瞬、間が空いてしまう。
普段なら知らない人と同行するなんて例え時間があったとしても断る。だけど、彼女とはなんとなく離れ難く、もう少し一緒に歩くのも良さそうだなと思ってしまった。
「いいですよ。予定はありません。私で良ければお付き合いします」
自分でも不思議なくらい自然に、私は彼女の唐突な申し出を受けていた。
私達はそこで自己紹介代わりにお互いの名刺を交換した。
彼女の名刺は凝ったデザインだった。厚手の和紙に友禅柄がプリントされ金箔が少しだけ散っている。流麗な文字で、携帯電話の番号とeメールアドレス、それに、千早麻紀・商業翻訳家と書かれていた。
「翻訳家なんですか」
驚いて声のトーンを上げた私に、彼女は謙遜して軽く顔の前で手を振った。
「でも小説を翻訳しているわけじゃなくて、貿易関係の契約書や家電製品なんかの取扱い説明書の翻訳をしているだけなので、たぶん思ってらっしゃるのとは違うと思いますよ」
「でも、すごいです」
そんなこと、と麻紀は言葉を濁してはにかんだ。
私の名刺は習い事で知り合った人に配る為に作ったもので、子供っぽい仔犬のイラストが端で尻尾を振っているデザインだ。見やすい黒文字で、桜木実桜(みお)──と名前が中央にプリントされ、携帯電話の番号とeメールのアドレスも同じ書体で記されている。こんな部分でも差を感じ、自分がとても野暮ったい人間のように思えて恥ずかしくなった。
「お名前、桜木実桜さんっておっしゃるんですね。桜が二つもあるなんてすごく綺麗」
そう言われても微かな劣等感は拭えなかった。子供の頃からよく言われてきた言葉だが、自分に桜が似合っているとは思えない。ふと、目の前の彼女は薔薇か牡丹だな、と関係無いことを思った。
「どうかなさいました?」
「いいえ」
無理して笑い、小さな僻みは胸の奥に仕舞い込んだ。
「実桜さん、そろそろ行きましょうか」
麻紀に誘われて席を立ち、それぞれ会計を済ませてから、甘味処と並びにある狭い和食器屋に向かった。
通りに出ると、たちまち春の匂いに包まれる。独特の、心が騒ぐ匂いだ。花の香りに土と水の匂いが混ざっている。神田川が近いからなのか、それとも古い街だからなのか、この辺りは近代化されて無機質な都心にあっても、まだ空気に季節の匂いがある。
足元に一枚、どこかから吹き飛ばされてきたらしい桜の花びらが落ちていた。
思えば、桜の季節だ。今朝のニュースで、上野公園の桜は三分咲きといったところです、とお天気お姉さんが妙に明るい調子でレポートしていた。
今年はまだ桜の花を見ていない。今、ほんの少し神田川沿いまで足を伸ばせば、咲き初めの桜が見られるかもしれない。
淡い水色の空を見上げた途端、不意に、桜が二つもあるなんてすごく綺麗、と、さっき麻紀に言われた言葉が、静かな波のように寄せて来る。彼女にそう言って貰えるなら、こんな名前で良かった、と、今さら思った。
私は、いつも、少し自覚が遅いのだ。
並んで歩いてみて気付いたのだが、麻紀は女性にしては背が高い。身長百五十五センチの私より十センチは高いのではないだろうか。ほんの少し見上げる格好になって、なんとなく妙な気分になった。
神楽坂の早稲田通りに麻紀と合席になった甘味処はある。北から見れば登り切って降るあの辺りだ。すぐ近くに麻紀の目当ての陶器屋はあった。馴染んだ雰囲気で店に入ると、何気ない調子で高価な器を見ていく。値札を見て私は少し驚いた。予想より五倍は高い。
彼女は桔梗の描かれた九谷焼のぐい呑みを気に入ったようだった。内側に金箔貼りが施された豪華な酒器だ。華麗過ぎて、似合わない人が持つと下品にもなりかねない派手な器を、彼女はアッサリと選び取り、二つ揃えて両の手の平に乗せた。
見事だった。
最初から彼女の為にデザインされたように、金の久谷がしっくりとはまっていた。
二つで五万円もするそれを彼女は躊躇も見せずに購入し、カードではなく現金で代金を支払った。自分には出来ない豪快な買い物に私は少しうっとりした。
木製の化粧箱に厳重に納められ、藍色の組紐を掛けられた小さな器は、小さな紙袋に入れられて彼女の腕で揺れていた。上機嫌で鼻唄でも歌い出しそうな麻紀の横顔は少しだけ幼く見えて、私もなんとなく楽しい気分になった。
ガラス製のドアを押して店の外に出た時、麻紀は人混みの奥に何かを見付けて足を止めた。進路を塞がれる形で私も足を止める。
「どうしました?」
「あそこ、背の高い男がいるでしょう」
「ええ、はい」
彼女の指差す方向を見ると、ビルの陰にダークカラーのスーツを着込んだ三十歳くらいの男が立っていた。陽に焼けた浅黒い肌、背の高いがっしりした体格で、目付きも悪く、堅気の職業には見えない。
「あの男、ストーカーです」
◆◆◆
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