深山の怪
クファンジャル_CF
行き倒れと童女
行き倒れだった。
山賊にでも、身ぐるみをはがされたのであろうか。倒れているのは、ロクに荷物も持っておらぬ男。
妙に仕立ての良い衣に、このような場所には不似合いな木靴。いずれもボロボロであるが、まさかこれだけで登ってきたわけもあるまい。
そこまでを検分し、娘は周囲を見回した。
深山幽谷分け入った先の土地である。霧のかかった河川が実に明媚であった。
不可解ではあった。このあたりには賊の類はおらぬ。恐れ知らずの無法者どもですら畏れる化け物が住まっているからである。
その化け物であるところの娘は、ひとまず行き倒れをひっくり返すこととした。うつ伏せでは顔も拝めぬ。
手をかけた段階で。
「ぅぅ……」
死体かと思われた行き倒れだったが、どうやら生きていたか。
娘は思案。どうしたものか。死体が転がっていると思って見に来たわけだが。
やがて彼女は決を下し、行き倒れの男を担ぎ上げた。
◇
明るい。
外から差し込む光だろうか。開きかけた瞼の隙間から入り込んできたのは強い陽光。あまりの威力に涙がにじむ。
体が痛い。歩き続けた足の裏はずるずるに剥けているし、背中の筋は直立を維持するのも難しいほどに消耗しきっている。腹が減って頭が回らぬ。寝床がふかふかなのだけは有難い。起き上がりたくなかった。
―――うん?寝床?
行き倒れの男は、跳ね起きた。
驚くほどに粗末な家屋であった。雑木で建てたのであろう。人が三人も入ればいっぱいになるだろう円錐型の枝編み小屋である。素材を生かし、枝を絡み合わせて強度を確保しているのであろうことが推察された。
起き上がった彼は、自分の寝かされていたのが紐で束ねた笹を何束も敷き詰めたものだということに気が付いた。道理でふかふかと寝心地がよいわけである。
続いて上を見上げた彼は、不味いものを発見した。それもかなり。
無数の呪符。樹皮に奇怪な文言が刻み込まれた札が、幾本も張られた縄よりぶら下げられていたのである。
明らかに尋常ならざる様子。これはひょっとしてかなり不味い状況なのでは。
泡を喰った男は、逃げ出そうとした。立ち上がると、飛び出したのである。縄に引っかかったのはいかに慌てていたかの証左と言えよう。
狭い小屋からの脱出は、しかし失敗に終わった。
唯一の出口に、人影が立ちはだかったからである。
「ひぃっ!?」
彼は、立ちすくんだ。どころか、いやいや、と首を振りながら後ずさったのである。最後には尻餅。まるで幼子だった。
「情けない。大の男が恥ずかしくないのかい」
それが、人影の発した声だ、と気付くのに、随分とかかった。
錫の鳴るような、とはこのような声色を言うのであろうか。
幾分正気を取り戻した男は、見た。
小屋の入り口に立ちはだかっているのが、齢十も行かぬであろう童女である、という事実を。
「……漏らすなら外でやっておくれ」
男の股間は、じんわりと濡れていた。
◇
「えー。おほん。助けてくれたことには感謝する。それでお嬢ちゃん。親御さんはどちらに?」
「今更取り繕っても遅いよまったく」
「ぅ……」
小屋の中。
石で囲い地面を掘っただけのかまどにかけられているのは鉄鍋である。中には山菜や茸、干し魚がぶち込まれ、いい匂いを醸し出していた。
鍋を挟んで向かい合うのは一組の男女。
ひとりは行き倒れていた男だった。下半身は丸出しなのを上衣で隠している。粗相をした彼は下半身の着衣をふんどしごと剥かれ、洗濯されてしまったのだ。今は干している最中。
対面にいるのは童女であった。なんでも倒れている男を発見してこの小屋まで連れ帰り、介抱してくれたそうな。命の恩人である。手の届くところに鉄剣を置いているが、物騒な世の中。男としても責める気はさらさらなかった。
「で?なんであんな場所に倒れてた?そもそもひとが入ってくるような場所じゃないんだけどねえ」
「……」
「しゃべりたくないかい。まあいいさ。先に飯としようじゃないかね」
言い終え、娘は器に料理を取り分けた。竹を割っただけの粗末な器である。
男はしばし、食事を眺めていたが。
ぱくり。
美味かった。薄味だが体に浸み込んで来るかのような滋養。まともな食事などどれくらいぶりなのだろうか。
男は、勢いよく食事をかき込み始めた。熱さに口腔が耐えうるギリギリの速度である。
「あーあー。がっつくんじゃないよ、大の男が子供みたいじゃないのさ」
童女の呆れ顔もどこ吹く風。
やがて、鍋の中身は消費し尽くされる。時を同じくして、陽光が陰った。
夜が来るのだ。
「やれやれ。結局、喰ってる間もだんまりだったね」
「……」
「まあいいさ。しゃべりたくなきゃしゃべらなくてもいい。追い出しはしないさね。回復するまでしっかり休め」
「……見よう、と思ったのだ」
「うん?」
「山奥に住まうという化け物を、ひと目見よう、と思ったのだ。私は」
「ははぁ。あんた、馬鹿だね?」
「そうかも、しれぬ」
「そうかい。ま、もうお天道様はお
「せぬ」
「私を見て漏らした癖に」
「うっ……」
言い負かされた男の顔にくすり、と笑うと、童女は身を横たえた。
男も、再び寝床に横になった。
夜が更けていく。
◇
夜半。
男は、再び目を見開いた。既に十分眠っていたせいかもしれぬ。
尿意を感じた彼は、むくり、と起き上がり、乾いていた衣を身に着けるとよろよろ外へ出る。
霧が出ていた。随分と濃密なそれは、十歩先すら視界を遮るほど。下手にうろつきまわれば道に迷うことは必至である。
だから、男は余計な寄り道はしなかった。小屋の裏側。用を足すならそちらでしろと言い含められた場所で構えをとる。
「ふぅ……」
生き返る。
飯を食い、十分に休息し、そして今も。
現金なものだ。山に入ったのは、死のう。そう思ったからだというのに。
男は、官吏だった。それも、難関の科挙を突破し、高い地位に上り詰めた高級官僚である。
つい先日までは。
成功を妬んだ者の讒言によって、男は追放された。地位も名誉も金も。全てを失ったのである。
旅は過酷である。都市から追放された彼が生き残れる道理はない。
だから、このような山奥まで立ち入ったのは、ひと目見たかったから。山中には恐ろしい化け物が住んでいるのだという。どうせならそいつに食い殺されたいと。
にも拘らず、飯を食い、眠り、用を足して安堵している。
生に執着している証であろう。
滑稽だった。まだまだ己は死ねそうにない。
そんな事実に苦笑しながら、男が戻ろうとしたとき。
風が、吹いた。
霧が吹きはらわれて行く。
目が合った。
そこに佇んでいたのは、怪物。
猿の頭。タヌキの胴体。手足は虎で、尾はヘビ。
そいつの頭は、男から見て遥かな高みにあった。
明かな、化け物。そいつは虎視眈々と男を見下ろしていたのである。恐らく、霧が晴れるよりもずっと以前から。
―――死ぬ。
男は確信した。この怪物に抗することなどできようはずもない。
見上げんばかりに巨大な怪物は、音もなく歩み寄って来た。
この段階で、男は握り締めた掌が汗でぐっしょりしていることに気が付いた。ついでに、体の震えが止まらぬことにも。おかしなものだ。死ぬつもりで。この怪物に喰われてやるつもりで、このような山奥まで分け入って来たというのに。男はそう、思った。それはそうだ。そもそも死ぬ以外の道が絶たれたからこそ死を選んだのであって、死にたくて死ぬわけではないのだから。新たな道が目の前に現れれば、男は喜んでそちらに向かったろう。
だがもう。遅い。
怪物が男を食い殺す。
まさしくその刹那、絶叫が上がった。
―――GGGGUUUUUUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO!?
この世のものとも思えぬ苦鳴を上げたのは、男ではない。怪物が上げたのである。横手より飛来した鉄剣に、目を貫かれたから。
「―――やれやれ。せっかく助けてやったというに。勝手に死ぬんじゃないよ」
小屋の陰より現れたのは、童女だった。
怪物が立ち直る。苦痛に喘ぎながらも、童女への警戒心を最大限に高めていったのだ。
高まった緊張。張り詰めた糸が切れるように、全ては一挙に動いた。
怪物が突進する。対する童女が上げたのは裂帛の気合い。
対決は、童女の勝利に終わった。突如怪物が、殴り飛ばされたかのように進路を変えたからである。大地に転がる巨体。
見守っていた男にも、何が何やら分からぬ。強烈な
呆然とする男の前で、童女は口訣を唱え、そして素早く印を切った。常人が真似ようとすれば、茶が冷めるほどの時間を要するであろう複雑怪奇な印を。
魔術妖術の類に疎い男にも、術の準備である、ということは知れた。それも、恐ろしく強力な。
果たして。
異変は、天で起きた。霧が晴れ、満月が照らし出す世界。そこを幾多のきらめきが覆ったのである。
見上げた男は、見た。空中に、何十という針が出現したのを。それもただの針ではない。一本一本が刀の鋭さと槍の長さを備えた巨大な、黄金色の針だった。
術が完成すると同時。それは、雨の如く降り注いだ。
―――GGGYYYYYYYAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!?
再度、上がった絶叫は弱々しい。無数の針に貫かれ、大地へと縫い付けられていく怪物の、断末魔に過ぎなかった。
やがて悲鳴は途切れた。
呆気ない幕切れ。
全てを呆然としながら見守っていた男。彼へと、童女が歩み寄ってくる。
飛び散った血潮で真っ赤に顔を濡らした、化け物が。
一歩。二歩。三歩目で無様に尻餅を付き、恐怖で顔面を引きちぎらんばかりに変形させた男を捕まえると、童女は。
顔を、拭った。男の衣で、顔に付着した怪物の血をふき取ったのだ。
「……へ?」
「へ?ではないわ馬鹿者。人を化け物でも見るような目で見おってからに。これは罰だ罰」
「……あー……」
しばしぽかん。としていた男であったが。
やがて気を取り直し、居住まいを正すと、童女に向けて土下座した。
「ぬ?」
「―――さぞや名のある方術師とお見受けする!どうぞ弟子にしてくだされ!!なにとぞ!なにとぞ!!」
童女の額に冷や汗。この展開は予想していなかったらしい。
「落ち着け。ちょっと落ち着きなよあんた。驚いたのは分かるがちょっと待ちな」
「わたくし、もう行く宛もありませぬ。弟子にしていただけぬのならば野垂れ死にするまで。どうか。どうか弟子にしてくだされ!!」
「いや、だから」
「弟子にしてくれるというまでテコでもここを動きませぬぞ―――!!」
やり取りは結局、夜明けまで続いた。
童女は、折れた。男を弟子に取ったのだった。
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