木野々ライ

何故泣けないのだろうか

これは小説ではありません。ただの私の思いを書き連ねただけの文章です。もやもやして、思考がぐちゃぐちゃで、どうすればいいか分からなくて、ただ文字に起こしてみただけの、そんな文章の塊です。だから読み手に対して分かりやすさなど全く配慮していない文章ですが、興味のある御方がおりましたら、どうぞ最後までお付き合い下さいませ。

 

 私は嬉し涙が出ません。みんなで何かを達成したり、自分や周りにいいことがあったりと、周りが喜びの涙を流しているとき、私は泣けません。目を真っ赤にしたみんなの中で、私だけがカラカラ干からびた目をしているのです。先輩が卒業したときも、私は泣けませんでした。心の中では『寂しい』と『悲しい』と思っているのに。

 昔、とある誰かに言われたことがあります。

「泣けないのは悲しくないからじゃないの? その人が大切じゃないからでは?」

 数年前の記憶。誰から言われたかも覚えていない、でも確かに自分の記憶にこびりついた言葉。確か、中学の先輩が部活を引退した時だったような気もするので、友達からだったかもしれません。しかし今は言った相手は関係ありません。言われた言葉が重要なのです。今書いたものは数年前の記憶のため脚色していると思われます。しかし私が受け取った内容は『悲しいと思っていない』ということ。どうなのかと聞かれれば私はどう答えていいか分かりません。悲しい筈なのです。だけど、涙が出ない私は、心の奥底では、そう思っているのかもしれません。だから泣けない私は自己嫌悪に陥り、罪悪感に苛まれながら歪な笑みを浮かべるのです。


 しかしここで誤解されないように言うと、どんな場面でも涙を流せないような人間であるというわけではありません。むしろ私は泣き虫であると言っても過言ではありません。ある時は小学生の頃、図工の先生が怖くて授業の度に泣いていました。ある時は中学生の時、部活の本番で怒られ泣いてしまいました。ある時は高校生の時、授業中に問題が分からなすぎて静かに泣いていました。極めつけは家での出来事、たまたま放送していたドラマを見ていて人が死ぬシーン、過度な感情移入の結果泣き出してしまいました。他にも理不尽や悔しさ等で何度泣いたことでしょう。歳を重ねるごとに心は強くなっていったつもりでしたが最近になってまた泣き出すことが多くなっているようです。余談ですがこの文章を書く数時間前、親と進路の話をしている最中で泣いてしまいました。平静を装っていましたが、まあバレているでしょう。

 このように、私が全く泣くことの出来ない人間ではないことが分かっていただけたでしょう。それでは本題に進みましょう。嬉しい場面で泣くことの出来ない私は、一体何なのでしょうか。


 私は友達が大好きです、先輩が大好きです、後輩が大好きです、家族が大好きです。それは覆らない絶対的な真実である…………と思いたいのです。ですがそれは『嘘であるかもしれない』と、思ってしまうのです。こんな私を、周りのみんなはどう思うのでしょうか。

 

 ここで、私は一つ、皆様にお聞きしたいことがあります。

 

 



 ――泣けないことは、悪いことなのでしょうか。











答えの出せない私は、今日も泣きながら、泣けないまま、日々を過ごしていくのです。






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木野々ライ @rinrai

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