8話 恐怖! クモ型虚獣!

「一回落ち着きましょう」


 俺達は慌てて走っても無駄だと判断し、一度足を止めてこの異常事態の対処方法を探すことにした。

 とりあえず、各人の意見を聞いてみることにする。


「ファル。先程貴女は、ループしてるみたいだとおっしゃってましたよね?」


 少し神経質になっているのか、ファルは髪を軽く引っ張りながら「うん」といった。


「私もイルバート城の資料で見ただけなんだけどね。以前、城の騎士がここと同じように虚獣の影響でダンジョンになってしまった遺跡を調査していたことがあったんだって。その遺跡では、いくら階段を登っても同じフロアに戻されてしまったそうなの」


 確かに、それは今の状況と似ている。

 指を振って説明するファルに、ロブが身を乗り出した。


「そのときの騎士はどうやって遺跡を脱出したんだよ?」


 うー、と目を伏せ、申し訳なさそうにファルが答える。


「できなかった。その騎士は数年後にダンジョン化が解けた遺跡で、白骨死体になって発見されたの。彼の傍らに落ちていた手記を調査隊が見つけ、そこに記された出来事を資料にしたんだって」


 沈黙が重苦しく俺達にのしかかった。誰もが、このままベルランド森林に取り残され、飢えて死んだ自分の頭蓋骨を想像したに違いない。

 サビネがその空気を破り、言葉を発した。


「じゃあさ。その遺跡はどうやったらダンジョンじゃ無くなったの?」


 なるほど。ダンジョン化が解除されれば森も元の状態に戻る。道理だ。


「うーん、そこまでは書かれていなかったなあ。時間の経過なのか、それとも遺跡をダンジョンにしていた虚獣が倒されたのか。また別の要因があるのかも」


 虚獣を倒せばループも無くなる。虚獣がこの森をダンジョンにしているのならその可能性が一番高そうだ。

 しかし、俺には別の気がかりがあった。


「あの……」


 おずおずと口を開く。ファルが目を上げた。


「ん?」

「虚獣は、どうして住む場所をダンジョンに変えるのでしょうね?」


 そもそも、入った人間を惑わせるダンジョンを造るのには何か意味があるはずだ。虚獣どもがそんなことをする理由。それを突き止められれば、脱出の糸口になるはずだ。

 俺の言葉を受け、ロブが肩をすくめた。


「そりゃお前、獲物を逃がさないようにだろ? せっかく入ってきた人間に逃げられちゃ元も子もねえ」

「そうだな。じゃあ、なぜ俺達はまだ虚獣に襲われていないんだ?」

「んー……。今は準備をしてる、とか?」

「何の?」


 頭をがしがしと掻き、ロブがめんどくさそうに言った。


「知らねえよ。人間を襲う準備じゃねえの?」

「その通り」


 肯定されるとは思っていなかったのか目を丸くするロブをよそに、全員を見渡して頷く。


「虚獣は準備をしているんでしょう。俺達を襲うために、です。今まで虚獣に遭遇していないのは、それが原因だと思います」


 サビネが眉を寄せる。


「準備って、どんな?」

「例えば、仲間を集める。後は獲物を狩りやすい環境を整える、とかでしょうか」


 うーむ。ロブが唸った。


「俺達の事を監視しながら、虎視眈々とチャンスを狙ってるって訳か。……うおっ。あのデカイ蜘蛛が八つのお目目で俺の背中をじっと見てるって想像しただけで鳥肌が」


 ロブは身震いして腕をこすっている。

 と、何かに気づいたように、ん? と声を上げた。


「どうした、ロブ」

「いや、なんかよ。ネチャネチャしねえ?」


 言いながら、腕を触った指を開閉して顔をしかめている。

 見ればファルも自分の首筋に触れ、不思議そうに首を捻っていた。


「湿度が高いから汗でベタベタするんだと思ってたけど、それにしても――」


 ふわり。視界に白いもやがかかった。

 目を凝らす。もやを構成しているのは、非常に細い糸のような物体だ。それが空気中に大量に漂っているため、霞がかかったように見えるのだ。


 俺は右手を伸ばし、糸を指でつまんでみた。

 触れた感触はない。だが、つまんだ指先を開こうとした時、妙な抵抗を感じた。あたかも指同士が接着されているかのように。

 指先が糸を引いた。白い糸だ。


「これは――」


 俺は振り返ろうとし、自分の動きの遅さに驚いた。まるで水中に潜っているかの如く緩慢な動作だ。

 いつの間にか全身に糸が張り付いている。歩き出そうとすれば足の裏と地面を結ぶ糸がねばつき、手を伸ばせばベタつく肘が邪魔をして身動きが取りづらい。


 とっさに叫ぼうとした俺の口さえもが粘着質の物体のせいでうまく開かず、目を見開いた。

 ロブ、ファル、サビネの三人も同様に糸に絡めとられ、もがいている。


「こ……れ……は! 既に、虚獣が……!」


 宙に漂う蜘蛛の糸。その動きに一定の流れがあるのを感じ、目でそれを追う。

 緩やかに、穏やかにふわふわと流れてくる霧のような白い粘性の糸は、頭上の一点から発生していた。


 黄色と黒の横縞模様が描かれた太い棒状の物体。その先端がトゲのように細く尖り、そこから糸が吐き出されている。――蜘蛛の尻だ。

 僅かに見上げれば、赤く光る八つの光点が俺の目に飛び込んでくる。

 それを取り囲むように足が――虚獣であることを示す、黒い文字列が高速で流れる足だ――これまた八本生えていた。


「アトラナート、か。ようやくお出ましだな」


 俺が呟くと同時、他の3人が宙に舞った。眼球を転がして辺りを見渡す。

 かなり離れた木の上に潜んでいた、もう一体のアトラナートが糸を引いてロブ達を引き寄せているのを確認した。


 反射的に彼らへと手を伸ばしたが、俺の体に巻き付く蜘蛛の糸が突如膨張した。

 その糸は白い繭のように俺を覆いつくす。全く身動きがとれなくなった。

 足元のバランスを崩して体が傾く。絡み付いた糸が邪魔で足を踏み出せず、そのままうつ伏せに倒れた。無様に顔を地面に突っ込んでしまう。

 首をねじって口の中に入った土を吐き出す。


 地面に頬をつけた俺の目の前に、文字に包まれたアトラナートの足があった。

 ひび割れた声が頭の上から降ってくる。


「キ、サマ……。ナんだ、ソの音は?」


 俺は不自然な体勢で頭を持ち上げた。首が痛い。

 赤く丸い目が俺を見つめている。


「ほう。アトラナートは人語を解するのか」


 言いながら、片頬を上げて笑んでやる。

 巨大な蜘蛛の姿をした虚獣はたじろぎ、僅かに後ずさりすると、ハサミ型の大顎を開いて言葉を発する。

 アトラナートの声は高かったりひび割れていたりして、ひどく聞き取りづらい。


「頭が、わレる……。そノ、ノイズを……とメろ」


 人の口とは似ても似つかない蜘蛛の顎が人の言葉を話している。その構造に興味が湧いた。とりあえず、会話を交わしてみる。


「ノイズ? 雑音みたいな妙な声をしてるのはお前の方だぞ」

「アアアァァ……。イたい、痛イ、いタい……お前ダッたのカ、『ノイジー』は……」


 虚獣が言葉を話すのも驚きだが、俺を勝手に『ノイジー』という名で呼び、苦しんでいる様子なのはもっと奇妙だ。

 いったいこいつは何を言っているんだ?


「おい、俺はなにもしちゃいない。落ち着けよ、アトラナート」


 俺はアトラナートに諭すような口調で声をかけ、なだめてやる。

 内心の高揚を押し隠して。


 ――こいつ、面白い。とてつもなく面白いぞッ! もっと情報を引き出してやるッ!


 興奮に煮えたぎる俺の頭から、ファル達を心配する気持ちは完全に吹き飛んでいた。

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