くっそ長いプロローグ しかもその2

 足音はまるで聞こえないが、ジジジ……という雑音がすることで虚獣が追ってきていることがわかる。

 わかるけど、怖くて振り向けない。だから走る虚獣とどのくらい距離が離れているのか、それとももう僕のすぐ後ろにいるのか。それは全然わからない。お願いだから追い付かれませんようにと祈りながら僕は走り続けた。


 ようやく、村を守る人がいる詰所が見えてきた。

 僕は大声で助けを呼ぼうとして――。


 絶望に目の前が真っ暗になった。


 詰所はたてがみを生やした四本足の巨大な獣と、爬虫類のような虚獣の二匹に襲われていた。

 魔法使いの人は建物の中に潜んでいるらしい。というのは、詰所の窓から炎が吹き出してきて虚獣を攻撃しているからだ。

 しかし四本足も爬虫類も、素早く魔法をかわしながらその爪で詰所の壁を破ろうとしていた。


 あんな状態じゃあ、僕を助けているどころではない。


 ここにたどり着けば助かるという希望を打ち砕かれ、僕は絶叫しながら走り続ける。

 次に頭に浮かんだのは――母さんだ。


 さっきの僕の練習に付き合ってくれた時に見せてくれた、母さんの魔法ならこいつらを倒せるかもしれない。


 そのとき、僕の脇腹を鋭いかぎ爪が掠めた。

 ひやり、という冷たい感触の後、切り裂かれたシャツから血が噴き出してきた。


「ああ、うわああああーーーーッ!」


 痛みはない。というかそれにかかずらっている場合じゃない。

 蜘蛛に、追い付かれた。


 あまりの怖さにトチ狂ったのか、恐怖が限界に達すると怒りに変わるのかは知らないが、僕は何を思ったか突然立ち止まり、渾身の力で裏拳を見舞った。


「あっち、行けよーーッ!」


 叫びながら振った拳は何に当たるわけでもなく空を切り(虚獣にパンチが当たるわけがない)、僕は体勢を崩してみっともなくコケた。

 今にも蜘蛛の牙が襲ってくると思い、僕は腕で頭を庇いながら体を丸めた。無駄だとわかっていても体の反射はどうしようもない。


 人生でもっとも恐ろしい時間が過ぎる。

 体を食い破られるのを待っているだけの時間は、控えめにいっても地獄だ。

 いっそのこと、こっちから口に飛び込んでやろうか――自暴自棄になってそんなことを考えていると、ジジジという雑音が近づいてこないことに気がついた。

 恐る恐る腕の間から虚獣を見る。


 すると、僕を目の前にしながらよそ見をして、どこか遠くを見ている蜘蛛の姿があった。


 何か気を取られるものでもあるのか?

 ――ばか、それどころじゃないぞ! チャンスだ、逃げろ!


 そおっと体を起こし、駆け出す。

 すると逃げる僕に一拍遅れて気づいた蜘蛛が再び僕を追跡し始めた。


「ち、ちくしょう! ぬか喜びさせるなよっ!」


 僕は毒づき、再び走り出した。

 ついでに石を拾い、後ろ手に投げつけてやる。


 走り続けているうちに脇腹が痛くなってきた。蜘蛛に切られた傷ではなく、内部だ。がむしゃらに走りすぎたのだろう。

 ふと、ジジジジという音が遠ざかった。歯を食い縛って後ろを見る。

 巨大蜘蛛は、またしても何かに気をとられてそっぽを見ている。

 よし、このままなら逃げ切れそうだ。

 僕は萎えそうな足を叱咤して駆け続けた。






 馴染み深い、殺風景な丸太でできた家が見えてきた。僕の家だ。

 まさか連れてきてはいないかと後ろを振り向く。虚獣は着いてきていない。この確認ももう何度したことか。


 速度を落とさないまま、滑るようにして玄関にたどり着いた。重い木のドアをもどかしく開く。


「母さん! 虚獣だ! 虚獣が村に――」


 返ってくるのは静寂。

 家の中は僕と母さんが朝出かけたときのまま。スープのお椀も、パンくずが散ったお皿もそのままだ。


「母さん……? 帰ってきてないの!?」


 ゾッとした。昇っていた血の気が頭から引いていく。僕は踵を返すと、なけなしの力を振り絞って走り出す。

 母さんが外にいる。つまり、虚獣に襲われているかもしれない。

 胃の底が抜け、どこまでも落ち込んでいくような気分を振り払うようにして僕は走る。走る。走る。息が止まるまで走り続けてやる。






 とは言うものの子供の足が根性だけで動くわけもなく、20分程走ったところで僕はひっくり返りそうな胃を抱えて倒れこんだ。


「はあっ、はあっ、は! ……か、母さん……」


 涙がこぼれそうだ。あの化物たちに食われる母さんを想像するだけで胸のなかをヤスリで火が出るほど強く擦られているような気持ちになる。

 母さんに助けを求めて走っていたさっきの僕を殴り飛ばしてやりたい。


「僕は自分で逃げられるよ……。だから、母さんも無事でいて。お願いだよ……」


 一瞬でも、母さんに頼って魔法で虚獣を蹴散らしてもらおうなんて考えていた自分が許せなかった。

 母さんを守るのは僕だ。そう父さんに誓ったはずだ。それなのに僕は――。


 突然、体がぴょんと跳ねた。自分でやったわけじゃない。僕にはもうそんな体力は残っていない。地面の振動に揺さぶられたのだ。

 更に、遠くの方で爆発音を聞いたような気がした。

 心臓の音と自分の息づかいがうるさくて周りの音がよく聞こえないけど、確かにどこかで爆発が……。


 いきなり赤い光が目の前を埋めつくした。熱い空気が流れてきて顔を炙る。

 何事かと目を凝らす。立ち上がる気力もなく横倒しになったままなので、僕の視界の中では地面が壁のようにそそりたっている。


 今度はもっと近くで爆発が起きたようだ。大きな炎の塊が地面に着弾し、地を揺るがしながら爆炎を上げている。


 魔法使いの援軍が来たのか――? お城から遠い、この辺境の村へこんなに早く?


 僕の浚巡を嘲笑うように、また何かが飛んできた。

 それは僕の顔のすぐ近くに落ちて、鈍い音を立てながら跳ねてどこかに行った。

 一瞬だったがはっきりとそれは目に焼きついた。


 あの四本足の虚獣の、千切れ飛んだ頭だった。


「うっ、おおおわああ!」


 二拍ほど遅れてから僕は飛び上がり、きょろきょろ周りを見た。


 野原が燃え上がり、草の緑や花の黄色が萌えていた美しい草原は赤一色に染まっていた。

 心臓が耳の裏から定位置に降りてくれたのか、周りの音がよく聞こえるようになっている。

 僕は呆然として、野原だったものの向こうを見た。


 虚獣が集まっている。

 さっき詰所で見た爬虫類のようなやつ、それに人間の赤ん坊を緑色にして巨大化させたような嫌悪感を催させるやつ、それに、空を飛び回るハエみたいなやつだ。

 どいつもこいつもでかい。大人を5人くらい集めたような大きさで、体の半分くらいがあの黒い謎の模様に覆われている。


 ただ、僕が目を奪われたのは虚獣にではない。

 そいつらが群がっている中心にいる、母さんだ。


「か……」


 声を出そうとしたが、喉から飛び出す前に干上がってしまい、カサカサした音にしかならない。


 母さんはたった一人で虚獣の群れと戦っている。

 腕から放った突風で体を浮かせて宙を舞って虚獣の牙や爪をかわすと、逆の腕を高く掲げて振り下ろした。

 いかずちが迸り、緑色の赤ん坊のような虚獣に直撃。化け物の体は燃え盛る肉片と化して飛び散った。


「母さん……?」


 僕の声は小さく、自分の耳に届くのがやっとだった。

 しかし、それでも。なぜか母さんはこちらを見た。


 何かを叫んでいるが、遠すぎてよく聞こえない。


 オロオロと母さんの目を見ていた僕は、全身に鳥肌が立った。僕に気をとられている母さんの背に、虚獣の爪が迫っていたからだ。


「母さん! 危な……!」


 母さんは鬱陶しそうに後ろ手へ手をかざした。すると、母さんに襲いかかっていた虚獣は糸が切れたように崩れ落ちた。


 ちらりと虚獣を見やり、母さんは風を巻き起こして飛んだ。まるでおとぎ話の天使のように空を舞い、僕の方へやってくる。

 すと、と軽やかに音を立てて地面に降り立つと、いきなり抱きついてきた。

 何が起こったのか分からず僕は目を白黒させる。


「ちょ、え? 母さん?」


「しっかり捕まってなさい!」


 そういうと母さんは体を取り巻く様に再び風を起こした。

 僕の足が地を離れる。


「う、うあっ! ――飛んでる……!」


 ごう、と耳元で風が唸りを上げる。

 抱き抱えられたまま僕はすごい速度で加速していった。

 母さんの肩越しに目をやると、虚獣がどんどん小さくなっていくのが見えた。必死に追いかけてきてはいるが、飛翔するこちらの速度とは比べ物にならない。


 首をねじって母さんの顔を見る。

 普段はあどけなさが勝っていた母さんの表情は引き締まり、凛々しさを感じさせた。


「あ……!」


「ど、どうしたの? 母さん」


 母さんが声を上げた。

 そしていきなり飛翔を中断し、僕を下ろした。

 そこは、今朝母さんと歩いたあぜ道だった。


「アルド。ほら」


 母さんの示す方向には、一匹のトラ猫が草むらに身を潜めて震えている姿があった。


「トラ!」


 僕は仔猫の頃から知っている大事な友達に駆け寄り、抱き上げた。

 トラは虚獣の存在を感じているのか、ひどく怯えている。震えるばかりで身動きひとつしない。


「あ、ありがとう。母さん」


「急いで」


 母さんの顔は焦りに固くなっている。

 それでも僕がトラを大事にしていることを覚えていてくれたのだ。じん、と目の奥が熱くなる。


 トラを抱え、母さんに腕を回した。

 片手でしがみつく僕を落とさないためか、母さんはさっきより強く僕を掴み、再び空を飛んだ。


「母さん、すごい魔法使いだったんだね」


 僕の言葉に母さんは辛そうに笑うだけだった。

 そのまましばらく飛ぶと、村外れが見えてきた。村を出て、どこかに逃げるつもりなのだろうか?


「母さん、他の人たちは……?」


 母さんは唇を噛み、ゆるゆると首を振った。


 ――助けられない。そう言っているのだ。

 いくら強くても、限界はあるのだろう。英雄のように村の人たちを救って欲しいなどと、母さんには頼めやしない。


 シーナの顔を思い浮かべ、胸が張り裂けそうになったその時。

 とてつもない存在感を頭上に感じた。それと同時に、


「あうっ!?」


 母さんの体が衝撃に揺れた。僕らを運んでいる風が弱まり、墜落する。


「うわあああ!」


 背中から落ち始めた僕は慌てて体勢を整え、着地する。母さんが地面に激突しないよう支えながら。

 トラを左手で抱えているため、母さんを右手一本で支えることになった。不自然な降り方をしたことで足をくじいてしまう。


「う!」


 脳髄に駆け上がってくる足首の激痛に顔をしかめ、母さんを見た。

 背中から煙が上がり、皮膚が焼けただれている。


「母さん!」


 呻く母さんは、僕を押しやった。

 その方向には崩れかけた一軒の家があり、そこに身を隠せと言いたいようだ。


 母さんが心配でなかなか歩き出さない僕に、母さんが叫んだ。


「早く行きなさい!」


 怒っているというよりはむしろ悲痛なほどの母さんの声に背中を押された。僕はトラを抱いて廃墟の瓦礫に身を潜め、母さんの動向を見守り始める。


 母さんは上空を見上げている。

 そして、そこに何かが飛んでくる。

 そいつは黒い文字列に全身を覆われているが、人の形をしているのがわかる。

腕を組み、母さんを見下ろすとそいつは言葉を発した。


「ヘルバ。久しぶりだな」


「ミスラ!」


 頭のなかがぐるぐる回る。母さんはあの化け物を知っているのか?母さんの過去に何があったんだ? どうして突然村が襲われたんだ?

 考えることが多すぎて僕のちっちゃな脳みそは破裂しそうだった。


「ようやく見つけた。薄情じゃないか? 俺達仲間を見捨てて一人だけ逃げようなんて」


 ミスラ、と母さんが呼んだ虚獣は流暢に言葉を話す。

 聞いた事があった。強力な力を持つ虚獣には、人語を解するものがいると。


「あんたたちの実験にはもううんざりだったのよ。レルドはどうしたの?」


「当然、あっちにいるさ。会いたいか? 愛しの男に」


 母さんと虚獣はお互いを知っているようだ。

 しかも愛しの男だって? それは誰だ? 父さんか? 父さんは死んだはずだ。


 怯えたトラが逃げ出そうと僕に爪を立てた。しかしここから出てはミスラに見つかってしまう。痛みを堪えてトラを強く抱え込んだ。


「私をイマジナリー化する気?」


 母さんがまたよくわからない事を口にする。

 対するミスラは重々しくうなずいた。


「そうだな、博士。我々には貴女の知識が居るんだ。大人しく来てもらおうか」


 母さんは大きく息を吸い込むと、


「おあいにく様。私はここが気に入ってるの。――行く気は、ないわ!」


 大きく腕を振った。

 その動きに合わせ、巨大な火の玉がミスラ目掛けて飛ぶ。


「おっと」


 ミスラは空中で身をかわし、火球を避けた。


「ふっ!」


 母さんが振った腕を強く引き戻す。すると明後日の方向に飛んでいくと思われた母さんの魔法が急停止。再びミスラに襲いかかった。


 激しい爆発音を立て、ミスラの体が火に包まれた。

 煙の中から、人影が姿を現す。


 濃い藍色の髪を長く伸ばした長身の男だ。

 灰色の変わった素材の服を着た上半身と、文字列に覆われたままの足。

 

 ――あいつは人間、なのか?


「さすがの魔力総量と制御能力だな。こんな寒村に甘んじている必要はなかっただろう? ヘルバ」


 感心したように笑うミスラ。母さんはやれやれと頭を振った。長い髪が揺れる。


「目立つとあんたたちに見つかるからよ。……それも無駄だったみたいだけど」


 ミスラは親しげに片目を閉じた。


「いやいや、かーなーり骨を折らされたよ。まあ、その苦労話は後でしようか」


「悪いけど、大人しく着いていく気はない」


「なら、その気になってもらおう」


 ぱちん、とミスラが指を鳴らした。

 その瞬間、僕の近くの瓦礫がガラガラと音を立てた。


 あの、僕を追いかけ回していた蜘蛛の虚獣が、無感情な八つの目でこちらを見ている。


「わああああ!」


 思わず叫んで立ち上がった僕に母さんが振り向いた。


「アルド!」


「待て、ヘルバ!」


 僕の方へ向かおうとした母さんにミスラが初めて声を荒げた。

 母さんが立ち止まると、満足そうに微笑んでいる。


「さあ、俺がもう一度指を鳴らせばその子もイマジナリー化することになる。どうする? ヘルバ」


 恐怖で僕は声を出せない。母さんに「僕は平気だから、そいつをやっつけて!」と言いたい。でも、蜘蛛から目を離せない。


「おっと、健気な子だ。助けて! ……って叫ばないぞ」


 ミスラは茶化すように髪をかきあげる。

 母さんは絶望した目で僕を見て、ゆっくりうなだれた。


「その子には、手を出さないで」


「それは受諾の意と取っていいのかな?」


「好きにしなさい」


 何が起こっているのかさっぱりわからない。でも、母さんが僕の為に犠牲になろうとしているのははっきりわかる。

 震える顎を無理やり開き、声をひねり出した。


「だ、ダメだ! 母さん、僕は大丈――」


 叫ぶ僕に、大人しくしてろとでも言いたいのか蜘蛛が不気味な口を開いて僕にその中を見せつける。

 その口内にも文字列がうごめき、改めて普通の生物との異質さを感じさせられた。

 またしても湧き上がる恐怖に、僕の喉が凍りつく。


「やめて!」


 叫ぶ母さんに、ミスラは手を伸ばした。その腕が黒い文字列に覆われていく。


「最後に、息子に何か言ってやれよ」


 最後。その言葉に僕は震えた。

 あの化け物、ミスラは、母さんをどこか遠くに連れて行ってしまう気だ。


「や、やめろ……」


 かたかたと歯が鳴る。

 母さんに怯える僕を見られたくない。

 何言ってるんだそんな場合じゃないだろ、泣き喚いてでもあの化け物を止めさせろ。

 違うそうじゃない、立ち向かえ。

 勇気を奮い起こせ――くそ、涙が出そうだ。

 泣いちゃいけない。それだけは――。


 母さんは強い顔で僕を見た。


「アルド、きっとまた会える。だから――」


「悪いが、時間切れだ」


 ミスラの体を再び模様が覆い始め、顔が見えなくなる。

 その腕を母さんに向けると、その文字列が手から迸った。

 母さんが黒い奔流に飲み込まれる。


 目玉が落ちそうなほどに瞼を開いていた僕の前で、母さんも虚獣と同じく全身を文字に覆われ、小さく収縮していき、そして、消えた。


「か……」


 声が出ない。目の前で起きたことが信じられない。

 母さんが――。


「さて、ようやく済んだな。じゃあね、アルド君。強く生きるんだよ」


 ――生きて。母さんは最後にそう言った。

 あの黒い文字に飲み込まれる寸前、凛とした表情で。

 僕と目が合った一瞬だけ、泣きそうに歪んだ目で。


 その、母さんの言葉を。


「お前が、口にするなあぁーーッ!!」


 じっと僕を見つめている蜘蛛の恐怖も忘れ、空を飛ぶミスラの足元へと僕は走り出した。

 何が出来るかなんてわからない。それでも、この怒りを、憎しみを、あの化け物にぶつけてやらなければ――気がすまない!


「何だ? その目は? ――俺に、そんな目を向けるんじゃねえよ、ガキ」


 ミスラはあっけなく僕を攻撃することに決めたようだ。母さんとの約束など、屁とも思っていないのだろう。

 怒りが悲しみを塗りつぶしていく。そしてそれは殺意へと変わった。

 あの、クソったれ野郎を、――殺してやる!


「うおおおおああああーーッ!」


「死ね」


 僕を狙うために地面に下りてきたミスラの手が光を放ち出した。母さんを攻撃した文字の奔流ではなく、魔法で僕を殺す気のようだ。

 このままでは死ぬ。

 何か、奴に一矢報いてやらなければ。


 そう考えている僕の手が、無意識にミスラを指し、魔力を飛ばした。

 奴の体内に僕の魔力が浸透していった。


 腹の底を揺さぶるような重低音が鳴り響き、ミスラが火球を放った。

 それは掌に収まるほどの小さな火の塊だが、高い濃度の魔力が圧縮されているのを感じる。あれに触れたら一瞬で体を焼き尽くされるだろう。

 火球は矢のように一直線の軌道を描いて高速で飛び、そして――。


 僕の背後にいた蜘蛛を直撃。

 破裂音と共に蜘蛛が爆発し、燃え上がる肉片となって四散した。

 ミスラが動きを止めている。


「……何? なぜ、俺はアトラナートを撃った? ――こいつ、俺に何をした!?」


「おおおおあああーーーーッ!」


 拳を固め、ミスラに殴りかかる。

 右は身を引いたミスラにかわされた――崩れる体勢のまま、左手で裏拳を放つ。


「バカが!」


 ミスラは僕の左腕を掴み、勝ち誇ったように叫んだ。

 その瞬間、僕の左手の内部の肉と骨を、痛みが伴わないまま引っ掻き回されるような強烈な違和感に襲われた。

 黒い文字が僕の腕を覆い、侵食してくる。


「わあああーーッ!?」


 腕を振り払い、ミスラから距離を取る。

 僕の左腕はもぞもぞと動き回るおぞましい文字列が完全に覆い隠していた。

 肩口からもぎ取られたかのように、感覚がない。動かせない。


 絶叫する僕をよそに、ミスラは哄笑を上げている。


「お前の脳を完全にはイマジナリー化してはやらない。俺達と同じ存在になれるなどと思わないことだな」


 僕の左腕は痙攣するかのようにびくびく動いている。

 うっすらと感覚が戻ってきたが、握ることも持ち上げることも出来ない。


 不意にミスラが近寄ってきた。僕は再度殴る構えを見せたが、顔を殴り飛ばされてあっけなく吹っ飛んだ。


「ぶぐっ!」


 倒れ、鼻血を出して這いつくばった。

 地面についた右腕に、何かが触れる。

 それは、不気味に蠢く、蛆虫の群れだった。

 僕の手のひらはそいつらを押しつぶし、ぶぎゅぶぎゅと気味の悪い感触が伝わってくる。


 絶叫して飛びのく。蛆虫を払い落とそうと手を見た。

 何もいない。地面に目をやる。

 群れていた蛆虫も、綺麗さっぱり消滅している。


「脳の一部だけイマジナリー化してやった。何かおかしいものでも見えたか? アルド君」


「げ、幻覚?」


 ミスラが笑う。文字に覆われて見えない顔が、ゲスな喜びに満ち溢れているのを容易に想像できる声。


「なぶり殺しにしてやるぞ。――クソガキが、俺のポートに触れやがって。ただではすまさない」


 ちくしょう、ちくしょうちくしょうちっくしょおおおお!

 母さんを奪ったアイツを、ぶっ殺してやる!


 でも、どうやって?

 ミスラは魔力で奴に干渉した僕を警戒している。

 それ以前に、アイツを攻撃する方法がない!


 逡巡する僕は何かを探すようにさまよう。


 何かを見た気がした。また幻覚か?


 ミスラの後ろに、誰かが立っている。

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