トリトニアのせい


 ~ 五月五日(土) おとなの日  ~


   トリトニアの花言葉 私の愛は海のごとく



 そう。

 俺はあれ以来、五月五日には決まって体調を崩して。

 いや、体調を崩したことにして。

 部屋から一歩も出ることは無かった。


 だから十数年。

 ずっと見ていなかったわけなんですけど。


「なんだこれ? ……穂咲、これって……」

「うん、違うの。これじゃないの」

「なにを言ってるんだお前らは。本物だぞ? この鑑定書を見よ!」




 ~🌹~🌹~🌹~




 ~ 十三年前  五月五日 ~


 晴れの特異日と呼ばれ久しい五月の五日。

 しかしその評価は統計的なものであり、予言たるいわれを持つはずも無い。

 卯の花をくたす走りとなるその飛沫は、地に伏せる者を影法師のごとく浮き上がらせて、誰そ彼との時刻を昼の最中さなかにまで引き伸ばしてしまっていた。


 旧家にして名家。

 門に威風を構えし豪邸の正面に、飛沫で家名の重きを象るほど大きな影が止まり、静かにエンジンを切る。

 ボンネットから立ち上る水蒸気も形作る間もなく叩かれ霧消するほどの雨足の中、その影から付け下げが番傘の案内に足を下ろすと、地に伏せた男に一瞥して、嘆息と共に開き始めた門へと視線を移した。


「…………ここによしが穂を下げていては、時候もわきまえぬ下賤とそしりを受けましょう。早々に分をわきまえなさい」

「お母さん。……僕は藍川の家にお願いがあって参りました。どうかお父さんにお取次ぎをお願いいたします」


 影法師として身を縮めていた巨躯が身動みじろぎと共に付け下げを仰ぐも、凛とした杜若カキツバタを思わせる佇まいは一顧だにせず。

 かえって細い顎を逸らし、藍川なる門構えを番傘の縁まで見上げるに至るのだった。


 その細面に朱は差さず、心の内は家紋の封に閉ざされて探ること叶わず。

 だが、返す言葉には些細な意思などあったとしても拘ることなく、家紋を背負った絶対だけがそこに宿っていた。


「卯の花くたしに抗う術を持たぬなど、藍川がお相手をなさるとお思いか。お引き取りの程を」

「いえ、そうはいかないのです。僕は二人の子供に酷いことをしてしまいました。しかも、あの子は僕の失態を庇ってくれたのです。なんとしても、その泣き顔を笑顔に変えてあげなきゃならないんです」

「……ならば芸でも見せてあげれば宜しいでしょう」

「はい、ですのでこうしてお願いに来ました。実家を頼った僕はきっと笑われることになるでしょう。まさに芸のようなものです」

「嘆かわしい事です。今で存分に恥知らずと言うのに。……楓香ふうか。この方にいとまのお愛想を振舞って差し上げなさい」

「待ってください! ……穂咲が泣いていると、せめてその一言だけお父さんに伝えてください」

「父母と呼ぶの禁を心得違いなさってはおりませんか? 俗に落ちた身で何たる不遜。……あなたは藍川を、何と心得る」

「……もちろん、穂咲のおじいちゃんです」


 男はそう結ぶと、色の良い返事を待ちわびた。

 しかし返って来るは再びの嘆息のみ。

 その吐息が包んだ思いはいずれにあるや。

 春を夏と上塗る温みを抱いた雨に遮られるでは、それも推し測るにあたわず。

 男はただ、巨大な門に消えゆく付け下げの後姿を見つめることしかできなかった。


 ……だが固く閉じられた門金具に彫られし家紋をじっと見つめ続けているうちに、何かを確信した優しい笑顔を男は浮かべる。

 そして自分が守りたい場所へと力強く足を進めると、いつしか厚い雲は割れ、濡れそぼる身体をペトリコールが包んでいくのだった。




 ~🌹~🌹~🌹~




 ~ その一年前  五月五日 ~


「ちょっと! そっちしっかり持ちなさいよ! 傾いてる!」

「ごめんね、こうかな?」

「…………いやいや、奥さん。藍川だけに任せてあなたが手を離した方が良さそうだが?」

「え? パパ、持ちにくいの? あたし、邪魔?」

「えっと…………、いや、そんなこと無いよ?」

「どうしていつもそういうウソつくの! あたしが間違ってたらはっきり言いなさいよ!」

「しー! あんたらいっつも騒がしい! せっかくこいつら寝かしつけたあたしがバカみたいじゃないのさ!」

「……お前の声が一番うるさい」


 あらいやだなどと、しなを作っておどける奥さん。

 そんな姿を見て吹き出す芳香よしかさんと秋山さん。


 僕は空気を悪くさせてしまう名人だから。

 奥さんに、いつもどれほど助けられているのやら。


 すっかり機嫌を損ねてしまった芳香さんにひとつ謝って。

 秋山さんの奥さんにお礼をして。

 そして、せめてこれ以上迷惑をかけないようにと気を張って。

 鎧を箱から取り出した。


 我が家は女の子だけだから、男の僕としては、鎧兜を飾る秋山さんの家が少し羨ましい。

 ……まあ、そんな言葉、おくびにでも出そうものなら。

 また芳香さんを怒らせることだろう。


「どうだ藍川、この鎧兜は」

「そうですね。煌びやかでかっこいいです」

「ふふん。そんな月並みな感想を口にしたことを後悔させてやろう」


 どういうことでしょうか。

 見た目よりお高いものなのかな?


 よしなさいよと奥さんに声をかけられた秋山さんだが、構わずに彼が言うには。


「この鎧兜は、かの秋山信友のぶともが使用していたものなのだ!」

「ええっ!? そりゃあすごい! ……なら、秋山さんは直系なんですか?」

「う。……いや、そういうわけではないのだが……」

「また始まった! 藍川さん、話半分にしときな!」


 居間のテーブルに腰かけた奥さんが、芳香さんにお茶をすすめながら僕にしかめ面を向けてくるのだが。

 もちろんこんなことを言われて、秋山さんは黙っていないだろう。


「うるさい! 俺がじいさんから聞いた話を疑う気か!?」

「あんたのじいさんが言ってたから眉唾なんじゃないのさ。あの人、ピサの斜塔が倒れないように二年半支えてたって言ってたわよ?」

「その話は本当だ」

「……じゃあ、ピラミッドのてっぺんの石を高野豆腐に換えてきたって話は?」

「その話も本当だ」


 な、なんというほら吹き。

 ではこの鎧兜も?


「さっきからうるさいぞお前は! 柏餅でも食って黙っていろ! …………いや、お前は何を食っているんだ?」

「あんたはひなあられも知らないのかい?」

「お前は何を食っているんだ!」


 あははは。

 確かに、こんな時期にどこで買って来たのですか?


 秋山さんご夫妻は、いつも賑やかで楽しいことだ。

 芳香さんも楽しそう。


 部屋の隅っこでお昼寝してる二人まで笑っているように見える。

 きっと夢の中で、みんなと一緒に笑っているんだね。


 さて、それでは作業に戻ろうか。

 胴を飾り、脛あてと手甲をつけて。

 ええと、あとは……。


「秋山さん。兜はどこです?」

「そっちの箱だろう。……ああそうだ。アレを準備しないといけないんだった」


 なにやら呟きながら秋山さんは席を外してしまったが、飾りか何かの事だろう。

 先に兜を出しておこうか。


 彼が指差していた箱を開くと、中から鎧に負けないほど煌びやかな兜が顔を出す。

 年代物だろうに、どれほどの手入れをしているのだろうか。


 ……いや、こうなってくると奥さんの言っていることが信憑性を持つが。

 この際、本物か偽物かなどどちらでも構わないか。

 秋山さんが大切になさっているんだ、そちらの方が重要だ。


 だが、慎重に木箱から兜を取り出す僕に、奥さんが笑いながら話しかけて来る。


「そんな丁寧に扱わなくてもいいさね! そこいら中ガタがきてるおんぼろよ!」

「いえいえ、ガタがきているならなおさらですよ。壊さないようにしないと」

「もう、とうに壊れてるんだっての! えっと左だったかな、角飾りが簡単に落ちると思うけど」


 おっとと。

 そりゃ危ない。


「だから、先に外しといた方がいいんさね。飾ったあとからくっ付けないと」

「ああ、なるほど。左ですね?」


 教えていただけて助かった。

 今、何も知らずに角飾りが落ちたりしたら心臓が止まってしまうところでした。


 僕は奥さんに言われるがまま、左の角飾りを外しておいた。

 ちょっとひっかかった感じがしたけど、なにぶん古い品だ。

 そういうものなのだろう。


 ……だがその違和感はやはり正しかったようで。

 秋山さんが、接着剤を手に戻って来るなり頭を抱えてしまったのだ。


「…………折ってしまったか」

「え? ええと、これは外れるものではないのですか?」

「なるほど、こいつに聞いたんだな? ……違うんだ。外れるのは、右の角飾り」

「ええっ!?」


 秋山さんは、やれやれとため息をつきながら角飾りの折れた所をやすり始めた。

 もちろんその間、僕はお詫びし続けるしかない。


「大切な品を、申し訳ありませんでした!」

「いやいや大げさな。もともとボロボロだし、気にしないでくれ。なんなら右側を折ったのは俺だし」


 そう言いながら、右の角飾りを外して接着剤を塗っていらっしゃいますけど。

 気にするなと言われても、そういう訳にはいかないでしょう。


「本当にすいません。修理代を出したいのですが、これだけの品になると実家に出入りしていたような専門の職人でないと……」

「わはははは! その人も言ってるじゃないのさ! 気にしなさんな!」

「ああ、本当に気にしないでいいぞ?」

「どうせ偽物だしね!」

「おいこら」

「ごめんなさいね、パパがどんくさくて。ちゃんと修理代は持つわ。本物には見えないから大した金額しないでしょ?」

「奥さんまでなんてことを」


 女性二人にからかわれて、秋山さんは眉根を寄せてしまったが。

 奥さんはともかく、今のはいけない。


 僕は居住まいを正してテーブルに向き直る。


「……芳香さん」

「なによ急に真面目くさって」

「物の大切さについては、自分の物差しで測ってはいけません。秋山さんの大切になさっている品に、今の言葉は失礼だと思うんだけど」


 僕の言葉に一瞬目を丸くした芳香さんは、そのままふいっと横を向いてしまった。

 ああ、僕はうまい言い方が出来ないな。

 また君を怒らせてしまったようだね。


「……そんなことくらい分かってるわよ」

「ですね。偉そうなことを言ってすいません」

「それに元はと言えば、あなたが壊したんじゃない」

「そうだね……。秋山さん、本当にすいませんでした」

「もう勘弁してくれ。気にするなと言っているのに、俺が悪者みたいじゃないか」


 じゃあ詫びとして左側は君がやってくれ。

 そう言いながら兜を手渡してくれた秋山さん。

 上手い言い方をするものだ。

 僕も少しは見習わないと。


「……ほんとにどんくさいんだから」

「すいません」


 芳香さんはご機嫌斜めなままだし。

 身から出た錆とは言え、なんて居心地の悪い。


 でも、僕が仮止めを終えて兜を鎧の上に据えると、奥さんが豪快に笑って空気を換えてくれたのだ。


「わはははは! 男はどんくさい方がいいんじゃないの? 何に触れても痛むこたあないってのも美徳さね。お花屋さんに向いてるじゃないのさ!」

「……お花屋だって、スピードとセンスが必要なことあるわよ」

「でも、ゆーったりお花を扱う旦那さん、かっこいいと思うけど?」


 え? そうかなあ。


 つい浮かんでしまった照れ笑い。

 でも、すぐに後悔することになってしまった。


 ちらりと僕を見た芳香さんの目。

 あれは、僕が渡した花束から虫が飛び出したあの時と同じ目だ。


 せっかくのお誕生日だったのに、三日ほど口をきいてくれなかったんだよね。

 今度も同じ目に遭うのだろうか。


 でも、慌ててご機嫌を取るために芳香さんの元に近付いた僕に。

 芳香さんは意外な行動をとったのだ。



 …………どうして腕など組むのです?



 え? え? ここからどういう折檻に繋がるの?

 もう涙目になり始めた僕の耳に、芳香さんの凛とした声が響いたのだが。


 でもその言葉は、想像していたものとあまりに違いすぎて。

 僕は目を丸くして、耳を疑うことになってしまった。


「そう、ほんとどうしようもないの。この人が世界一かっこいいのは、お店にいる間だけなんて」



 …………えっと。

 芳香さん、いま、なんて?



 おろおろ転じて、ふわふわと。

 浮つく足取りのまま腕をひかれて。

 僕たちはお暇することになった。


 ……こまったな。

 やっぱり僕には不相応。

 今更ながらに思います。


 こんな素敵な人に、世界一などと言われたら。

 頑張らないといけない。

 それ以外の気持ちが心に浮かんでこない。


 君と、そして君が胸に抱える穂咲のために。


 僕は、できることは何でもするよ。

 ずっと、ずーっと未来まで。



 幸せにするよ。



 約束だ。




 ~🌹~🌹~🌹~




 そこに飾ってある品は。

 鉄くずとしか表現しようもないその品は。


 サビなのかカビなのか、赤茶や緑青といったネガティブな色でおおわれて。

 パーツがみすぼらしく針金で留められていますけど。


 かろうじて、上のがヘルメットに見えるので。

 下のは鎧なのでしょう。


「…………父ちゃん。この鎧兜、何?」

「道久もとうとう興味がわいたのか! よろしい、話してやろう! ……ごほん! 時は永禄十一年…………」

「ああ、そういうのいらない。俺の知ってる鎧兜とまったく違うんだけど。いつの間にこの変なのになった?」

「変なのとはなんだ! この鑑定書を見よ!」

「そういうのもいいから。昔飾ってたやつはどうした?」

「ああ、まさかあれが偽物だったとはな……。だがこれは本物!」


 ええと、どういうことかよくわからないけど。

 俺は穂咲といっしょに首をひねります。


「なんで本物の鎧兜がここにあるの?」

「俺も知らん。……なぜだ?」


 なにそれ。


「父ちゃんが知ってることだけでいいから。ゆっくりとご説明ください」

「もちろんだとも! 時は時は永禄十一年…………」


 いやいやいや!

 鎧兜の話じゃなくて!


 ……でも、この人の鎧兜へのこだわりは尋常じゃないので。

 始まった以上、諦めるしかありません。


 こうして、父ちゃんの講談は延々と続いたのでした。




 明日の朝までつづく


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