結、意味と価値と慈悲と

 動くものは、何もない。あたりにあるのは、灰と塵だけだ。

「ああ、君は実に働き者だ」

 がりがりと、噛み砕く。ついさっきまで、助けを求めて泣き叫んでいたものを。きっと、これにも家族がいたのだろう。大切な人がいたのだろう。ああ、かわいそうに。

「楽しいかい? 嬉しいかい? 邪心のままに振る舞うのは」

 だが、似ていたのだ、あいつに。それだけで、俺の理性は吹き飛んだ。いや、この体には最初から理性なんてものは備わってはいないのかもしれないが。とにかく、あいつに似ている、それだけで十分だった。

「癒されたかな? 君の悲しみは。満たされたかな? 君の飢えは」

 邪心魔将となってから、多くの人間達を壊し、消し去り、糧としてきた。それは、実に甘美なものだった。特に、あいつに似た背格好の少女を犯し、壊し、食らうのは。そのたびに、荒れ狂う俺の邪心はわずかに満たされたのだ。

「だが、ふふ、だがしかし、足りないのだろう?」

 そうだ、足りないのだ。壊せば壊すほど、食らえば食らうほど、俺の邪心はほんのわずかに癒され、そしてますます、強くなった。焦げつくように、燃え立つように。足りない、足りない! もっと壊せ、もっと食らえと。怒りを、悲しみを、嘆きを憎しみを、思い知らせてやれと、叫ぶのだ。

「どうすればいいかは、わかるね?」

 そう、結局これらは、代替物に過ぎない。似ていようがなんだろうが、おもちゃの人形をいくら壊したところで、一時の慰めにもならないのだ。

「それでは、そろそろ行こうか」



「ああ、そういえば、君は知っているかな? 天使は、邪心を抱かない。彼女らは所詮、天主の下僕に過ぎない。世界秩序を守るために存在する彼女らに、そんな機能は不要というわけだ。天主の定める秩序と正義を信奉し、それに殉じる心さえあればいい。そういう意味では、真に自由な意志を持つ人間のほうが、高等な生き物なのかもしれないね」

 もう何度目だろうか。皇帝陛下に導かれるまま、様々な土地に赴き、ひたすらに破壊を繰り返す。悲鳴と怒号、砂塵と灰塵。色鮮やかだった人々の営みが、すべて灰へと変わっていく。

「さて、私はもう少し餌を撒くとしよう。ああ、君は気にせず、思うままに渇きを満たすといい」

 わずかの癒しと、層倍する渇望。足りない、足りない……。幽鬼のようにさまよいながら、俺は目につくものを塵芥へと変え続けた。


「そこまでだ! 邪心魔将!!」

 天から、声が降る。

「転生天使、ルプエルが相手だ!」

 天使、白と金の。――俺の、敵!

「オオオオォォ!!!」

 湧き上がる敵意のまま、殺意のまま、突撃する。

飛天輪ホイールオブヘイロウ!」

 天使の両手に、光の輪が現れた。

「行けっ!」

 投げ放たれた光輪が、大気を切り裂きながら迫る。――狙いは、首と胸。

「ギッ!」

 首目がけて飛来したひとつを、片腕で弾き飛ばす。わずかに腕が裂かれたが、それだけだ。もうひとつは避けるまでもない。光輪の刃は、分厚い影の肉体に少しばかり潜りこんだだけで止まっていた。

 胴に刺さった光輪を、無造作に引き抜いて投げ捨てる。地面に落ちた光輪は甲高い音を立てて消滅した。

「飛天輪が……! なら!」

 天使は上空へと飛び上がる。

灼光球フォトンスパーク!!」

 突き出された両手から溢れ出したまばゆい光が幾重にも束ねられ、極小の太陽が形成される。

「焼き尽くせ!!!」

 解き放たれた光の球が、俺の頭上で炸裂した。凄まじい閃光に、視界が白く、染まる。


「はあ……はあ……どうだ!」

「ゴオオォ!!」

「なっ、ぐあっ!」

 小さな天使の体を、思い切り弾き飛ばす。俺の全身からはぶすぶすと煙が上がっている。多少体表を焼かれたが、この程度ならすぐに再生できる。素晴らしきかな、魔将の力!

「オオッ!!」

 背から生えた影の翼をはためかせ加速、天使の吹き飛んだその先へ。

「ぎゃっ!」

 追撃。力任せに巨大な拳を叩きつける。軽い体は面白いように吹き飛び、地面に激しく衝突する。

「ガアアアァァ!!!」

 重力による落下に、翼による加速も合わせて急降下。見る見るうちに地面が、芋虫のように這いつくばる天使の姿が近づいてくる。

「ひ……やめ……」

 轟音と衝撃、土煙が激しく舞い上がった。


「アアアアアア!!!!」

 打擲ちょうちゃく、乱打、滅多打ち。拳を、足を、滅茶苦茶に叩きつける。何度も何度も何度も何度も。

 天使は無様に縮こまったまま、光の盾を作り出し必死に耐えている。

 構わず、俺はひたすらに拳を打ちつける。

「うっ、が! ぐぇ……!」

 盾はあっという間に軋み、砕け、拳が天使の体に降り注ぐ。

 必死に盾を作り直すが、そんなものは何の意味もない。

 作り出すそばから砕く。拳が体を打ち据える。盾を作り直す。その繰り返し。


「あ……う……」

 小さき天使は、ついには呻き声を上げるだけになった。

 弱い! 脆い! こんなものなのか! 天使とは!! 俺を苦しめ、俺を裏切り、俺からあいつを奪ったやつらは!!

「ぎゃあああぁぁ!!」

 もはや言葉を発する気力もなくなったかと思われた天使の口から、絶叫が迸る。背中に生えた純白の翼に、牙を突き立てたのだ。肩と頭を両手で押さえつけ、そのまま思い切り力をこめる。

「あ……あぁ……」

 ぶちぶちと、嫌な音を立てて翼が根元から引きちぎれた。天使の味は、酷いものだ。とても食えたものじゃないな。ちぎれた翼を、地面に吐き捨てる。

 天使の首ががくりと下がる。死んだか? ……いや、まだ、息はあるようだ。

 しかし、もう飽きた。もういいだろう。何の力もない人間を屠るよりは楽しめたが、天使すら、邪心魔将の力の前ではこの程度。

 意識を失った天使の頭を掴み、持ち上げる。空いた腕を鋭く、槍のように変え、その体に……。

「ルプエル!!!」

 背後から、声。

 ゆっくりと振り返る。そこにいたのは、怒りに満ちた目でこちらを睨みつける、天使。

 白い衣装、白い翼に、頭上には光の輪、そして、ふたつに結われた、金の髪。

 ――転生天使リンカネル。

「貴様……! 今すぐ、その薄汚い手をルプエルから離せ!!」

 手の中のものを、放り投げる。彼女がいれば、こんなものに用はない。

「覚悟はできているだろうな、邪心魔将……! ルプエルを傷つけた罪、すぐに償わせてやる!」

 歓喜が、全身を駆け巡る。ようやく、ようやくだ。再び、巡り会えた。そして、今、リンカネルは俺を見ている。俺、だけを!

 歓喜と、それを上回る殺意が、全身に満ちていく。

「グオオオオオォォ!!!!」

「く……!」

 そうだ! 俺を! 俺を見ろ!! リンカネル!!!

 思い知れ! 思い知れ!! 思い知れ!!! 俺の怒りを! 悲しみを! 嘆きを! 憎しみを!!! 思い知れ!!!!!

 地を蹴る。リンカネルに向かって、一直線に突進する。

「天輪剣!!」

 光の剣が抜き放たれるのが、見えた。


「カ……ヒュ……」

 おかしい。体が、動かない。声すら、出せない。それに、何故、こんなに地面が近いんだ?

生命の裁断セフィラシュレッド……!」

 体。俺の体。邪心魔将の黒い巨体が、リンカネルの光の刃で細切れにされていくのが見える。

 微塵に刻まれた影の肉体は、再生叶わず霧のように消えていった。


「ルプエル……! ルプエルしっかりしろ!」

 崩れ落ちた天使を、リンカネルが抱き起こす。

「なんて、酷い有様だ……。何故、一人で先走った、馬鹿者……」

 目に涙すら浮かべて、リンカネルはボロボロの天使に語りかける。

「邪心魔将ですら鎧袖一触とは、いよいよ往時の力を取り戻したようだね、リンカネル」

「イヴィ、ロード……!」

 いつの間にか、リンカネルの背後に皇帝陛下の姿があった。

「それにしても、ああ、ああ、かわいそうに、バフォメット。……リンカネル、お前のせいで、お前のために、彼はあんなにも身を、心を、焦がしたというのに。だというのに、これは、余りにも酷い仕打ちではないかね?」

「何を、わけのわからぬことを言っている……! 貴様が、哀れな子羊をたぶらかし、邪悪へと堕としたのだろうが!」

 振り返りざまに、リンカネルが剣を突きつける。

「ああ、お前達は、天使はいつもそうだ。口では哀れと言いながら、その実、お前達は彼らのことなど歯牙にもかけてはいない。向き合おうともしない。単なる家畜と、単なる邪悪と、切り捨てる。その傲慢さ、狭隘さ――実に、実に度し難い!!」

 陛下の体が、その輪郭が崩れ、溶ける。マントの中から際限なく闇が溢れ出で、異形の巨体を形作る。既に人の形など留めていない。そこら中から腕とも脚ともつかないものがでたらめに生え、背からは空を覆うほどの巨大な二対の翼が広がっている。肉食獣、あるいは巨大な爬虫類を思わせる頭部には、無数の赤い眼球が怪しく蠢く。

「ようやく、本性を現したな、古き悪しきテリオンめ」

 名状しがたい、闇の獣。

「決着をつけようか、天使。リンカネルよ」

「――貴様には、亜空の果ての大寒獄すら生ぬるい。永劫の、無明の闇へ、還るがいい! イヴィロード!!」

 最後の戦いが、始まる。


「偉そうに講釈を垂れながら、貴様のやっていることはなんだ! いたずらに破壊と殺戮を繰り返し、ただただ混沌をばらまくだけではないか!」

 リンカネルの闘志に呼応するように輝きを増した光の剣が、人間の胴より太い触手を斬り落とす。

「私は、お前達が切り捨てた、すべての報われぬ者達の救済者だ。そして、死は、殺戮は、祝福なのだ。邪心を癒し、満たすための暴虐。その結果としての、死と殺戮。それは、犠牲などではない、尊き聖餐せいさんである!!」

 しかし、無数にあるうちの一本を斬られたところで何ほどのこともない。次から次へと、リンカネルを捉えようと触手が殺到する。

「語るに落ちたな! 貴様は所詮、狂った邪悪の化身にすぎない!」

 降り注ぐ光の束が、迫る触手をまとめて焼き払う。

「ははは! 狂った秩序の下僕が、何を言うか!!」

 残された触手の先端から、黒い雷が迸る。

「天に仇なす邪悪めが!!!」

 光の剣が、雷を打ち払う。

「人も救えぬ人形ごときが!!!」

 再生した触手が、再び押し寄せる。


 もはや言葉もなく、両者はひたすらに激突を繰り返す。

「ああああぁ!!」

 俺を……。

「オオオォォォ!!」

 俺を、見ろ、リンカネル……。

灼熱光波フォトンプラズマ!!」

 俺、を……。

虚空天体アカシックスター!!」

 俺を、見てくれ、りん、な…………。


 願いは、届かない。叫びは、届かない。誰も、俺を見ない。俺の名前を呼ぶ声も、差し伸べられる救いの手も、何も、ない。怒りも、悲しみも、嘆きも憎しみも、どこにも、どこにも、届かない……。

 もう、何も、見えない。聞こえない。感じない……。朽ちていく、消えていく。塵すら残さず、すべてが……。


 あのころの、懐かしい日々が、蘇る。あいつが馬鹿なことを言って、俺はそれをやんわりといさめる。あいつは笑う。俺も笑う。小さな手を取り合い、二人、いつまでも、いつまでも……。

 幸せな夢。ありもしない幻を最後に、俺の意識は、永遠の闇に、落ちた。

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邪心の将 ~転生天使リンカネル~ アワユキ @houryuki

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