転、邪心と邪心

 つけっぱなしのテレビの明かりが、カーテンの閉め切られた薄暗い部屋を照らす。画面に映っているのは、天使の姿。恐ろしい影を相手に一歩も引かず、彼女は華麗にやつらを屠り続ける。

「凛奈……リンカネル……」

 俺は、学校にも行かなくなっていた。何もする気力がわかない。ずっと部屋に引きこもり、抜け殻のようにただただ無為に毎日を過ごしていた。世の中がこんな状況だ。両親もうるさく学校に行けだの言ってきたりはしない。

 鬱屈した感情だけが、俺の中で渦巻いていた。何もない、何もできない自分の不甲斐なさ。世界を、俺の大切な日常を滅茶苦茶にした邪心皇帝への怒り。彼女を失った悲しみ。……いや、そもそも、失うなんていうのもおこがましいのだ。俺は何を勘違いして、何を期待していたのか。大人になるにつれて、あいつが中二病を卒業して普通の女の子になって、俺は幼馴染としてそんなあいつの隣にいて、そうやって当たり前にずっと一緒にいる、そんな、甘い夢。……そんな未来はどこにもなかったのに。


「甲斐……ちょっと、買い物に行ってきてくれない?」

 そうやって数日が過ぎたころ、母に頼まれた。

「凛奈ちゃんがいなくなって、町も滅茶苦茶になって、辛いのはわかるけど、いつまでも閉じこもってたらますます気持ちがダメになっちゃうわよ」

 これ以上ダメになることなんてあるものか、とも思ったが、断るのも億劫だった。渋々了承し、俺は久しぶりに外へ出た。



 人が、すべてが、灰に変わっていく。阿鼻叫喚、断末魔の声も、もはや途絶えた。

 こんなことになるなら、やっぱり外へなんて出るべきじゃなかった。俺は激しく後悔していた。

「おや、これはこれは……」

「あ……うあ……」

 俺は情けなく地面にへたりこんでいた。わずかな水音と共に、股間に生温かい感覚が広がる。しかし、そんなことを気にしていられるような状況じゃなかった。

「そう怯えずとも、取って食おうというわけでは……あるかもしれないがね」

 邪心、皇帝……。

 逃げなければ、と思っても、完全に腰が抜けてしまって力が入らない。意志の力なんてものは、幻想だと思い知る。圧倒的な恐怖の前で、人間の意志なんて何にもなりはしないのだ。


 突然の出来事だった。急速に立ちこめた暗雲の中から、影の群れを伴って邪心皇帝が現れ、辺りのものを片っ端から灰に変えたのだ。


「ふむ、君は、リンカネルの依代よりしろと共にいた少年だね」

「あ……?」

 俺を、知ってるのか?

「意外かな? 村田甲斐君。……ふふふ、こう見えても、私は君達、人間が好きなのだよ」

 何を、言って……。

「そう、依代といえば、あの娘――六道凛奈。彼女もかわいそうな子だね。君ももう知っているとは思うが、六道凛奈という少女は、最初からこの世のどこにもいなかったのだ。本当なら普通の両親のもとで、愛され、祝福されて産まれてくるはずだったのにね。だが、実際産まれてきたのは天使憑きだ。産まれた時、あるいは産まれる前から、リンカネルが彼女の体に憑りついていたのだとすれば、本当の彼女は、彼女の魂は、一体どこに行ってしまったのだろうね?」

「な、にを……」

 喘ぐように、言葉を絞り出す。こいつは、何を言っているんだ? わからない。

「ああ、すまない。君には関係のないことだったかな。……そう、そうだね。そんなことより、君のことだ、村田甲斐君」

 こいつに名前を呼ばれると、心臓を鷲掴みにされるような異様な感覚を覚える。こちらを威圧するわけでもなく、ただ何気ない調子で呼んでいるだけなのに。

「お、あ……」

 俺なんかに何の用が、と言おうとしたが、恐怖のせいでまともに声も出やしない。

「怖がらなくてもいい、と言っても、まあ無理だろうね。……そもそも、君達は勘違いをしているのだ。私は、君達の敵ではないのだから」

 敵じゃない、だって? あれだけ人を殺して、町を滅茶苦茶にしておきながら?

「ふふ、では味方か、と問われれば、半分はそうだ、と言えるね。私が味方するのは、強い邪心を抱く者だ。不条理への怒り、喪失の悲しみ、世の無情への嘆き、悪辣なる者への憎しみ……。あらゆる邪心、それに身を焦がす者の味方だ。天におわす主とやらは、それらをすべてまとめて悪と断じ、裁きを与えようとするが、とんでもない。人は自然と邪心を抱くものだ、そうだろう? だから、私はそれらの邪心を叶え、満たし、癒してあげたいと、そう思うのだよ」

 頭が、ぼんやりとしてくる。何故だろう、さっきまで全身を縛っていた恐怖が、段々薄らいでいくような……。

「ああ、ああ、すまない。また話がそれてしまったね。大事なのは君のことだ、村田甲斐君。――君の邪心は素晴らしい」

 俺の、邪心?

「君はよほどあの娘、六道凛奈に執心していたのだね。……だからこそ、君の邪心はそこまで強い。何の力もない自身への、あるいは力を授けてくれなかった世界への怒り。ただ一人の、愛する人を失った悲しみ。彼女を取り戻すことも、隣に立つことも許されない運命への嘆き。――そして、何より、自分を裏切った彼女への憎しみ」

 憎、しみ……? 俺が、あいつを……憎んで……?

「ふふふ、そうだよ。――憎いよね? 彼女が」

 そんな、そんな、ことは……。

「ああ、いじらしいなあ、君は。愛しいからこそ、憎い。愛しかったからこそ、憎みたくない。憎んではいけない、そんな感情は間違っていると、必死に押しこめながらも、どうしても憎しみを遠ざけることができない。――ああ、君は、こんなにも彼女を想っているのに、彼女は君の想いに応えてくれなかった。……どころか、彼女は、君を、虫けらのように、見下した」

「おまえぇぇぇ!!!」

 頭の中が、真っ白になる。

「ああ、ふふふ、ああ、ああ、いい、怒りだ」

 怒りに任せて飛びかかるが、やつはあっさりとかわす。勢い余って、俺は地面につっこんだ。

「だが、違うだろう? その怒り、その憎しみは、彼女にこそぶつけるべきではないのかね?」

 無様に転がる俺に、邪心皇帝は囁く。

「憎いだろう? 君を裏切った六道凛奈が。許せないだろう? 君から彼女を奪ったリンカネルが。君を苦しめる、彼女達が……」

 凛奈が、裏切った。リンカネルが、奪った。

 違う。おかしい。こいつは、何を言っている? そう、わかっているのに……。

「だから、君。村田甲斐君。私の、手を、取りたまえ」

 影でできた、不定形の黒い手が、俺の目の前に差し出される。

「そう、そうだ。これが本題だよ。君の邪心は素晴らしい。だから、私の手を取りたまえ。私の同志となるといい。――君の邪心、天の主は救ってくれない。地に堕ちた天使は癒してくれない。君の邪心を、理解し、叶え、満たし、癒す。その手伝いができるのは、私だけなのだから」

 同情、理解、そして、救い。優しく、魅惑的で、どこまでも、甘美な、言葉。言葉が、俺の、心に、染み渡って、いく……。


 …………ああ、ああ、わかった。ようやく、わかった。こいつは、いや、この方は、俺の、味方だ。俺を助けてくれる方だ。俺を必要としてくれる方だ。手を取るべき方なのだ。

 俺は、ゆっくりと、差し出されたその手を、握った。

「ぎゃああああああぁぁ!!!!」

 熱い! 冷たい! 痛い!

「ふふ、はははは。嬉しいよ、村田甲斐君。我が、同志」

「あああ、ああああぁ!!!」

 壊れる! 消える! 俺が!

「大丈夫、大丈夫だよ。それは、私からの祝福だ」

「あ……が……」

 痛みが、消える。光が消える。音が消える。何も見えない。聞こえない。感じない……。



「素晴らしいよ。素晴らしい出来だ。私の目に狂いはなかったようだね」

 痛みはない。五感は研ぎ澄まされている。思考は靄がかかったように不確かだが、そんなものはきっと些末なことだ。

「見たまえ、君の新しい姿だ」

 邪心皇帝が、皇帝陛下が、地面に散らばっていたガラスの破片を指差した。

 そこに映ったのは、黒の巨人だ。腕も脚も、丸太のように太い。華奢な人間の体とは大違いだ。こちらを見つめ返すのは、巨大な真紅の単眼。頭からは、ねじくれた二本の禍々しい角が生えている。

「君は、もはやか弱き人間、村田甲斐ではない。邪心魔将イヴィルガイスト、バフォメットだ」

 邪心、魔将……。

「さあ、さあ、存分に、君の邪心を満たすといい。君の怒りを、悲しみを、嘆きを憎しみを、世界に思い知らせてやるといい」

「グオオオオォォ!!!」

 天高く、俺は咆哮する。人の言葉は失った。もう必要ない。今の俺には、力があるのだから。邪心を満たすための、強き力が!

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