第5話 奴が出た

 その時、私は玄関先で硬直した。


 奴だ。奴がドアに挟まっている。羽をバタつかせ、身体を抜くに抜けぬ、死ぬに死ねぬまさに絶体絶命の時を迎えているそいつに、むしろ私が絶体絶命の危機に晒されたのだ。


 ゴキブリだ。


 何故そうなっているかわからないが、出入りした際に挟まったのだろう。それはいいが、割に元気にバタついている。そうなると、次に想像できるのは、ドアを開け放した瞬間、暴徒と化してこちらに向かって来るという事。


 私は虫が嫌いだ。ゴキブリが大嫌いだ。泣くほど嫌いだ。


 妊娠中、元旦那にゴキブリの話をすると、「そんなのじゃだめじゃん。母親ってのは強くないといけないでしょ。一人でそんなもん退治できるようになれよ。母は強し」……忌々しい。何が母は強しだ、そんなもの不燃物の日に出したわ。じゃあ父はなんなのだ。


 確かに、ゴキブリが出ると母が飛び出して物凄い勢いで倒す。悪速斬、新聞紙を丸める作業でさえコンマの世界だ。私にもそれが身につくのだろうか――息子を産んで親と言うものになったが。


 怖い!


 産んだ瞬間からそりゃ母親というものに分類されるが、だからといって人が変わるわけではない。母は強しなんてものに突然進化するわけじゃない。デジモンでもなければポケモンでもないのだ。私は残念なほど私のまま親になったのだ!


 どうしよう。ゴキブリを目の前に私は泣いた。まず、武器がない。殺虫剤も新聞もない。ほうきも外だ。人もいない。初期装備が何一つないのにラスボスに挑む村人Aだ。


 このまま息を引き取るのを待つか……いや、仕事がある。タイムリミットが決まっている。では倒すか……それが、挟まっているので、全面を叩くことができない。仕留め損なう可能性大だ。


 どうする。どうする!? いっそ進化しないだろうか、私の心――。


 スマホを握る。そうだ!


「……ごめん。今から来て。ゴキブリがいるの! 一人で退治できない! ほんとごめん! 倒して!」

「わかりました! 一分で向かいます!」


 助けを求めた。近所に住む大学生の女の子だ。小さな頃から付き合いがあり、その日彼女はたまたま実家に帰っていた。彼女は虫の類が平気で、ゴキブリを倒すのも全く気にしない。


 言った通り彼女は一分で到着、ドアを開けると、やはし暴走したゴキブリになんと! 謎の筒を被せ(ラップの芯みたいなものより少し大きい)、上からスプレーを吹き込んで殺した。


「死にました! もう大丈夫ですよ!」


 女子大生は笑顔でゴキブリを新聞紙で包み、ビニールの袋に入れて処理完了した。


「ゴキブリは叩くと汁が出るし卵が残る可能性があるので、どこか行かないし上から倒せるのでこの方法が一番です。死骸は持ち帰るので安心してください! 明日ゴミの日ですし!」


 なんと頼もしい……! それに比べて、私は……。


 ――私は誓った。これからも人を頼りに生きて行こう、と。旦那、父親だけが身内じゃない。友人も同僚も、そして近所にいる小さかったあの子だって、みんな頼もしい家族がいる……!


 ゴキブリだけはほんと無理。

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