第2話 二人で過ごしたあのころ
俺と戸田あかねがいつ頃知り合ったのか覚えていない。家がかなり近所だったから、親が井戸端会議をしている間に一緒に遊んでいた記憶はあるが。
そう、俺が一番古い記憶はこうだ。俺の家の玄関に当時置いてあった鉢植えにカマキリがいた。緑色の立派なやつ。そして、それを捕まえて得意になってあかねに見せたら、びっくりしたあかねにほっぺたを平手で殴られた。確か、三歳くらいの時のこと。
こんな風にあかねとの思い出は大量にあって、逐一並べていったらキリがない。だから、俺が大切にしているものだけ話そうと思う。
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俺とあかねは待ち合わせをしていた。場所は近所の神社だ。柱は所々かけていて、屋根が淡い緑色をしている。よくは知らないが、古い建物特有の、ちょっと湿ったようなこもった匂いがする。
季節は秋に入って、ようやく暑さが少し収まってきた時期だ。昼過ぎの空には雲はまばらで、太陽が元気いっぱいに輝いていた。
俺はその場でぐるっと一回転して、あかねの姿が無いことを確認した。仕方がないので、賽銭箱の横にある階段に腰を下ろす。途端に、ミシという小さな音が聞こえた。どうやら床板も古くなっているらしい。
俺は足をぶらぶらさせながら、下ろしたてのトレッキングシューズを眺めた。ブラウンで、普通のスニーカーに比べて靴紐の感じがごつい印象を与えるのが新鮮だった。ちょっと前に買ってあったのだが、今日はあかねと二人で山に行く予定だったので、母親にせがんで出してもらった。
ミシミシという音が少し離れたところから近づいてくる。のけぞるようにして見上げると、ハンカチで手を拭きながら、クリッとした目のあかねが歩いてくるところだった。小脇に花屋をしている叔母さんからもらったという図鑑を挟んでいる。長袖のオレンジのシャツにクリーム色の長ズボン。
「暑くないの?」
「お母さんが虫に刺されたらダメだからって」
「え」
俺は自分の服装に視線を落とす。白の半そでシャツに、黒の半ズボン……。大丈夫かなという不安がうっすらと頭にまとわりついた。
山道であかねがパラパラと図鑑をめくっている。目の前には黄色い花。高さは俺の胸くらいまであって、その先についた細かくて大量の花がまるで、見ろ、と命じるように風でゆうらりと揺れている。
「なあ、もうそろそろ諦めないか」
俺は声をかける。なにせ登ってから、たびたび立ち止まっては道に生えているのが何なのかを調べることを繰り返していた。もちろん、すぐにパッとわかることはないので毎回それなりに時間を食う。けれど、
「私はこのために来たの!」
若干拗ねたように反論されると何も言えない。それに、確かにあかねが山に来たのは植物の観察が目的だった。最初の頃は、道端に生えているたんぽぽとか、よその絵の庭に咲いているつつじとかで満足していたのだが、だんだん物足りなくなってきているらしい。とはいっても、俺だって山をちょっと登ったところにある広めの公園でフリスビーがしたかった。前からたまにやっていたが、家の近くだと細い道で投げるだけでちょっとミスをすると他人の家に入ったりするのでのびのびできなかった。今日はせっかく思いきりできると思って楽しみにしていた。正直、あんまり時間をかけたくない。
「そろそろ行こうよ」
「だから、ちょっと待っててば――あった!」
小さく叫んでこっちに開いたページを見せてくる。
「オミナエシ?」
実物と写真を見比べてみる。これと断言はできないが確かに似ている。
「花言葉は、『約束を守る』だって。あと、薬にもなるって書いてある」
「え、これ食べるの?」
俺はもう一度花に顔を近づけた。緑の濃い葉っぱにふさふさした黄色い花。正直……マズそうだった。
「うん……あんまり食べたくはないね」
二人で苦笑いすると、ようやく先を進みだした。
着いた公園は聞いていたよりも広かった。学校のグラウンドよりも広い面積の敷地には骨組みの一部が気になっている滑り台や、ロープで作った網でできた遊具なんかが間隔を空けて並んでいる。しかも、住宅地から離れているせいか人があまり居ない。これは絶好の遊び場だ。
「ようし、やろう」
「あ、図鑑置いてくる」
俺がフリスビーを投げると、あかねは近くのベンチに向かって小走りに駆け寄った。だれにもキャッチしてもらえないフリスビーが投げた俺自身がびっくりするくらいまっすぐに飛んでいった。
しょうがないので自分で走って取りに行く。あかねはその間に俺からちょっと離れたところにスタンバイしていた。
「いいよ」
「よし!」
勢い込んで投げると、フリスビーは今度は右にカーブしていく。さっきのはまぐれだったらしい。
「ゆっくん、へたくそ~」
あかねがこっちを指さして笑ってくる。真っ白な歯で笑う姿は、青空によく似合う。ちなみに、ゆっくんというのは俺、手島優太のあだ名だ。普通は『ゆう君』と言いそうなものだし、実際他の人はそう呼んでいたが、あかねだけはなぜか『ゆっくん』だった。
「そう言うんなら、やってみろよ」
ちょっと悔しかったので挑発してみると、あかねは自信満々で笑うと「えい」と掛け声つきで投げてきた。フリスビーは勢いよく地面に激突する。
「おい! 気をつけろよ」
壊れやしないかと心配になるくらいだったが、幸い1センチちかい厚さのプラスチックは無事に耐えてくれていた。
「そんなに簡単に壊れたりしないって」
あかねはそう言うと、もう一度投げてきた。今度は距離が短い分、ちゃんと俺のもとにやって来た。
それから二人でフリスビーを投げ合った。最初はお互い変なところに投げて相手が走り回ることが多かったが、徐々に慣れてきて日暮れ前にはお互いのもとにちゃんと届けられるようになっていた。
「あ、そろそろ帰ろうか」
カラスがカーカー言いだしたのを聞いてあかねが言った。空を見ると、太陽はずいぶんと傾いていた。あと、一時間少しで日が暮れる。
俺たちは早足で家路を急いだ。
「あ~あ、遅くなったね」
「あかねが図鑑を忘れたりするからだろ」
俺たちは息を切らせながら道を歩いていた。一旦下りようとしたら、あかねが図鑑をベンチに置き忘れたことに気づいて二人して取りに戻ったのだ。二度目に山を下りる時に、坂道を一気に駆け下りようとしたが、子供の体力でできるはずもなく息をハアハア言わせるだけになった。ちなみに、太陽は半分ほどが山の向こうに消えている。空の反対側は黒に近い紺色だ。
俺は腕をポリポリかいた。さっきから妙にかゆい。
「だから言ったのに、ゆっくん半袖だもん」
気づいたあかねがまるで俺のお姉さんのような顔をして話しかけてきた。手のかかるやつと思われるのが嫌で、かゆみをこらえて話をそらす。
「ここ、抜けていこう」
焦っていた俺はあぜ道を指さした。舗装はされておらず、ただ人が歩いて踏み固めただけの道だ。夏が過ぎて元気を少し失くした雑草たちの向こうには色が黄色っぽくなり始めた稲が広がっている。その上を赤とんぼが飛んでいる。全体が夕陽に彩られていて少し幻想的だった。
「通っていいの?」
「いいんじゃない。よく、近くの人が歩いてるし」
少しガタついた道は自転車が通りづらいので、逆にゆっくりしか歩けないおじいさん、おばあさんにとっては安心して通れる道らしい。なら、俺たち子供が通っても問題ないだろう。
「急がないと、怒られるよ」
「ゆっくんのお母さん、時間にうるさいもんね」
二人で横並びに歩いていると、あかねが「あ」と声を出した。
俺の前でつと立ち止まったあかねが道端の花を指さす。スッと細い茎についた真っ赤に燃えるような花。
「私、この花が好きなの」
「でも、これって……」
かたまって咲き誇る深紅の花。彼岸花。
彼岸花と言えば、うろ覚えだったがあの世に咲く花という意味があったはず。あまり積極的に好きだという人を見たことがなかった。少なくとも、彼岸花か桜なら確実に桜の方が人気はある。
けれども、すっきりした茎にそっと手を当てて、あかねは言った。
「この時期ってさ。夏が終わって、緑がちょっとくすんでいく時期じゃない。そんな時にこんな風にくっきりと浮き出て見える感じが好きなんだ。この赤い色が、絶対に目に入るじゃない。なんていうか惹きこまれる気がして」
しゃがみこんだあかねを、夕陽が照らす。艶やかな花を愛でる姿がとても綺麗だった。心がぎゅっと震える感覚。あんまりに綺麗で、触ったら崩れてしまうんじゃないかと思った。これが俺の初恋だった。
少しでもこの光景を見ていたくて、俺も隣にしゃがみこむと、二人で彼岸花について調べてみた。風がさあっと吹いて、あかねの長いツヤツヤの髪が俺のほっぺたをくすぐる。
彼岸花には別名やら花言葉が無数にあって、俺はその中から一つだけを選んで覚えることにした。
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俺とあかねはこの後も普段通り過ごした。学校の行き帰りにちょくちょく話して、放課後二人で遊ぶ。これまでと何にも変わらない生活。
でも、あかねが隣にいると、違った。全てが少しずつこれまでよりも鮮やかに見えた。空の青さ、おしゃべりしながらの給食、道で鳴く雀の声。それらが、あかねが真っ白い歯を見せて笑ったり、「ゆっくん」と声をかけてきた時、彼女の周りで輝いていた。
俺は幼すぎて恋が何かなんて全く知らなかった。考えたこともなかった。ただ、この日々が続けばいいな。そう思っていた。
しかし、山に行ってから一週間ほど経ったとき。彼女は学校に来なくなった。
近所だったからという理由で、俺は学校のプリントを届けに行き、そこであかねの母親から事情を聞いた。普段はニコニコしているあかねのお母さんが、表情の抜け落ちたお面のような顔で語ったこと。
あかねは入院した。もともとは腕がいたいということだったらしい。腕の内側のところにふとした拍子にお皿をぶつけたところ、ズキッと痛みがあった。手でそっと押してもやっぱり痛い。病院に行くと、動脈瘤と診断された。父方の祖母が同じだったので、遺伝らしい。
俺は、頼み込んでお見舞いに行かせてもらうことにした。あまりにも現実感が無くてよく分かっていなかったけど、とにかく大変なことだと感じたから顔を見ておこう。そう思った。
学校が無かった土曜日。いったいどうしたらいいのかと、緊張しながら、俺はあかねのお父さんが運転する車で病院に向かった。少し離れたところにある総合病院だった。ほんの少し黄色っぽい白の大きな建物。
会ってみると、あかねは拍子抜けするほど元気だった。辛そうな顔なんかまったくない。普段通り。俺が入った時には、ベッドのテーブルでアクアビーズを作っていた。
「あ、ゆっくん。久しぶり」
手まで振って見せる。何だか呆れた。これじゃ、病人はおばさんの方に思える。
「お前、病気なんじゃないのか。おばさん、すごい顔してたぞ」
俺はあかねの両親が医者の話を聞きに行ったタイミングで尋ねた。
「でも、手術したら治るって言われたよ。押したらちょっと痛いけど、何もしなかったら平気だし」
黄色のビーズの周りに青を足しながらあかねはあっけらかんと答えた。本当に、心配なんか一切ないっていう表情。
「木曜日に手術なんだ。それで終わり。今は一応入院してるけど、万が一の時に備えてるだけ」
「そう、なんだ」
呟く俺に「はい」と言ってあかねがビーズを見せる。青を背景にした月だった。よくできている。
「来てくれたお礼」
そう言って、あかねはにっこりと笑った。俺が好きな、白い歯をきらっと見せる笑みだった。
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これが俺とあかねの最後の会話だった。
この日から三日後の夜。動脈瘤が破裂してあかねは息を引き取った。夜中で本人が眠っていたため、当直の人が気づいた時には手遅れだったらしい。彼女は、知らせを聞いて駆けつけた家族の前で、一度も意識を取り戻すこと無く、亡くなった。
手術予定日の、わずか二日前の出来事だった。
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