15.婚前のマグノリア
木蓮が咲いたばかりに……。
耀平はいま、ハラハラしている。どこまでこの義妹は俺をこうして安心させてくれないのかと――。
今日は山口の家に、息子の航もいる。
その息子も心配そうにして、部屋から出てきた。
「カナちゃん、まだやっているんだ……。相変わらずだね」
またリビングに散らかっている叔母のスケッチを眺めて、航は呆れることも通り越して感心した顔を見せた。
そんな耀平は、リビングのソファーに座って、一人酒。ふて腐れているとも言えた。
「で、新郎さんはイライラしているんだ。いつもの父さんじゃないね」
「うるさい。落ち着かないだけだ」
「だよね。結婚式一週間前になって、カナちゃんがあれじゃあねえ」
豊浦実家のリゾートホテルで内輪だけの食事会をする。それを披露宴とし、または人前式としてそこで親族に夫妻になることを見届けてもらう日が目の前だった。
無事に希望の高校に合格した航も、山口のこの家に移転。花南と一緒に暮らす日を迎え、結婚式当日は、父親と叔母と一緒に、豊浦入りをする予定だった。
なのに。式を十日前に控えた頃になって、花南が急にいつもの『鬼気迫るガラス制作に没頭する日々』に突入してしまい、また周りのことを全て放置してガラスに向かっていた。
「父さん。カナちゃんって、そういうことコントロール出来たんじゃないの。俺が来る時は、のめり込まないようモチベーションをコントロールしていたって言っていたじゃんか。結婚式があるからコントロールとか出来なかったのかな」
「おまえが小さい時は、それは徹底していた。だが、航が没頭する姿を受け入れてくれたと知ってからは、そこはお構いなしになったような気がする」
「カナちゃん。結婚式なんてどうでもいいと思っていたみたいだしね。ここにきて、マジで結婚式投げ出しているのかも?」
花南ならやりかねず、だから耀平はハラハラして待っている。
床に散らかっているスケッチを、航が丁寧に拾い始める。
「木蓮か。これ、いま庭に咲いているよね」
「そうだ。そいつのせいだ」
耀平はグラスにあったオンザロックの焼酎を飲み干した。
「父さんも、一週間前だから、そういう飲み方やめておけよな」
すっかり声変わりをした息子に窘められ、耀平はグラスをテーブルに放った。
「あー、もう。女房になる女のなのに、義妹なのに、わからない!!」
ソファーにふんぞり返って、耀平は目元を覆った。
「あはは。父さんをそんなに悩ますだなんて、カナちゃんってすごいね。あのさ。前から思っていたんだけど。カナちゃんてもしかして、男に主導権を握らさない強気の女だったりして」
耀平は目を覆ったまま、黙り込んだ。
なんて大人ぶったことを話すようになったのだろう。この息子は。ちょっと前まで、若叔母がいないだけで拗ねて『カナちゃん、カナちゃんがいい』なんて可愛らしく甘ったれていたのに。
どうしてそう図星のようなことを言うのだ。お父さんは哀しい……。
もうすぐ妻になる義妹は、確かにそんなところがある。男に甘える可愛さも見せるようになってきたのに、結局は、男の気持ちを置き去りにして『我が道を往く女』なのだ。
「もしかして、庭に木蓮が咲いたから、急にぴんと創作スイッチが入っちゃったのかな」
「かもな」
「恐ろしいスイッチだね……。カナちゃん没頭すると、長くて十日は人間を捨てるからなあ」
息子の航もこの家に頻繁に泊まりに来るようになってから、二度ほど、そんな没頭する花南に遭遇している。
そうなると、どんなに可愛い甥っ子でも花南は見向きもしなくなり、工房に籠もりきりになる。
だから航がまだ幼い時は、甥っ子の相手が優先として、モチベーションをコントロールしてくれていた。だが甥っ子が家族として、ガラス職人である叔母のことを受け入れてからはこの有様だった。
「でも俺。そんな後に出来上がったカナちゃんの作品を見るのが好きだな」
それは、耀平も同じだった。
「だよな。はあ、もう腹括った。どうにでもなれだ。シャワー浴びてくる」
「それがいいよ。俺ももう寝ようっと」
キッチンで喉を潤す航を見て、耀平もバスルームへ向かう。
だが、リビングを出て、少しだけ気になってしまい工房へと向かう。
勝手口を出て、まだ熱気が渦巻く夜の工房に入る。
真っ赤な炎が揺らめく焼き戻し炉の前で、花南が竿を持ってガラスを熱している。
相棒はヒロではなく、後輩の島崎だった。最近、彼を相棒に付けることが多くなってきた。ヒロが親方として忙しいことと、後輩の育成を兼ねていて、ヒロと花南が話し合った方針だった。社長の耀平もそれに賛成していた。
その島崎が、ここ最近、花南の『没頭』に付き合わされている。だが、彼も真剣だった。
従業員の体調管理もあるので、業務時間以外に彼を追い込むような重労働をさせるなと花南には注意はしてある。花南もそれを少し気にして、やはり気兼ねのない相棒であるヒロにお願いしようとしていた。それを知った島崎が――『花南さんの技巧を目の前でみたいので、仕事以外で没頭しているお嬢さんに付き合わせてください』と願い出たらしい。
銀賞作家にまでなったお嬢さん。その人がどんな時に、その技術を発揮するのか、職人として盗み取れるのか。島崎は真剣だった。
焼き戻し炉で柔らかくなったガラスを、花南が外に出し、制作中の竿を島崎に手渡す。彼が作業台に竿を置き、花南の代わりにガラスの球体が崩れないようくるくると回す。
既にポンテ竿に移し終えているそのガラスは口も開いていて、花南がそこに鉄バシを入れて丸みを整える。
耀平も遠くからその様子を窺っていながらも『ここからだ』と息を呑む。花南が鋏を手にして、グラスの形になっている飲み口に、5~6箇所の切り込みを入れる。その間、島崎は花南の手先を注意深く見つめ、竿を回し続ける。そして花南が切り込んだ先をつまんで伸ばす。鉄の大きなピンセットみたいな洋バシで底から頭にかけてひっかき流線を付ける。
徐々に冷えてきたそのガラスの色は『乳白色』。そして花南が造っている形は『木蓮』だった。
木蓮が咲いたね――。
数日前のこと。耀平が丹誠込めて手入れをしている庭木に花が咲き始め、白木蓮も咲いたところだった。
それを見ている時の花南の目をみて、耀平は『なんかそこにいないみたいだ。カナはいまどこかに魂を抜かれている』と思ったほどだった。
それからだった。ガラス工房に向かったきり、カナが家の中に帰ってこなくなる。帰ってくるのは夜中で、ソファーの上だったり、ダイニングテーブルの上につっぷしていたりして力尽きて眠っている。耀平も豊浦の本社とホテルで仕事があるので、山口の家には二日か三日に一度しか帰らない。やっと山口の家に寄ってみたら、脱ぎ散らかした服の中に埋もれるようにして義妹がベッドで倒れ込んでいたのを見た時には、ついに精根尽き果てて倒れたのかと、新郎として心臓が止まりそうになった。
ちょうど春休みになり、航が引っ越してきた。『いいよ。父さんが豊浦にいる間は、俺がカナちゃんを注意して見ておくから』と言ってくれた。
航もおにぎりの夜食をそっと置いておいたり、カナが好きなミネラルウォーターを目が付くところに置いてみたり。ソファーには毛布を準備したりして、手間のかかる叔母さんの癖を良く見抜いて工夫してくれていた。
航の話によると、最低限の食事をしているし、入浴も二日目には必ず入っているとのことだった。それでもとりつくしまもなく、人間として最低限のことを済ませるとさっと工房に行ってしまうのだとか。航が眠っている間にスケッチをしているのか、航が目覚めるとリビングいっぱいに画用紙が散らばっているとのことだった。
舞が出産をしたばかりで、いまはカナの代わりに家の中を頼める者がいないので、耀平もここのところは二日に一度は帰って、カナも心配だが、息子が放置されすぎていないか案じて確認行く。
なのに息子は『お父さんと料理を始めた』成果があったのか、簡単な料理なら自分でやって食べていたり、耀平が多めに持たせた食費で適当に食事をしてくれていた。
息子は意外と叔母さんの面倒を見るのも楽しいらしく、またカナが職人として没頭している姿を眺めているのも嫌ではないらしい。
そうしてカナはいま『マグノリア』を造り出している。
『彼女がわからない』なんて言いはしたが、わからないのは『どうして結婚式直前にそうなる』というものであって、どうしてカナが咲いた木蓮にスイッチが入ったのかは、耀平はなんとなくわかっているつもりだった。
『マグノリアのキャンドルホルダー』に再挑戦しているのだ。
耀平が、倉重花南という職人に将来性を見いだし、一目惚れをした作品だった。当時はまだ技術が追いついていない若い作品で、形は歪だった。初期の作品はカナの手元にも保管してあるはずだけれど、カナはそれを外に出したことはない。本来なら『失敗作は割る』のが、小樽の親方に育てられたカナの感覚だが、小樽の工房で時間外に作った自由な作品は大事に取ってあるようだった。ただし、作家としてそれは外には出さない。
なのに。木蓮はこれまでも、カナの目の前で何度も咲いただろうに、今春になって急に彼女に再チャレンジのスイッチが入った。
そっと遠くから見守っていた耀平は、竿先に咲いたその花に息を呑む。
あの頃とまったく違う花が咲いている!
洗練されたその技術が、義妹が銀賞作家であることを物語っていた。
あの頃とはまったく違う、品のある大人っぽい色気を思わせる白い花が咲いていた。
「島崎君、これでいいよ。冷却炉に入れようか。次は【中】サイズのマグノリアを作るからね」
「はい。お嬢さん」
「冷却炉に入れたら、今日はもう帰っていいよ。毎晩、付き合ってくれて有り難う。お疲れ様」
「いいえ。素晴らしいものをみさせていただきました」
後輩を使うことも、徐々に慣れてきているようだった。
耀平も気が付かれないうちにそっと家の中に戻って、シャワーを浴びる。
まだまだ、続きそうだな。
彼女のベッドルームで、耀平は今夜も独りで眠る。
あれが終わらなければ、彼女はここに帰ってこない。
結婚式前日までに、帰ってきて欲しいが怪しい――。
不思議だった。こんなことになって、耀平も同じような気持ちになってきた。
結婚式とガラスを造る妻。大事なのは、ガラスを吹く妻の姿に決まっている。
もし、彼女がその日までに帰ってこなかったら、本当に新郎も『結婚式なんて』と思ってしまいそうだった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
日が少し経ち、今度は息子がイライラしていた。
豊浦の会社からまた山口の家へ。
『ただいま』と帰ってきた途端、航が耀平に向かってきた。
「もう、俺もカナちゃんがどうしてあんななのか、わからなくなってきたー!」
いつもクールに振る舞っている息子が、『きー』と言いながら黒髪をくしゃくしゃにしたので、お父さんは唖然とする。
「おまえ……、先に豊浦に帰るか? お父さん、いまから車で連れて帰ってやるぞ」
せっかくの春休み。父親と叔母がやっと結婚して家族になる。なのに、これではストレスを溜めるだけのような気もしてきた。
「やだ。絶対に帰らない! 父さんとカナちゃんと一緒に、結婚式に行くんだ」
「カナは当てにならないぞ。それとも仙崎のお祖母ちゃんに来てもらうか?」
「いや、父さんがどーんと構えて待っているから、俺も待つ……と、思ったんだけど……。いまのカナちゃん見ていると、本当に結婚式を投げ出しそうで……」
本当は、この結婚式をいちばん楽しみにしていたのは、息子の航だった。
カナもそれをわかっているはずなのだが……、耀平からもなんとも言葉にすることができない状態だった。
「わかった。今日は父さんが、叔母さんにちゃんと話をしておく」
「……でも、ガラスの邪魔をしたくない。ガラスをしているカナちゃんが好きだ。これからもずっとガラスをするお母さんでいて欲しい。それに俺、もう子供じゃない」
子供ではない。叔母さんがちょっと普通の女性とは感覚がずれている。それが原因なだけなのに、時にはそのちょっとが大事なことを疎かにしてしまうのではと航はまた目の当たりにしている。
「これからもずっと、ガラスしか見えなくなったら、俺のことを忘れるように没頭してもいいよ。でも、結婚式だけは――」
背が伸びた息子を、耀平はそっと抱きしめた。彼がもうこんなことは望んでいないとわかっていても、まだ子供のような柔らかで頼りなげな部分が残っているから。
「だ、大丈夫だって」
やはり息子から離れた……。耀平もその場の空気を濁すようにして、黒いジャケットを脱いで、ダイニングの椅子に掛ける。
「工場に行ってくる」
カナちゃんの邪魔をしたくないからお父さんから話すのはちょっと……という素振りだったが、航はもう引き留めなかった
熱気溢れる工場へと入る。若い職人数名の作業を監督しているヒロと目があった。
「社長、お帰りなさい」
「親方、お疲れ様。カナはどうだ」
それだけでヒロも困った顔をしてくれる。
「まだっすねー。やっと【小】のマグノリアに取りかかったところですよ」
式まで後五日だった。
「気に入らなければ、あいつ直ぐにぶっ壊すでしょう。しかも大中小、七つ。美麗な仕上がりに満足が出来ても、七つ並べる時のバランスが悪ければそれだけで割ってしまうのだから。なんとも頑固というか」
しかしそれがカナの作家としてのクオリティを維持する精神でもあった。誰もそこは否定しない。
「島崎は大丈夫か。カナのあれに、もう一週間も付き合わされている」
「良い機会みたいで、彼も取り憑かれちゃっているかな……という感じですね。嫌がらずに、カナと一緒に夢中になれるなら職人として本物でしょう」
「なるほど」
それは確かに、若い職人の素質を見るのに良い機会だったかと耀平も頷いてしまった。
「カナがマグノリアをどうして作ったのか。お義兄さんとして聞いたことありますか」
ヒロにそう聞かれ、耀平は首を振った。ヒロがそんな耀平を見て、わかりきったようの笑った。
「ですよねー。あいつ、なんでお義兄さんに話せばいいことを、話さないんだろう。俺に話したって仕方がないのに、腹が立つ」
「……と、いうと? なにかあったのか」
「本当に好きな男には話さない。話せない。カナはそういうところがあるんですよ。まあ、その。昔、俺に話してくれなかったのも、そういうことだったのかなと……ちょっと自惚れているところもあるんですけどね」
ヒロはやっと、耀平に話してくれる。
「小樽に行って、初めての春。北海道の春は、雪が融けるといっぺんに花が咲くそうなんです。梅も桃もこぶしも木蓮も。目の前に見える木にそれが全部揃ってしまうそうなんです」
それは耀平も花南から聞いたことがある。本当に春が弾けるようにやってくるのだと。
「カナ、泣いたそうですよ。それを見て」
「泣いた?」
初耳だった――。
「本州の実家にいるならば、ゆっくりと順を追って花が咲いて、春を迎えるわけでしょう。梅を楽しんで、桃を楽しんで、木蓮を楽しんで、ゆっくりと春の足音を実感する。木蓮の樹が一本、凛と佇んでひっそりと気高く咲いている。実家の庭にもあった木蓮を思い出したそうなんです。カナはその姿が好きだったんだそうです。特に夜の窓辺に見える木蓮が子供の頃から楽しみだったようです。なのに北海道では、いっぺんに咲いて花木がずらっと並んでしまうので木蓮の孤独なひそやかさを見ることが出来なかった」
「それで、実家の木蓮を思い出して?」
「カナは言わなかったけれど、それが初めてのホームシックだったのでしょう。実家を思って、置いてきた航や耀平さんのことも思っていたんじゃないですか。俺にはそう思えました」
知らなかった……。カナの隠された本心に、耀平は心を震わせた。あの頃、あっけなく俺と航を置いていったと思っていたが、カナも後ろ髪引かれる思いで、お義兄さんを好きになってはいけないと思いを断ち切って小樽へ行った。今ならそう理解できるようになったが、それでもたった独りで北国でいきていた義妹のやるせない思いを初めて知ってしまう。
「今度も、きっと航とお義兄さんのことを思って、カナはそこにいまどっぷり入り込んでいる。いまだからこそ、いましかないからだと俺は思っていますよ」
結婚をするからこそ。カナはまたマグノリアになにかを見いだしているのかもしれない。
「それが、カナの結婚――かもしれませんね」
同じ職人であるヒロの言葉で、耀平はやっと心が落ち着いた気がした。
「そうか。俺と航にはわからないはずだ」
職人だからこその、義妹の想い。
それなら、耀平も航も待っていなければならないと思う。
その話を息子にも伝える。航もやっと理解できたようで、気持ちも落ち着いたようだった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
その日の夜だった。
義妹のベッドで今夜も独り耀平は眠っていた。
「義兄さん」
呼ばれた気がして、うっすらと目を開けて驚く。
耀平の身体の上に、薄い夜衣を羽織っただけの花南が跨いで乗っかっていた。
一気に目が覚める。本当にこの義妹は、いつもいつも思わぬことをしてくれる。
「ど、どうした」
「そういう気分なの」
またあからさまに言う、あけすけな義妹にもびっくりする。
風呂上がりなのか、彼女の肌から清々しい花の香りがした。
「おわったのか」
耀平の身体の上で、花南がこっくりと頷く。
「最後は、義兄さんが全部もらって」
意味がわからない。義妹がいうことは、たまに理解できない。だけれど、彼女はいつもそこにめいっぱいの気持ちを込めて囁いているのは間違いない。それは夫になる男だからわかっている。
暗がりの部屋なのに、綺麗な黒い瞳で見つめている花南の顔を覗き込む。
男の身体の上に大胆に乗っかる義妹を見つめ返していると、耀平の胸の奥底から懐かしいものが湧き上がってくる。
小樽へと初めて会いに行ったあの日。大人びた花南を見た時の、ドキリとときめいたあの男心を忘れていない。
「きっとカナに誘われた男は、誰もがおまえの思い通りになる。だから、いいか。俺だけだ、これからも。絶対に」
「ずっと前から、耀平兄さんだけだよ。何度言えばいいの」
「花南に、ずっと望まれていたいからだ。花南が望めば、俺はずうっとおまえのいいなりだ」
「ウソ。お兄さん、ズルイくせに」
お兄さんが知らない時から、わたしはずっと兄さんを好きだったんだよ。兄さんは知らないうちに、わたしを奪っていたんだよ。それも知らないで……、わたしを自分ものにしたでしょう。
だから耀平兄さんはズルイ――と花南は口を尖らせる。いつも、耀平のことをズルイというときの義妹の顔だった。
その顔さえも、耀平にとってはもう可愛らしい天の邪鬼の顔。その顔を見て、今度、耀平ようやっと起きあがり、自分にずっしりと乗っかっている彼女の頬にキスをする。
「俺はもう花南のものだ。花南の好きにしてくれ」
花南の手を握る。指と指を絡ませ、耀平は花南の左薬指にキスをした。
そこにはもう、銀色の指輪が光っている。そして耀平の指にも、久しぶりの結婚指輪が光っていた。
西の京に雪が降ったあの日、耀平の独断で指輪を注文して、出来上がってすぐに花南に贈ったもの。
今すぐにお義兄さんのものになりたい――と望んでいた義妹の指に、結婚式も待たずにはめてやった。なんでもない日、突然で、でも義妹は望んでいたことだからと、とても嬉しそうにして受け取ってくれた。
今日も、ひたむきな眼差しでガラスの吹き竿を回す花南の手には、指輪が光っていた。これからはそれがいつも視界に入るだろう。それとも、ガラスを吹く時はそんなことさえも見えなくなってしまっているかもしれないが、花南がそこに指輪をはめていてくれたらそれでいい。
「おもしろい妹だよ。指輪も先になってしまって、初夜も済んでいて、あとはおまえがいらないと言った式が残っているだけ。もう俺はおまえのものだ」
耀平の身体の上に乗っている花南は、下から囁く義兄を嬉しそうに微笑んで見下ろしている。
「わたし、ガラスしかできない」
「わかっている」
「急にこんなになって、困っていたでしょう。航は大丈夫?」
「俺達は大丈夫だ」
彼女を安心させるように、いつものように彼女の黒髪を撫でた。
いつもの義兄の手がすること、それを見つめながら、花南が、あの花南が幸せそうに優美な微笑みをみせてくれる。
「マグノリア、できたよ。耀平さんがひと目惚れしてくれたわたしの作品。耀平さんにあげるね。妻になるわたしからの贈り物」
耀平さん――。初めて言われて、でも、今夜はどうしてかしっくり聞こえてしまって、耀平も驚いている。
「カナ。俺の……」
感極まってしまい、耀平はそのまま薄着の花南を強く深く抱きしめていた。
歪なマグノリアは、義妹には遠い人を思う思慕の花。孤独の花。でも、そこに単木でも凛と咲いている花。
そして何年も経った彼女が、洗練された技で咲かせた花は、結婚をする自分を思って咲かせた花。それをきっと夫になる男に見せたかったのだろう。
結婚前だからこそ、彼女はその日に間に合うよう、渾身を込めて、未完成だったものを完成させ捧げたかったのかもしれない。
そして今夜、最後の『八つめの花』がここにある。
義妹がいない時、この部屋にはかすかな匂いだけが残っていたのに。
向こうの世界から帰ってきたこの夜、そんな匂いは強くはないはずなのに、目眩をおこしそうなほどに、彼女の匂いに侵されている。
これからずっと、この匂いが俺の側に漂って、そばにいなくても、そこはかとなく匂っていくのだろう。
―◆・◆・◆・◆・◆―
翌朝。また彼女の方が目覚めが早く、耀平が目覚めると隣はもぬけの殻になっていた。
「元気だなあ」
根を詰めて制作に没頭していたくせに。精力ありあまって、男を襲ったくせに。もういつもの彼女に戻っている。
やっぱり、俺より若いのかもなあ……と思ってしまった。
顔を洗って身なりを整え、今日のシャツを選び、ネクタイを結んだ。リビングに行くと、そこではもう花南と航が一緒に朝食を作って準備をしているところだった。
「あ、父さん。おはよう」
「兄さん、おはよう」
耀平さん――は、あの時だけかとちょっとがっかりしたような。でもお兄さんと呼ばれなくなるのも寂しいような。複雑な気持ちになった。
「父さん。カナちゃん、昨夜遅くにやっと終わったみたいだよ」
「あー、そうなんだ」
知っているくせに、昨夜、そのカナちゃんが色気を振りまいてお父さんを襲ってきたことはここではないに等しいにせねばという思いから、つい、そんな素知らぬ顔をしてしまった。
花南がそっとくすりと笑ったのも見てしまう。
「よかったー。カナちゃん、マグノリアのキャンドルホルダー、間に合ったんだね」
「うん。食事会のテーブルに飾って欲しかったの」
「それで、頑張っていたんだ」
「無計画だったね。でも、こんなかんじでいける――と思うタイミングって急に来るんだよね」
「ううん。俺、その方が本物だと思う!」
『そう? ありがとう』と、甥っ子の言葉に花南も嬉しそうで、叔母さんが『まともになって戻ってきた』ので、航も嬉しそうだった。
「さあ、もう出来たから。航も座ってお父さんと食べていて」
「うん」
最後にコーヒーと紅茶を花南がいれてくれる。
息子とお父さんは、先に座らせてもらう。航と耀平はいつも向かい合う席。花南はいつも航の隣に座る。
そこで向き合っている航と目があった。
「父さん、そのネクタイ……初めてだね」
「ああ。カナが新しく置いてくれていたみたいだな」
「カナちゃんが、今日はそれにしろって言ったのかよ」
「いや? 変わった色があるなと思って、春らしいからいいなと父さんが選んだんだが」
そこで航が急にニヤニヤ――。
「なんだ。その顔は」
父子が向き合うそこに、花南が先にお父さんの珈琲を持ってきてくれる。
「どうしたの」
花南もにやついている甥っ子に気が付いた。
「二人とも、いま桃色ってことだね」
花南と揃って、耀平も『は?』と眉をひそめた。
「幸せな人とか、結婚を控えた人は、白とかピンク色を選ぶらしいよ。その色、お父さんがあまりしない色だよね。カナちゃんもそれをわかっていて、いつもは落ち着いた色のネクタイしか買ってこないのに『ピンクのネクタイ』を買ってきたんだよね。それで、父さんも嫌がらずに、滅多にしないピンクのネクタイをしちゃったんだよね」
お互いに、心理的に『幸せ色のピンク』を選んでいると言いたいらしい。
そんな生意気をいう息子にびっくりして、耀平はおもわず顔を熱くしてしまう。
「ピンクじゃないよ、これはね『桃花鳥色(つきどりいろ)』。鴇色の仲間なの。染め物屋さんのネクタイなんだから」
そうだったのかと、耀平は再びネクタイを手にまじまじと見つめた。桃色でも抵抗がなかったのは、手触りもさることながら、色合いが染めらしい微妙な柔らかさと品の良さがあったからなのかもしれない。
「どうしてその色を選んだの」
「……なんでだろ?」
航に聞かれても、花南は本気で首を傾げていた。やっぱり航がにやりと笑う。
「やっぱそうじゃんー。カナちゃんも、桃花鳥色だったんだ」
「そうかな」
ほら、そろそろ天の邪鬼が出るぞ。ツンとして向こうに行くぞ。耀平はそろそろこの会話も終わってくれそうだなと、ややほっとしていたのに。
「兄さん。それ選んでくれてありがとう。絶対にしてくれないと思っていたから、嬉しい」
そういって、息子がいる目の前で、花南は身をかがめて耀平の口に軽くちゅっとキスをしたのだ。
「お、おまえ……」
息子の目の前で――! そう言おうと思ったのに、花南はそんな時はひらりと身をかわしてキッチンへ行ってしまう。
向かいにいる息子を見ると、彼もびっくりしたのか唖然としていた。
「わあ……。カナちゃんって……。やっぱり女なんだね……」
さすがにもう、生意気が出てこなくなったようだった。
「もう、なんなんだ。あの妹は――」
昨夜から、なんだか花南のペースにやられっぱなしのような気がしている。
「安心した。カナちゃんも、結局、結婚式前で必死になっていただけじゃん。マグノリアを必死で制作してさ、父さんに桃花鳥色のネクタイを選んだり、自然に選ばせたり。ガラスのことが終わったら、ウキウキしてお父さんにキスしているし」
さらに息子が鋭いことを言った。
「いつも没頭している時は、女も人間も捨てて干からびたようになっているのに。今朝はちゃんとお風呂に入ったせいか、ツヤツヤしてなんか綺麗になっている」
「……、結婚前に間に合って良かった。それでいいじゃないか」
叔母さんがウキウキしてツヤツヤ綺麗なのは、ちょっと大人のスパイスもあるのだけれど……。そこは気付かれまいと耀平はサッと流そうとした。
「でも、良かった。カナちゃん、結婚式に間に合った」
息子が久しぶりに無邪気に笑ったので、耀平も珈琲カップ片手にそっと微笑んだ。
婚前にお騒がせのマグノリア。なんとか無事に咲いてくれそうだった。
昨夜、耀平がとまる花が咲いた。
どこにとまればいいかわからず、匂う黒い花のそばを戸惑うように飛んでいたけれど、ようやっと、その花にとまれた気がした。
かおりも、姿も、蜜の味も。すべて、とまった蝶に許されたもの。
花南という花が、倉重を継いで、この古都のように何百年、もっと、千年咲きますように。黒蝶の願いだった。
※次回、花南視点で最終回です※
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