7.妻が来た
女将が宿泊している湯田温泉のホテル駐車場にて別れようとしていた。
その際、耀平は女将が車を降りる時になって、あとひとつ心苦しいことを伝えておく。
「女将。忍さんの部屋から無くなっていた花南の切子グラスなのですが。私が引き取っております」
車を降りようとしていた女将が止まり、またそのままドアを閉め、助手席に戻ってきた。
だが女将は優しく笑ってくれる。
「構いません。……お話を聞くまでは、そちら様をあれこれ疑っておりました。根の優しいあの子を道連れにして決して許さない、絶対に取り返そうと思っておりましたが」
耀平が言おうとしていたことを、女将が先に言ってしまう。
「航君に、形見分けで取っておいてくれているのですか。貴方ならそうしてくれそうな気がいたしました。だから……花南さんが、このグラスを私にもと、差し出してくださったのでしょう」
「はい。そうです。いつか航に知れても知れなくとも、死んだ母親と父親、そして叔母が造ったグラス。それをおまえも使うんだと渡そうと思っています」
「そこには、貴方がどこにもおりません。それでも?」
忍が遺したグラスには美月に花南がいても、そこに自分はいないのは確かだった。
「そうです。ですが私は父親です」
女将が耀平を、女将の目で険しく見たのでたじろいでしまった。
「そうです。貴方が父親です。しっかりしてくださいね」
「はい」
なのに女将はすぐにまた目を潤ませ、母親のように耀平を見つめる。
「花南さんと結婚されるのですってね。義理の妹さんと一緒になろうと思われるまでには、いろいろとあったことでしょう。どうぞ、お幸せに。今度こそ、貴方が望んだものが寄り添ってくれることでしょう。影ながら、皆様のご多幸をお祈りしております」
最後に女将が耀平にそっと言い残した。
もし。なにかあった時。必ず力になりたく思っております。遠慮無く頼ってきてください。いずれ、耀平さんと花南さんではどうにもならないこともありますでしょう。三男は優しい子で、忍をとても慕っておりました。私に何かがあったら、その子に託せるように準備をしておきます。
スッと女将が車を降りてしまった。そのまま振り返らずに去っていく。遅れ馳せながら耀平も車を降り、もう見てはくれないだろうが、しゃんとしている着物の後ろ姿に深く礼をした。
いつか。航が世話になることもあるかもしれない。そう思いながら。
―◆・◆・◆・◆・◆―
夕に三人で食事にでかけ、また山口の家は夜の静けさに包まれる。
家の一番奥に、航の部屋がある。彼が泊まりに来た時に使うように最初から用意されていたものであって、そして来年から彼が使うように徐々に整えられている。
耀平の書斎の隣部屋になっている。
「航、入るぞ」
ノックをすると、中から『いいよ』という声が聞こえた。
勉強をしているのかと思えば、ベッドに寝そべって本を読んでいた。
中学に入ってから、航は既に眼鏡をかけている。花南に聞くと、忍も眼鏡をかけていたことがあるという。耀平も花南も眼鏡ではなく、やはり遺伝なのだろうかと思ってしまう。
「あ、勉強をしなくていいのかって顔だろ、それ」
「いや。そんなこというもんか。今日は息抜きで来させたのだから」
「寛容な父さんって、なんか変だな~」
ちょっと当たっているな――。おまえのお祖母様が来て、無事に対面して帰ったから、父さんもホッとしてちょっと気が抜けているんだよ。とか、大事な大事な息子だといつも以上に感じるから、今日は口うるさくなりたくないんだよ。とか……。そんな気持ちが表れているようだった。
そんな息子と少し話したくて来てしまっただけで。耀平は手持ち無沙汰に、航の一人用のベッドに腰をかけた。
「気のせいかな。カナちゃんもちょっと元気なかったね。せっかくのフレンチだったのに、いつも完食のカナちゃんが残したり、デザート追加が当たり前なのに、今日はもういいです――なんてさ」
その通りで、花南もきっと肩の荷が下りたのだろうと耀平もそっと見守っていた。
「うーん、そうだな。『夏バテかも』とは言っていたかな。それに、ヒロが納品間近の商品を揃えるのにカリカリしているのもあって、気疲れしているんだろう」
「でも、ヒロ君とカナちゃんは、喧嘩別れしないんだよな。ヒロ君が怒ってもカナちゃんは嫌がらないし、カナちゃんが言うことを聞かなくてもヒロ君は平気な顔で流しているし。なんか上手くいっているんだもんな。あれって、『もう』男と女じゃなくなったからなのかな。珍しいよね、親友って感じでさ」
びっくりする子供の発言に、お父さん、思わず噴き出しそうになってしまった。
「お、おまえ。いつだったかもヒロとカナが男と女かと唐突に聞いたことあったな? もう、ほんとに、いつからそう思っていたんだ」
そんなこと、父親の自分からも『あの二人は、昔、恋人同士だったんだ』なんて教えたこともない。しかも別れても、男と女の友情は成立するんだね――みたいな大人ぶった発言に驚くばかり。
「だって、そうでなければ、ヒロ君がカナちゃんを父さんから奪っていたと思うんだよな~。ヒロ君てカナちゃんを大事にしてくれていたじゃん。子供の頃から、どーみても、ヒロ君はカナちゃんが好きすぎるって思っていたんだ。ただ、社長のお父さんに恩があるから弁えて抑えているだけで。それにカナちゃんも、なんだかんだ言って父さんしか見ていなかっただろ。だからヒロ君も諦めていたところもあったんじゃないかな。なのに、父さんったら、あんなにカナちゃんが父さんだけ見ていたのに追い出しちゃってさあ。いま思いだしても腹立つなあ」
やめろ、それ以上的確なことを言うな――と、耀平は口に出せずに額を抑えて項垂れた。だけれどこのお父さんの様子が図星すぎたのか、航が笑い出した。
「ほらね。父さんだってヒロ君のこと意識していただろ。あれってヒロ君に対して溜まり溜まった嫉妬だったのかよ? 無実のカナちゃんを疑って追い出しちゃったのかよ。だったら、俺、本当に父さんには幻滅するな~」
「んなわけないだろ。ヒロに嫉妬するぐらいなら、カナの職人パートナーとしてスカウトなんかするもんか。でも、父さんはちゃんとヒロをスカウトして、親方にして、そうだ、いまは父さんの方がヒロと『義理の兄弟』みたいなもんだ」
「ムキになるのも、父さんらしいね」
いや、ヒロに嫉妬……は多少していたとしても! ヒロと花南の仲を疑って花南を追い出したのは大いなる間違い! そう力説しようとした。
だがそこで耀平は『ちょっと待てよ』と、口ごもってしまった。そこでヒロと花南の仲を疑ったわけではないと弁明をしたとして、では『本当の原因はなんだったんだ』とつっこまれたら、こちらの方が口が裂けても言えない。まずい――と言うことに気がついてしまう。
「ほらなあー。ヒロ君にだいぶ前から嫉妬していたんだー。だってさあ。父さんがまたジムに通って水泳をしたり、身体の維持を始めたのも、カナちゃんを小樽から連れて帰ってきてからだよね~」
またドキリすることを息子が見抜いていて、耀平はついに顔が熱くなる。
「カナちゃんと十歳も離れているってことは、ライバルのヒロ君が十歳若いってことだもんな。先にどんどんおじさんになって嫌われないよう、鍛え始めたんだろ。いまもジム通いご苦労様。カナちゃんがいない間も頑張っていたから、諦めていないんだなあ……と思っていたし」
「も、もうやめろ。それ以上、言うなっ」
とうとう息子をベッドに押し倒して、子供の時のように脇腹を掴んでくすぐりまくった。
航も長くなった足をバタバタさせて、ギャハハと大笑い。
「やめろよっ、もう俺、チビじゃないんだから。やめろってばっ」
「まったく大人をからかって。おまえ、カナの前でそんなこと言うなよ」
「アハハ、アハハ、わかった、いわないって。父さんの男のプライド、傷つけないって」
「傷つくってなんだ。プライドってなんだ。この、生意気だな。許さんっ」
「ぎゃー、やめろって、やめろっって」
ずっと変わらない。航と二人で過ごしてきた男同士の日々。まだこうしてじゃれ合ってくれているのだから、これからも父親と息子でいられる。いま耀平はそう思って笑っている。
もうヒロに嫉妬してカナを追い出したということでもいいかと、よくないけれど、いまはそれ以上のことは答えられそうもなく、今夜はそうして耀平は濁してしまった……。
「うるさいなー、もう。親子でなにしているの」
風呂上がりのカナが、騒々しいのが気になったのか部屋をのぞきにやってきた。
「あ、カナちゃん、聞いて、聞いて。父さんがさあ」
「やめろ、この」
「え、お父さんがどうかしたの。航」
「アハハ、アハハ、やめろよう、もう。離せよ、父さんったら」
いい歳したお父さんと、大きくなった甥っ子がいつまでもじゃれているだけなので、そのうちに呆れたのか花南も『もう、静かにしてよね』と出て行ってしまった。
「父さん、もう行ってあげろよ。ごゆっくり~」
「もう、おまえったら。いい加減にしろよ」
愛しい女が風呂上がりで戻ってきたから、そばに行け――とほのめかされ、耀平ももう言い返す言葉も見つからない。
かといって。息子と寝ようとか、そんなわけにもいかず。かといって。書斎のシングルベッドで過ごすつもりもなく。そのまま息子の部屋を出て、耀平はくしゃくしゃになったシャツのしわを伸ばしながら、リビングへ戻った。
花南は冷蔵庫を開けて、風呂上がりのミネラルウォーターを一杯飲み干しているところ。
「さんざん、からかわられた」
「え、わたしと兄さんのこと?」
「ああ。もう誤魔化しようもないし、なんというか、よく見ているもんだな」
花南も笑った。なのに、すぐ沈んだ顔になる。
「航は……そういう子だよ。……先に部屋に行っているね。そこで話そう」
急に花南が神妙になったわけが、耀平にもどういうことが通じる。
父親だからこそ。叔母だからこそ。息子の航が、どのような子供か解っているから、拭えない不安。そして覚悟も。
―◆・◆・◆・◆・◆―
耀平も風呂を上がり、薄い部屋着で花南の寝室へ向かう。
花南も薄い部屋着のワンピース姿で、ベッドに横になってスケッチをしていた。
義兄が部屋に入ってきたのを知っても、スケッチをやめない。
そして耀平も風呂場で着てきたばかりの部屋着を脱いでしまう。素肌になって、花南の隣へと寝転がる。
「裸になっちゃうんだ」
「いつもだろ」
「上ぐらい羽織ってよ……」
そう文句を言われながらも、スケッチをしている花南の背に、耀平は抱きついた。
「今夜は駄目でしょ」
「駄目だな。あいつ、俺とカナが一緒に寝るのをわかっていて、からかうんだからな」
それでも素肌で義妹を抱きしめ、丸出しになっている肩先にキスをした。
花南もなんだかんだ言って、文句を言わなくなった。そのまま、力を抜いて花南はスケッチブックを放った。そして後ろから回っている耀平の手をそっと撫でてくれた。
「でも、カナがそばにいる時は肌に触れていたい」
「わたしも……。兄さん、ずっとそばにいて」
うん? なんか今夜はいつも以上に素直だな。と、思いながら、胸に抱いている花南の顔を覗き込んだ。少し、泣きそうな顔をしている。
「よかったな。金子のお母さんに理解してもらえて」
「うん。だからって、忘れられないけれど」
「そうだな。俺もだ……」
「姉さんのこと?」
ふいに呟いてしまったこと。でも、耀平も素直に『そうだ』と答えた。
背中から抱きしめていた花南が、こちらに寝返りをして耀平と向き合う。そして、耀平の頬をそっと撫でてくれる。
「同じだね。わたしも、ずっと兄さんのそばにいるよ」
それぞれの痛み。消えない、忘れられない痛み。分け合えない痛みも、これからは我がことのようにして分け合っていく。そんな義妹の目。耀平も花南の頬に触れ、そっと唇を重ねた。
少しずつ熱を分け合うような静かなキス――。いつもならここで彼女に覆い被さって、肩から着ているものを脱がしてしまうところだけれど。やっとの思いで耀平は花南から離れ、起きあがり垂れ落ちる黒髪をかき上げた。
「兄さん?」
自分だけシーツの上に置いて行かれた花南が、耀平の素肌の背にそっと指を滑らせる。
「花南、話しておきたいことがある」
「なに?」
花南も起きあがった。今夜はきちんと、気怠そうに崩していた胸元も裾も正して。これ以上、ふざけないという意味。彼女が真剣に向き合ってくれる合図。
「おまえと結婚する前に。お義父さんにある程度は、俺から話しておきたい」
少し驚いた息づかいが背中に届いた。そして暫く、花南が何も言わない。耀平もそのまま、実の娘である花南がどう思うかその時間を与え答えるのを待っている。
「いいよ。お兄さんがそうしたいなら。お父さんはもう、航が義兄さんの子供ではないと知っていると思うけれど」
「お義母さんがおまえから聞いて知っているからだろう。俺も、お義母さんは黙っていないと思う。お義父さんは知っているだろうけれど、きっと俺から報告してもらうのを待っているんだと思う」
「わたしもそう思うよ。だって……。誰よりも、耀平兄さんが苦しんだ秘密なんだもの。お父さんも自分からなにかを言って、耀平兄さんの心をかき乱したくないと思っているんだと思う。それに、お父さんにとっては、確かに血の繋がった孫。跡取り孫。これまで、豊浦で十五年も一緒に航と暮らしてきたのよ。可愛いに決まっている。耀平兄さんがそれでいいなら、申し訳ないけれどこのまま父親でいて欲しいと思っているはずよ」
「そこは、俺もお義父さんの気持ちはわかっているつもりだよ」
そして耀平は、改めて、実の娘である花南に尋ねた。
「花南。どこまでお義父さんに言えばいいのだろう……」
思いの外、花南はすぐさま返答してくれた。
「事件のことは報告した方がいいと思う」
「複数の男と関わったことを言えば、娘の淫らな過去を、親父さんは飲み込まなくてはいけなくなる」
「金子さんのお母さんが知った以上。こちらの親も飲み込まなくちゃいけないと思う」
花南はきっぱりしていた。これが実の娘……なのだろうか。耀平は、親父さんが嫌な思いをするのを見ていられないから、出来ればいまでも避けられないかとは思っている。
金子の女将は自ら知りたいとやってきて、真実を知る覚悟をしてくれたから、こちらも覚悟をして告げた。でも、こちらの親はいきなり言われてどうなるのだろうか。
「いや……。やはり、美月と金子が不倫関係だったぐらいにしておこう……」
「……兄さんがそうしたいなら、わたしは今でなくても良いと思うよ。娘のわたしから言える日も来るかもしれないし」
「そうだな。わかった。いまはどうしても、まだ全ては……」
そんな耀平の背に、花南がそっと頬を寄せて抱きついてきた。
「大丈夫だよ。兄さん。娘のわたしがいるから、兄さんだけが苦しまないで――」
いつもは生意気な義妹の声が、とても甘く優しく聞こえた。それだけで、いつも独りで締め付け頑なにしていた心がふと緩む。
もっと前からこうしてこの義妹と一緒に苦しめたら良かったのに。でも、いまは、もう……。
背にいる花南を、耀平は振り向いて胸の中へと抱きしめた。
すこし開けている窓から心地よい風。そしてカーテンの隙間から月が見えていた。
二人で仰向けに寝そべって、一緒に空を見つめている。そのうちに、花南から耀平の手を探して握りしめてくれる。
「もうすぐ十五夜だね。ススキを探してくるね」
耀平もそっと小さな手を握り返す。
「また、カナと一緒の時間が戻ってきたんだな」
季節に合わせた飾りをする。花南はそうして毎年心がけてやってくれていた。帰ってきた花南がまたそうして家の中に彩りを取り戻してくれている。
「うん。これからは、ずっとだよ。来年は、航も一緒に。ずっとだよ」
「ああ。やっとだな」
横にいる月明かりに照らされる黒髪の義妹をみつめた。悪戯な顔ではなくて、もうしっとりとした女の顔で耀平を見つめ返してくれる。
その顔に惹かれて、結局、耀平は花南のカラダの上に重なってしまう。
月の妖(あやかし)。姉さんは、自分のことを金子さんにそう言っていたみたい。花南が帰ってきてから教えてくれた話。
美月、美しい月。輝いて見えているのに、それは遠いところにあった。そんな月明かりに照らされて、義妹を密かに抱く夜。
別に妻にみせつけたいわけではないけれど、今夜はどうしたことか。妻がどこかで見下ろしているような奇妙な気分だった。
―◆・◆・◆・◆・◆―
幾日か経ち、また耀平と花南に日常が戻ってくる。
耀平は二日置きの山口通い。花南は工房にて、創作に力を入れている。
相変わらず、少しでも気に入らないと花南は金槌で叩き割っている。そのストイックな女職人の鬼気迫る背中に、後輩職人達は『お嬢さんは、最後は少しも譲らず恐ろしい』と囁いているらしい。
小樽と湖畔の師匠の厳しいところを上手く受け継いでいる。外の二つの工房で修行をしてきたテクニックは『お嬢さん』と呼ばれはしても、後輩達を唸らせるだけのものを見せつけていた。
十五夜。カリヨンの塔にさしかかる月が、心なしか大きく見える夜。
山口の家で花南とゆっくり二晩過ごし、この日は晩のうちに帰ることにした。
「明日じゃダメなの?」
緑の垣根で見送ってくれる花南が、寂しそうにふて腐れている。
「明日の朝、役員会議があるんだ。本当なら今日の昼間のうちに帰る予定だったんだが、こっちの仕事が長引いた。おまえの夕食も食ったから、そのまま帰るな」
「十五夜のススキを、山裾まで探しに行ってきたのに」
「紫苑のガラス花瓶にススキを活けていたな。いいな、長月の色合いだった」
季節の彩りをきちんと気がついてくれていたと、やっと花南が笑った。
「航もお父さんを待っているものね。早く三人で暮らしたいね」
「そうだな。その為にも、あいつの勉強具合も親父としてチェックしておかないといけないだろう」
そして耀平は、車に乗る前に花南にきちんと告げておく。
「帰ったら、お義父さんに美月とのことを報告しようと思っている」
「うん、わかった。お父さんとのことで困ったことがあったら、娘のわたしに教えてね」
「ああ、頼りにしているよ」
そうして耀平は黒いレクサスに乗り込み、花南の見送りで本宅へと帰る。
月が上りはじめたが、まだ山裾は紫苑の夕がたなびいている。花南がススキを活けていた色合い、花南もこれを感じて造ったのだろうか。
いつもは美しく感じる西の京の色合いなのに、この日の耀平には妖しくみえた。
慣れた帰り道。まだ豊浦が本家。帰れば、優しい義母が迎えてくれ、生意気な息子がそれでも『お帰り』と言ってくれ、帰りが遅い義父が『晩酌をしよう』と誘ってくれる。
義父の雅晴(まさはる)と出会ったのは、大学を出て就職した広島の大手旅行会社でだった。当時、営業部にいた耀平は、地元ということもあって下関と萩のエリアを任されていた。そこに長らく会社が旅行客の宿泊先として世話になっている得意先として『倉重リゾートホテル』との付き合いがあった。
いつもは営業同士で顔をつきあわせて打ち合わせをしてきた。時には支配人も出てくる。だけれど、三月に一度は社長直々に打ち合わせに参加して、耀平と言葉を交わすようになった。時には一緒に食事をと誘ってくれたり、ゴルフをしたり、そして『興味があるなら一緒にどうかね』と展覧会で美術品を見たりした。花南が芸術性に長けているのは、ある程度は血筋だった。父親の雅晴が美術品を眺めるのが好きで、そして彼の父親、つまり花南の祖父もまた美術品の愛好家だった。花南が『ガラス』に惹かれたのは、この祖父の影響だということらしい。祖父が萩が栄えた頃のガラス製品を愛蔵していた。それを花南が小さな頃に目にすることが良くあり、それが幼い頃から花南の心を揺さぶってきたのだろう。
花南だけではない。姉の美月もだった。祖父と父が、美術品を愛でていたのだから、美月にもその影響はあった。だからなのだろう。この家に縛られて生きていくしかなかった、祖父に父に、そして跡取り娘の美月。その家族から、『工芸をする』と本気になって飛び出していったのが末娘の花南だった。
美月が自分に出来ないことだから。自分はそこまでやろうとは思っていないから。でも妹は一生懸命になって、真っ直ぐにそこへ向かっている。この家から、綺麗な工芸品を生み出す血が生まれるかもしれない。そんなときめきを、妹に見ていたのかもしれない。
姉妹にその影響をしっかり与えた祖父と父。耀平はそんな彼等に見初められた。『君は若いのに、いい趣味をしているね』と、義父の雅晴によく言われた。
土産にと選んで持っていく菓子や、小物。そして一緒に呑む酒の種類に、これいいな――と手に取る工芸品。すべてが、義父の雅晴と趣味が合っていた。骨董品の店に、高級料亭。腕の良い職人がいる工房。一般男子がなかなか行き着けないところへ、雅晴は良く誘ってくれた。
そのうちに『君みたいな男が息子ならいいのになあ。よかったら、うちの娘と見合いでもしてみないか』と言われた。それはもう驚きで。娘しかいない社長に、娘の婿殿として望まれることがどのようなことか、耀平は直ぐに理解した。『婿養子になって、家を守ってくれ』という意味。
当然、当初は苛んだ。そんな重圧のある家に入って、庶民的な育ちの自分がやっていけるのかと。しかし、それは美月と会って、気持ちは直ぐに固まった。
美月は聡明で、話しやすく、あの雅晴の娘だけあると、若い耀平はすぐに惹かれた。気さくな話し方、雅晴氏と変わらない美術品の愛好家で、特に職人には尊敬の念を強く持っていた。美術品の高級感を語るのではなく、人が造った尊さを語る。そういう人柄に惹かれた。美月は仕事をしたことがないと言っていたが、父親の秘書のようなことをしていたので、耀平との仕事の感覚もよく似ていた。
この女性と一緒なら、倉重という家を守って、大きな仕事ができるかもしれない。男としての夢も手伝って、耀平はこの家の世界に踏む込んだ。
語弊はあるかもしれないが、『永久就職先』としては大正解だった。義父が一生上司という形になったが、それも正解だった。彼の下でビジネスを叩き込まれ、それを生かして副社長として飛躍する。それも正解だった。
そうでなかったのは、『夫妻仲』だけだった。
夕の終わりにたなびいていた紫苑も消え、暗い山間の国道を耀平はひとり運転をしている。
途中で、携帯電話が鳴った。運転中だから一度、やり過ごしたけれど、何分か置きに何度も鳴る。路肩に駐車して、電話履歴を見ると萩の工房からだった。
「倉重です。どうかしましたか、親方」
萩の工房を任せている親方に折り返しの連絡をすると。
「……、そうですか。わかりました。山口の工房に同じものが作り置きしてあるかもしれない。品番は……?」
何かの手違いで、受注分の数が合わず、納期に間に合わないという。
折り返し、山口の家にいる花南に連絡をする。
「カナか。萩の工房でトラブルが起きた。今から言う品番。そっちの工房で同型をストックしていないか調べてくれ。言うぞ」
花南に品番を教え、暫くそこで待機する。
折り返しの連絡があった。花南ではなく、山口親方のヒロから。
『社長。ストックはありますけれど、そちらの不足分を補えるほどはありません。今夜から吹いて間に合う日数なら、萩と手分けして手伝います』
「わかった。ひとまず萩の工房にいまから行ってみる。顧客と相談して、代替えができるかもしれない。また連絡する」
親方は職人。こういう顧客との営業接客は、耀平と担当営業マン数名で引き受けている。だが、このトラブルは社長自ら携わった方が良さそうだと、耀平はハンドルを切って、西へ帰ろうとした道を北上コースに変える。
「今から萩か。これは豊浦には帰れるのは真夜中になるかもな」
いざとなったら、日本海にある仙崎の実家に寄らせてもらってもいいかと思い描きながら。
―◆・◆・◆・◆・◆―
萩は山口市の真北にあり、道筋一本一時間ほど。だが、耀平は下関方面へと一度西へ戻ってしまったので、北上してもまた東にある萩に戻らなくてはならない。
もうすぐ萩の工房だ。少し町はずれにある。慣れているはずの夜道を耀平は急いだ。
しかし、運転をしている内に辛いことを思い出してしまった。
『奥さんに、間違いございませんか』
萩の海からクレーン車で引き上げられる妻の愛車。赤いアウディが海水をザバザバ落としながら現れた時の、夫としての沈痛。
そして冷たく真っ白になった妻の遺体。
いつも、この道は日中通るから、少し気にしてもすぐに通り過ぎることが出来た。
海辺に十五夜の月――。今夜は海面がきらきらと黄金色にきらめいている。もうすぐ、美月が落ちた場所。
「月の妻が落ちた場所で、十五夜の月か」
ややぶるっと寒気がした。でも……と、耀平は思う。
でも……。もしおまえにもう一度会えるなら。言いたいこと聞きたいこと、それから報告したいことがいっぱいある。
正直いって、俺達、ぜんぜん話し合ったことがない。お互いのこと。仕事と家と、家庭を整えることばかり話してきた気がするな……。
今なら、亡き妻と真っ正面向き合えるのに。どんなに酷い裏切りがあっても、心落ち着けて聞けると思う。受け入れられると思う。そして、そんな彼女の苦悩に気がついてやれなかった夫として、謝りたいこともいっぱいある。
「参ったな。この場所は……やっぱり駄目だ」
こんな気持ちになるだなんて。十五夜のせいだ。萩の海のせいだ。
海辺のカーブを曲がろうとした時、一瞬だった。
対向車線の車が耀平がいる運転席に向かって突進してくる――!
向こうのドライバーが俯いているのだけが目に入った。居眠り? 発作? けれど、それだけでハンドルを持つ耀平の手は固まっている。このまま耀平がいる運転席ドア、真横から追突されたら……、俺は、即……死……?
ぶつかる、追突される――!
そんな時に、目の前に白い女が走り込んできた。
驚いた耀平は、ようやっとハンドルを咄嗟に切った!
しかしハンドルを切った先は、ガードレールで隔てられただけの海辺。『ゴウン!』という強い衝撃と共に、顎下を何かに殴られたように打ち上げられる。
「っう……、カナ……、わ、わた……る」
大きく膨らんだエアバッグの上に耀平はぐったりと倒れ込んでいた。力が入らない。うっすらと開く目でフロントを見ると、向こうは海。海へと車の先が向いて、なんとか海に落ちずに停車できたようだった。
微かに血の匂いがする。目が霞んでくる。
運転席のドアに、先ほど飛び出してきた白い女性が立っているのに気がついた。
ふっと見上げた彼女の顔を見て……。火花がビリッと散ったような衝撃が走った。
――耀平さん。
「美月」
ふわふわとした女が、濡れた身体で耀平を見下ろしている。月光の中の妖(あやかし)。
少し怒っている顔――。
私のこと、お父さんに喋ろうとしているでしょう。
そんな気がした。
「頼む……。カナと、航のところに、……」
車がガクンと傾いたが、耀平はふわふらしている女に精気を吸い取られるような嫌な感覚を覚えながら、目をつむってしまった。
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