第2話 朝

 次の朝、渡辺はお気に入りのワンピースを引っ張り出していた。トレードマークのポニーテールではなく、おさげにしているのは、その方がかえって素朴に感じられると思ったからだ。休日の過ごし方は人それぞれだが、若い女の子は2人きりのデートに誘われたいし、誘われなければ誘いたいものだ。この日の渡辺は準備に余念がなかった。郁弥が登場するあらゆるシチュエーションを想定していた。そして、最適な表情と最適な声のかけ方を考え、それを何度もリピートした。その間に、右手で髪の毛をクルクルと回しながら、万が一の失敗に備えて、思案した。おかげでおさげの右側だけが、妙なウェーブを描いていた。ロビーの陰に隠れている7人のメンバーも、郁弥が来るその時を今か今かと待ち構えていた。渡辺の勇姿を見届けたいのだ。


「ごめんねー折角の休みだったのに」

「良いよ、そんなの気にしなくって」

「埋め合わせにご飯ぐらい奢らせてね」

「ははは、それは楽しみだなぁ」

 6時半を回ったところで、ようやく郁弥が登場した。しかしそれは、将棋の駒の桂馬のように渡辺の想像の斜め上を行くものだった。

(やだ、何でさよりが一緒なのかしら)

(ご飯奢るのって、デートの誘い文句じゃない)

(マスター、カメラ抱えてる)

 隠れたメンバーがそわそわと話していた。七海は全てお見通しとばかりに、メンバーが隠れている柱の方に向かって片目を瞑った。

「ふ み や 様、お は よ う ご ざ い ま す」

 渡辺は、壊れたレコードが発する音のように、暗く低い声でゆっくりと郁弥に挨拶をした。全く想定していないセリフである。それもそのはずだ。七海が郁弥と一緒に来るだなんて、思ってもいなかったのだから。

「あら、渡辺さん、おはよう。そんなにオシャレして、どこかお出掛け?」

「いや、えと、その……。 今日休みだから」

 渡辺はテンパりながらも事実を告げた。

「良いわね、丸一日休みだなんて、羨ましいわ」

 七海は平然とそれに応えたのだが、その時に微かに右の口がニヤけた。渡辺はそれを見落としたわけではないが、まだ負けを認める訳にはいかなかった。

「さよりさん、ブロマイドの撮影?」

「ええ、これから行くところよ」

「石崎さんは?」

「出掛けたわ。今頃は飛行機の中ね」

「じゃあ、三杉さんは?」

「有楽町。私がチケットを差し上げてしまって」

「チケットって? 有馬の……。」

「友の会限定の最前列だから、とっても喜んでくれたわ」

 渡辺は、ことここに及び、全て七海に先を越されていることを悟った。余りにも鮮やかに斬られた思いだった。自分の勝利を信じてくれるギャラリーがいることが、切なかった。渡辺の目の前は真っ暗になった。だから、郁弥が右のおさげのウェーブを優しく撫でて真っ直ぐに戻してくれたのに、全く気付かなかった。


 ーパシャ、パシャ、パシャパシャー


 渡辺が、郁弥がカメラを構えているのに気付いたのは、シャッター音を聞いた後だった。それも、初めは何が起こっているのか分からなかったのだが、郁弥の声を聞き、ようやく正気を取り戻した。

「もっと笑って、いつもみたいに」

 郁弥の言葉に操られるように、渡辺は表情を作った。内面は大雨。それでも外見は晴れやかなのは、元子役の為せる技だ。さすがとしか言えない。そんな渡辺を見て、七海は半分呆れていた。仕事という訳でもないのに、カメラを向けられては、あそこまでの笑顔が作れるのだから、これはもう職業病なのだ。

「ありがとう。良い練習になったよ。カメラマンも久しぶりだし」

 七海がもう1つ呆れたのが郁弥である。ここまで鈍感なのも珍しい。渡辺の気持ちを1つも考えていないのは明白だった。七海にとってはこれが誤算となる。郁弥が渡辺に気を遣い、後ろめたさを感じている方がやり易かった。


「練習って何やねん、カメラマンってなんなんよ」

 そう言って渡辺は、郁弥からカメラを奪い、床に叩きつけた。ガシャンという音とともに、ひん曲がったレンズとその破片が、四方に飛び散った。

「郁弥様、仕事ばっかで、全然遊んでくれんやんか」

 渡辺は、鬼の形相でそう言い放つと、どこかへ電話を掛けた。

「私よ、凄腕のカメラマンを2・3人連れて来て、今直ぐ!」

 そう言って電話を切ると、呆然とする郁弥と腕を絡ませ、歩きながら七海に向かって言った。

「カメラが壊れてもうたら、郁弥様が撮影するのは無理やん。かといって、撮影を中止にする訳にもいかんのやろ。それやから、うちが凄腕のカメラマンを手配したったで。精々、ええ表情、作んなはれや」

 七海は、綺麗に整えたばかりの爪を噛みかけて辞めた。

(何よ、私も職業病なの)

 そう思いながら、ただ黙って渡辺と郁弥が歩いて行くのを見ていた。それを遮ったのは、郁弥だった。

「ちょっと待って、渡辺さん。こんなの、間違っているよ」

 郁弥にそう言われては、渡辺は足を止める以外にはなかった。郁弥はキリリとした表情で続けた。

「練習なんて言ったのは、僕が悪かったよ」

 鈍感というか、論点がズレているのが郁弥である。それよりも先に言うことはあったはずである。郁弥に意図するところはないのだが、結果的にはこの順番であったからこそ、この場が治ったとも言えた。

「でも、さよりの写真は、昌平ヒルズの誰かが撮らないとダメなんだ」

 郁弥が間違いだと指摘したのは、外部からカメラマンを招聘したことだった。

「だから、やっぱり僕が撮る」

 こうもキッパリと言われては、渡辺は自分の行いを反省するしかなかった。

「それから、仕事にかまけて、相手しなかったのも、ごめん」

 土下座とか深々と頭を下げるとか、形式張った謝罪ではないものの、渡辺にとってはその言葉が染みた。

「だから、どうだろう。3人で撮影に行って、帰りに遊んで帰らない?」

 郁弥の頭の中には、2人きりでデートするなどという発想はないのだ。気分転換に3人で外をブラブラ歩く。それだけで済まそうという計算がある訳でもない。もっと純粋に、1人1人を大切に思っているのだ。しばらくは様子を見ていた七海にもそのことは伝わった。

「決まりね。こうなったら、3人で楽しみましょう。仕事も、遊びも」

「うん。あの、郁弥様、カメラ、ごめんなさい。ちゃんと弁償します」

 渡辺は、郁弥に正対し、深々と頭を下げた。

「カメラは、もう1台あるから。取ってくるね」

 郁弥はそう言って駆け出した、かと思うとピタリと止まり、誰もいない柱に向かって大声で言った。

「皆も、久子さんの稽古が済んだら、合流して!」

 そう言って、今度こそ本当に駆け出して行った。

(なんだ、マスター知ってたんだ)

(なんやかんやまとめちゃうんだから、さすがね)

 隠れていた7人も顔を出し、メンバー全員で壊れたカメラを片付けた。

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