第14話 13
「茜と、話したよ」
彼に向かって話しかける。
「茜、泣いてたよ」
「茜、泣いてたよ」
聞こえてなくても、何度でも、話す。
「でもね、いなくなった貴方を思って、泣いてたよ」
耳が少し動く。聞こえているようだ。これさえ聞こえていればいい。
しかし、彼の様子が変だった。
体自体は変わらないが、紫色に変色した肌が少し赤みがかっている。
それも一箇所だけじゃなく体全体が赤かった。
よく見てみる。ただの炎症のようには見えない。
嫌な予感がする。
私は押し入れにある顕微鏡を取り出して、彼の肌の一部をスライドガラスに乗せ、覗く。
炎症はある。だが細胞自体におかしいところはない。
ただの炎症かと少し安心して、ハンドルを回してレンズを引くと、異変に気付いた。
「あれ? 細胞膜がない」
あるべきところに細胞膜がない。細胞の全体像を見ればわかるが膨潤、破裂が見られる。
「まさか、アポトーシス?」
まず疑ったのはアポトーシスだった。
細胞死には大きく分けて三つある。外傷などの外的要因が原因で起こる細胞死のネクローシス。私が引き起こしたのはこっちだ。外傷にクリームを塗ることで成分を沁み渡らせ、体全体に細胞壊死を引き起こさせた。
もう一つはオートファジー(自食作用)をともなう細胞死だ。栄養環境が悪化したときにタンパク質をリサイクルさせる。細胞膜は破裂するどころか脂質二重膜という二重の膜を形成する。
そしてアポトーシスだ。これは言うなれば細胞の自殺。病原菌に感染したか、癌化した細胞がそれを防ぐために、自身を取り除くのだ。
それにしてはおかしい。アポトーシスもオートファジーと同じで細胞膜が破裂することはない。むしろ収縮して丸くなるはずだ。
それにアポトーシスは生命に対して有利に働く。オタマジャクシがカエルになる際尻尾が取り除かれるのもアポトーシスによるものだ。
「パイロトーシス……」
私はつぶやいた。最近、医学論文で読んだものに、炎症をともなうアポトーシスが存在することが書かれていた。
倍率の高いレンズに交換して、もう一度顕微鏡を覗く。
細胞膜は破裂している。さらに核の形態変化はない。DNAを見てもヌクレオソームの断片化は行われていない。
しかし、染色体はある程度断片化されている。
「間違いない。パイロトーシスだ」
パイロトーシスを含め、アポトーシスの指令を出すのはミトコンドリアだ。ミトコンドリアがシトクロムというサインとなる物質を出してアポトーシスの実行物質であるカスパーゼを分泌させる。
私はそれがなんだか悔しかった。彼の細胞に寄生した好気性細菌に彼の生死を握られているのが悔しかった。彼の生死を握るのは私だ。私であるべきだ。
彼はどうかはわからないが、彼に寄生しているミトコンドリアは死を選び始めた。私はそれが腹立たしくてしかたがないのだ。
私がミトコンドリアを敵視している間に、夜は更けていった。
とりあえず彼には常備薬の中から抗炎症剤を飲ませ、様子を見ることにした。
「今度さ、私と藤村くんと茜の三人で、どこか行こうよ。星を見に行くとかどう?」
星を見て、この星の巡りに文句を言ってやろう。
「だからさ、このまま死なないで。たかだか好気性細菌に負けちゃダメだよ」
私は彼に願いをかけて、布団に潜った。いつもより深く潜った。
◇
朝起きて、いつも通り彼の眼の前で着替えて、学校に行った。
彼の様子も昨日より悪くないように思える。肌の状況だけじゃなく、全体を見て、なぜかそう思った。
心なしか通学路が暗く、淀んで見えた。彼女に合わせる顔はどこにもなくて。
それを抜きにしても、校門をくぐると雰囲気が暗い。教室から声があまり聞こえてこない。そして校舎の近くに青いビニールシートがかぶさっている。
きっと、ドアを開ければいつもと変わらない教室がある。彼はいないけど、茜がいる。
ドアを開けると、静かな教室の中に、私の席の斜め前、茜の席に花瓶と花が置いてあるのが見えた。
校門近くの青いビニールシート、静かな教室、茜の席にある花瓶。私の脳は瞬時にそれを結びつけた。
脳は理解したが、理解したくなかった。
心が、理解を拒んでいた。
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