入試

 朝食が喉を通らない。母が不安そうにこちらを見ている。父が言う。

「どうした、武久。しっかり食べぬと修行に身が入らぬぞ」

「はい」

 どうにか顎を動かして玄米を噛み、青菜の汁で流し込むが、後が続かない。

「陰陽院で何かあったのか?」

「いえ、何かあったというほどのことは」

「初めのうちは色々と勝手のわからぬこともあろうが、何、大丈夫だ。ゆっくりと慣れていけば良い」

 慣れるまでの時間すら、与えてもらえないかも知れない。

 今朝、目覚めた時の絶望といったらなかった。親鳥が卵を抱くように、懐で大事に温めていた五星紙は、どこにも穴が開いていなかった。ごく小さな穴が開いているのではないかと、それこそ穴が開くほど捜したが、どこにもなかった。

 あり得ない。そんなはずはない。現に、術は使えるのだ。才はある。何故この紙は反応しない?

 あの少年の話によれば、木の力を意味するのは一番上の角。目覚めたら、ここに穴が開いていて、ほっと胸を撫で下ろす。そのはずだった。

 あの少年が……もしや、嘘を? あの話が本当だという証拠はない。だが、嘘などついて何の得がある? 上位何名かが合格するという試験ではない。他人を蹴落としても何にもならない。

 この紙が人の素質を見定めるものであることは疑いようもない。

 自分には素質がないのか? 木の葉や木刀を操れるぐらいの力は、実は平凡なもので、妖魔と戦えるほどの使い手になることは望めないということか?

 ならば、晴明のあの言葉は? 「将来が楽しみ」だと――父の憧れてやまない、都一の陰陽師が、自分に向けて確かにそう言ったのだ。

 才は、ある。少なくとも道兼よりは。土の壁に囲まれた時、あいつはだらしなく口を開けているだけだった。自分が壁を破ったのだ。この手で、陰陽術で。あれは白昼夢などではなかった。

 武久は煩悶する。何故だ? 何故穴が開かない? 知らないうちにこの紙の力を損なわせることでもしてしまったのか?

「具合でも悪いのか?」

 と、父が顔を覗き込んでくる。

「緊張しているだけです」

「おかしな奴だな。昨日は堂々としていたではないか」

「道満様のお力を目にして、気持ちが改まったようで」

「おお、そうか。だが、固くなり過ぎてはならぬ。木刀を振るのと同じだ。肩の力を抜いていけ」

「はい」

 もともと陰陽師になりたいわけではなかった。拒んですらいた。しかし志を持ってしまった今、なれないと宣告されるのは、崖から突き落とされるような気分だった。

 父にも、母にも、絶対に言えない。けれど、これは入学試験だ。落ちれば、陰陽院に通うことはできなくなる。言わずとも、知られてしまう。

 父はきっと慰めの言葉をかけてくれるだろう。それが痛い。想像しただけで惨めになる。

 病を治すと、母に誓った。その約束も果たせないことになる。母は、顔にこそ出さなかったが――重荷になるまいとしてくれたのだろう――喜んでくれたはずだ。声を取り戻せるかも知れない。一度見せつけられたその望みを絶たれるのは、声を失った時の苦しみを再び味わわせるようなものだ。

 両親に気づかれないように、武久は今一度、紙を見た。穴は――ない。あるべきものが、そこにない。


 陰陽院までの道、昨日声をかけてきた場所で、道兼が待っていた。また並んで行く気だ、こちらの了解も得ずに。

「穴は開いたか?」

 開口一番、道兼は武久が最も聞きたくない言葉を口にした。

「お前こそどうなんだ」

 やむなく、訊き返した。

 脈が急速に速まるのを感じながら、返答を待った。数歩の後、悲壮な声が聞こえてきた。

「我は、まだだ」

 胸中に安堵が広がった。人の不幸を喜ぶなど、良からぬこととは思いながらも、抗えなかった。

 顔色を変えないよう努めながら、武久は小さく言った。

「そうか」

「だが、丸一日というなら、まだ少しの時がある。回収の時までに穴が開くこともないとは限らぬ」

「ああ、そうだな」

 そうか。言われてみればその通りだ。丸一日経って初めて反応が現れるものなのかも知れない。

 まだ希望はある。そう思った時、目の前に突き出された五星紙は、右下の角に、穴が開いていた。あまりのことに、武久は色を失った。

 道兼が笑い声を上げた。

「冗談だ、武久。我は蘆屋道満の子なるぞ。才はあるに決まっておろう」

 今すぐ逃げ出したい衝動を、武久は必死に抑えた。

「見よ。父と同じ、土行の力を持つ印だ。昨日ここで晴明様が使われたような術を、我もいつか使えるようになるというわけだ」

 土行の位置に、穴。確かにある。紙の向こう側が見える。道兼は今まさにこの穴から未来を見通しているのだ。

「もっとも、お主に容易く破られるような術で満足するつもりもない。出足は遅れを取ったが、すぐに追い越してみせる」

 道兼は――武久の紙に穴が開いていると、信じ切っているのだ。無理もない。術を使うところをその目に見ている。

 曖昧な受け答えをしながら歩く武久に、ある誘惑がまとわりついた。

 あの穴、何ら特徴的なところはなかった。刃物で切り取ったような円でもなければ、輪郭に焦げ跡もない。小枝で刺したような、ただの穴――作れる。それこそ小枝で一刺しするだけのこと。造作もない。

 才のない者がこの結果を偽ったところで、修行の過程ですぐに知れてしまう。だが、自分には才がある。学ぶ資格がある。五星紙に反応が現れないのは、何かの間違いだ。そうに決まっている。

 陰陽院の堂に入る前、武久は道兼の目を盗み、小枝をそっと拾い上げた。


「紙を集める前に、諸君らに訊きます。何かに気付いた人はいませんか?」

 答える者はなかった。武久を含め、子供たちは呆然と道満を見つめている。

 道満は軽くため息をついた。

「そうですか。残念です。気付いた者は、紙がどうなっていようと、合格にしてあげたのですが」

 子供たちの焦りが堂内を満たした。

 何のことだ? 何に気付かなければいけなかった?

「この部屋、昨日と違うところがあるでしょう」

 皆、一斉にあたりを見渡す。

 武久はすぐに気付いた。だが、もう手遅れだ。やられた――。

 あの少年がいないのである。昨日、やけに大人びた口調で、五星紙について講釈を垂れた少年。彼がいないということは……。

「何名か、漸く気付いたようですね。そう、諸君らが今持っている紙は、五星紙などではありません。ただの紙です。五星紙なるものは実在しますがね。

 この試験は、才の有無以前に、心の強さを測るものだったのです。冷静な観察力で、あの少年が私の式神だと見抜いたら満点。それには至らずとも、現実を受け止め、己を偽らず、まっさらな紙を返すことができたら及第。そういう試験でした」

 道満の声が、やけに遠くに聞こえる。夢の中にいるかのように、体の芯が定まらない。手足が自分のものでないように感じる。

 落ちた。不合格。己の慢心につまずいた。最早どんな弁明も通じまい。いや、弁明など、恥の上塗りでしかない。

 せめて、一刻も早くこの場を立ち去ろう。もうここにいる資格はない。

 萎えた足に力を入れて、立ち上がった。

「どうしました?」

 道満の問いに答えず、武久は歩き出そうとした。

 その時、道兼が立ち上がり、叫んだ。

「先生! 彼は、私に唆されたのです。不合格ではありません。

 私は自分の手で穴を開けました。そして、ここまでの道すがら、自然に開いたと偽って、彼にその紙を見せました。人に話すことで、自然に開いたのだと思い込みたかったのです。

 私に紙を見せられなければ、彼が間違いを犯すこともなかったはずです。責任は私にあります。

 彼には、私と違い、本物の才があります。私はこの目で見たのです、彼が晴明様の術を破るところを。本物の五星紙で試せば、一番上の角に、必ず穴が開くはずです。

 それに、彼は、芯の強い男です。私が罵詈雑言を浴びせ、石を投げつけても、涼しい顔でやり過ごしてしまうのです。武久は必ず立派な陰陽師になります。どうか機会をお与えください」

 道兼は、深々と、頭を垂れた。

 武久は、ただ、立ち尽くしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る