分身

 絵図へ筆を下ろそうとしたまさにその時、良秀は気配を感じた。

 廊下に、誰かいる。

 誰か、と言っても、この大広間へ来られる者と言えば晴明しかいない。

「また戯れに来たのか」

 返事はない。

「退屈させていたなら悪かった。しばし待て。今ちょうど久々の大物に取り掛かろうとしているところだ」

 やはり、返事はない。そして気配が殺気に変わった。

「おい、待てと言っておろうが」

 晴明の相手をするふりをしながら、良秀は既に気づいていた。どうやら殺気の主は晴明ではない。

 結界を破って入ってきたのだ。相当の手練。

「やむを得ん。遊んでやろう」

 晴明と刺客、どちらに向けたともつかない口ぶりでそう言った直後、障子を突き破って、鉄の矢が射込まれてきた。

 常人が見ればごく普通の矢だが、良秀にはそれが陰陽術の矢だとわかっている。

 体を反らせて矢を避ける。矢は良秀の顔の横を通り過ぎると、ただちに反転して、再び良秀に向かってきた。

 良秀は大きく息を吸い込み、飛んできた矢に対して炎を吹き付けた。矢はたちまち溶解した。

「ここまで侵入した腕は認めてやるが、下調べが足りなかったな。この儂に金行の術で挑むとは」

 ところが、次の瞬間、障子が開け放たれると同時に飛び込んできたものは、良秀の予想に反し、水の蛇であった。

(ほう。か、それとも依代を持っておるのか……いずれにせよ、面白い)

 良秀は蛇の牙をかわしながら移動し、絵図上のこの山荘の位置に、一筆で蛇の絵を描いた。すると、たちまち良秀の頭上に土の蛇が現れた。

「儂とて、火行の術しか使えぬわけではないぞ」

 この絵図が良秀の依代である。絵図を用いれば、良秀は何に属する式神でも使役できる。

 土の蛇が水の蛇の体に絡みついた。

「締め合いといこう。もっとも、土と水では勝負は見えておるがな」

 それから間もなく、水の蛇は土の蛇に吸収されて消えた。

 しかしその時、良秀は身動きが取れなくなっていた。背後に立つ何者かの手で、喉元に短刀を突きつけられていたのである。

 土の蛇を召喚した時点で、気配はまだ廊下にあった。回り込むのは不可能だったはず。

「……なるほど。廊下に現れた殺気の主は、貴様ではなく、貴様の分身だったというわけか」

「ご名答」

 若い女の声であった。

 廊下からも女が現れ、たちまち霧となって消えた。分身の術。自身の偽物を式神として召喚する、高等技術である。

「今のが貴様か。見目を偽っていないなら、なかなか美人だな」

「実物の方が美しゅうございます。ご覧になりますか?」

 肝の据わった女だ。

「拝見しよう」

 喉元から刃物の気配が消え、目の前に姿を見せたのは、確かに分身よりも遥かに美しい女であった。凛とした眼差し、筆で描いたような鼻筋、あどけなさの残る唇。

 もう無駄な抵抗をする気はなかった。その気がこちらにないことを、向こうも理解している風であった。

「絵師、良秀様でございますね。地獄を描かんが為、実の娘を乗せた牛車に火をかけ、その惨たらしく死にゆく様をつぶさに観察なさったという」

「いかにも」

「お目にかかれて光栄です」

「願わくば、名を聞かせてくれ。儂を真の地獄へ落とす美しき女の名を」

「沙霧。若輩ながら、義賊の一党を束ねる者です」

「沙霧、貴様どこまで知っておる?」

「この都にばかり妖魔が現れることを、常々不思議に思っておりました。冥界の王が帝の命を狙っているというのが通説ですが、妖魔は御所に向かうわけでなく、現れた場所で周囲の人間を気まぐれに襲うのみ。まるで狩ってくれとでも言わんばかりに」

「……」

「一年前、私自身が陰陽術に目覚め、式神を使役できるようになって、妖魔と呼ばれているものたちが、実は式神なのではないかと考えるようになりました。もし式神であるならば、そう遠くないところに術者がいるはず。私は義賊の仕事をしながら、洛中洛外をくまなく調べました」

「そして、ここへ辿り着いたというわけか」

「はい」

 妖魔の正体に誰かが気づくことを、まるで考えないではなかった。しかし、あのの大陰陽師、安倍晴明に逆らう勇気など誰にもありはしない。そう思っていた、先ほどまでは。

「儂の替えなどいくらでもいる。黒幕を討てる見込みはあるのか?」

「ええ。あなた様が寝返ってくだされば」

 そう言って、沙霧は微笑んだ。笑うと花が咲いたようであった。

「仰る通り、替えは利くのでしょう。ですから今あなた様を殺しても何にもなりません。晴明の警戒を強めさせるだけです」

「殺さぬ代わりに、従えというわけか」

「今だって脅されているのでしょう?」

「それは少し違う。地獄を描くことは儂の本懐。晴明と儂の利害は一致しておるのだ」

「でしたら、私とも利害は一致します」

「どういう意味だ?」

「良秀様はこれまで通り、妖魔を描き続けてください。ただ一度だけ、私たちが晴明を襲う時、そこへ渾身の一匹を描いてくだされば良いのです」

「……貴様が現れたことを、儂が晴明に告げたらどうする」

「その時は、殺される前に、あなたを殺しに参ります」

 この女なら、それも可能だろう。だが……。

「寝返って討ち損じれば、やはり死ぬ」

「ええ」

「寝返ると口約束をしておいて、いざその時が来たら貴様を裏切る。そうするのが儂にとって最良の道とは思わぬか?」

「いいえ」

「何故だ?」

「そうすれば長生きはできるかも知れません。けれど、晴明の為に絵を描いている限り、あなた様は本当の満足を得られないまま、その生涯を終えられることでしょう」

「……生意気な」

「あの魔王を超えるあやかしを描いてみたくはありませんか?」

 良秀は歯ぎしりしたが、同時に、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。

 沙霧の言う通りだ。実の娘を焼き殺して得たこの力、あの若造に――歳こそ重ねているが、心は幼い――利用されたまま終わるのでは、あまりに空しい。

「いつ、どこでやる?」

「式神を飛ばして知らせます」

「あいわかった」

「感謝します、良秀様」

 恭しく一礼して、沙霧は大広間を出ていった。

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