沈黙

 文字を学ぶべきか。真実を伝えるべきか。迷っている間に、臨月を迎えた。生まれてきた子を腕に抱き、涙を流して喜ぶ夫の顔を見て、真砂は迷いを捨てた。

 そもそも、あの陰陽師のたねとは限らない。武弘の胤である可能性の方が遥かに高い。そうとも、この子は武弘の子だ。あの日の出来事は生涯隠し通す。墓まで持っていく。

 真砂が声が出せぬ分、武弘は努めて武久の相手をしてくれた。夫の優しさと、成長する我が子の姿に、本当に少しずつながら、真砂の心の傷は癒されていった。

 ところが、武久が六歳の時であった。

「母上、ご覧ください!」

 武久の両手の上で、風もないのに、一枚の木の葉が踊っていた。

 戦慄し、ほとんど無意識のうちに、真砂はその木の葉をひったくった。

 武久は驚き、その目に涙が浮かんだ。けれど、涙が出そうなのは真砂の方だった。

 陰陽の力は遺伝でのみ伝えられるものではない。平凡な両親から才持つ子が生まれることもある。しかし、武久の子がたまたま才に恵まれたと考えるのは、あまりに都合が良過ぎる。この子はやはりあの陰陽師の子だったのだ。

 こみ上げる吐き気をやっとの思いで飲み込み、唇を血が滲むほど噛み締めた。そして、かわいそうとは思いながらも、武久を強く睨みつけ、ゆっくりとかぶりを振った。

 この力を使ってはいけない。幼い武久にも母の願いは通じたらしく、それ以来、術を見せることはなくなった。

 武久が十一歳の時――今から一年前――陰陽院が創設され、何も知らない武弘は度々、武久に入学を勧めた。武久は検非違使になりたいと言ってそれを拒み、武弘も強要はしないことが救いだった。

 その頃には、武弘が安倍晴明の名を口にし、その力を褒め称えても、眉一つ動かさぬ胆力を、真砂はすっかり身に付けていた。

 あと少しで、全てを乗り越えられる。そういう実感があった。

 武久が陰陽院に入ると言い出したのはそんな矢先のことだったので、真砂はひどく打ちのめされた。私がこの世で最も憎む存在――そして、考えたくもないが、実の父親――に、この子は物を習いに行くのだ。

 流石に隠し切れず、顔に出てしまった。しかし、幸か不幸か、夫も息子も、真砂の心の内をすっかり誤解していた。

 夫は言った。

「お前が心配する気持ちはわかる。陰陽師となった暁には、自ら進んで危険に身を晒すことになるのだからな。だが、危険な分だけ、誉れ高き仕事だ。武久がいつか晴明様のように戦ってくれたら……そう思うだけで、俺の胸は高鳴るのだ」

 息子は言った。

「あの日、母上が私をお叱りになったこと、ずっと不思議に思っておりましたが、あれは将来妖魔との戦いに巻き込まれはせぬかと、私の身を案じてくださったのですね。不義理にも私は今、母上の望まれぬ道を行こうとしております。どうかお許しください。検非違使に未練がないとは申せませぬが、この力はきっと、陰陽師として父を助け、いつか母上の病を治す為に天から授かったものなのです。幼き頃より、体は鍛えておりました。そう易々と妖魔などにやられはしませぬ。ご安心くださいませ」

 病ではない。あの陰陽師にかけられた呪いなのだ。陰陽術を用いれば祓うことはできるに違いない。

 文字を知らぬことが、歯止めになっていた。強いられていたおかげで、噛み殺せた。声を取り戻してしまった時、果たして私は秘密を守り抜けるだろうか?

 真実を知ったら武弘はどんな顔をするだろう? そして、武久は――?

 言えない。言えるわけがない。私が耐えなければ、家族が家族でなくなってしまう。心を閉ざすのだ。固く、死者の拳のように。救いなど求めてはいけない。

「それでは、いってまいります、母上」

 入学の朝、真砂は全精力を傾けて笑顔を作り、武久を送り出した。一人になると、その場に崩れ落ち、肩を震わせて泣いた。

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