死臭
そこら中に死体が転がっていた。戦場ではない。都の中心、朱雀大路である。
真昼時、死臭漂うその道を、二人の検非違使が顔をしかめながら南へ向かって歩いていた。武弘と秋津であった。
死体は鳥辺野や化野、蓮台野へ運ぶ決まりだが、死体運びを生業とする者たちが病で全滅したとかどこぞへ逃げ出したとかで、その決まりはあってなきに等しいものとなっている。
放置された死体は疫病の元となる。疫病が死体を増やす。恐るべき悪循環。仕組みは単純だが、容易には止められない。
赤ん坊の死体を野犬が食い荒らしているのに出くわし、秋津が呟いた。
「世も末だな」
「末などまだ来てたまるか。秋津、お前にも子があるだろう。日々は続いていかねばならぬ」
と、武弘は鷹揚に言ったが、内心はやりきれない気持ちであった。
誰であれ、掃き清められた更地に死体を捨てるのには抵抗を感じるだろう。だが、掃き溜めならば誰かが死体を捨てる。そこに一つ死体があれば、さほどの罪悪感もなく、人は次々とその周辺に死体を捨てていく。
朱雀大路の南端、羅生門は、竣工当時の堂々たる風情は――武弘は想像するのみだが――見る影もなく、廃屋同然の有様で、その楼閣は今やすっかり死体置き場となっていた。
そのことを皆知っているので、門をくぐる時は誰もが足早になる。楼閣に上って景色を眺めようとする者などない。実際上ってみたところで、拝めるのは鼠が走り回るのと烏が死肉をついばむ姿ばかりである。
「なぁ武弘、やはりやめにしないか」
「ここまで来て何を言うか」
二人の検非違使は、今まさに羅生門の下で、楼閣を見上げていた。
誰も寄り付かない。それは、悪事を働く者たちにとっては実に都合の良い場所だ。近頃都を荒らしている盗賊の一団が、この楼閣を襲撃の拠点にしているのではと、武弘は考えた。まさか住処にはすまいが、武器や少量の戦利品を隠しておくのにはちょうどいい。
「勇気を出せ、秋津。盗賊どもの足取りを掴むきっかけになるやも知れぬのだぞ」
「死体置き場だろう、ここは。こんな場所を好きこのんで使う者などいるのか?」
「だからこそ怪しむべきなのだ。夜中にここで人影を見たという声もある」
「死体を置きに来たのだろう」
「こんな気味の悪い場所へ、わざわざ夜中にか? 俺でも御免こうむる」
「もし、妖魔だったらどうする」
「その時は笛を吹けばいい。妖魔が隠れ家を使うとも思えぬがな」
「では、もし、今盗賊がいたらどうする」
「検非違使が何を言っている。その時は捕らえるに決まっているではないか」
秋津は青ざめて俯いたまま、動こうとしない。
「……もういい。俺一人で行く」
と、武弘は梯子に手をかけた。
「待て。俺も行く。置いていかないでくれ」
「わかった。だが、一人ずつだ。梯子が折れるやも知れぬ」
秋津が頷き、武弘は梯子を上っていった。
と、上り切る寸前で、武弘の手が止まった。
秋津が不安げに声を上げた。
「どうした?」
武弘は秋津を睨み、口元に人差し指を立てた。
秋津は慌てて口を手で塞いだ。
武弘は唇の動きで伝えた。
「誰かいる」
微かに衣擦れの音がするのである。
音は一つの場所から動かない。何者だ? こんな場所で一体何を? ……何であれ、構うものか。見ればわかる。
武弘は思い切って梯子を上り切り、大声を出した。
「そこで何をしている!」
楼閣の内部は、噂通り、死体が散乱していて、凄まじい腐臭が立ち込めている。武弘は鼻を押さえながら、周囲を見回した。皆、死んでいる。時が止まっているかのようだ。この空間に生きた人間は武弘一人。
いや、いた。白髪の老婆が一人、平伏して震えている。
「武弘、何があった!」
下から秋津の声と、梯子が激しく軋む音。
「大丈夫だ。ゆっくり上がってこい。足を踏み外すぞ」
老婆は一切動こうとしない。災難が通り過ぎるのをひたすら祈っているかのように。
武弘は相手を落ち着かせようと、低い声で言った。
「今一度訊く。ここで何をしている」
「何卒お許しを……」
「何をしているのかと訊いているのだ」
「お許しを……後生でございますから……」
その時、秋津が顔を出した。
武弘は少し語気を強めて老婆に言った。
「言わねば手荒なことになるぞ」
「待て、武弘」
と、秋津が口を挟んだ。
「何だ」
「婆さん、顔を上げてくれないか」
秋津の言葉に、老婆はゆっくりと顔を上げた。痩せこけた、皺だらけの醜い顔であった。
秋津は柔らかな声でさらに言った。
「その手に持っているものを見せてくれ」
老婆はためらいながらも、衣の下に隠していた手を出した。握られていたのは、毛髪の束であった。
「
老婆は再び平伏し、言った。
「お許しくださいまし。他に生きる術がないのでございます」
死体はもう物を言わない。髪を抜かれようと、痛みも困りもしない。ただ朽ちてゆくばかり。だが、これは悪しき行いだと、武弘は直感した。死者への冒涜。
「それでも人間か。死体から何かを得ようなどとは、野良犬や鼠と変わらぬではないか」
「仰せの通りにございます。この婆は卑しき畜生めにございます」
「開き直るな。お主、地獄へ堕ちるぞ」
「これ以上の地獄などありましょうか?」
武弘は返答に詰まった。
秋津が言った。
「身寄りはないのか?」
「ありませぬ。あったところで、飢えることに変わりはありますまいが」
「苦労してきたのだな」
それは心からの憐憫の声であった。臆病で、武芸の腕も並以下だが、こういう声は秋津にしか出せない。
「お侍様がた、ご覧の通り、民の暮らしは逼迫しております。儂とてこの歳まで生き長らえたことが不思議でなりませぬ」
武弘は苛立たしげに言った。
「税を取るな、と申すか」
自分たちは民の税で生かされている。そのことは重々承知している。
「いえ、ただ……」
「何だ。申せ」
「子供らの学び舎に金箔とは、あまりに贅沢ではないかと」
公にされている話ではない。が、人の口に戸は立てられぬということだ。
「愚か者め、金箔はただの飾りではない」
昨日、右大臣より珍しく説明があり、内心疑問を抱いていた武弘も、それで合点がいった。
「未熟な子供らを守る為のものなのだ」
陰陽院には我が子、武久も明日から通い始める。
「優れた陰陽師を育てねば、都は今に妖魔どもの巣窟となる」
「それは恐ろしきこと。されど、今は妖魔などより飢えの方が恐ろしゅうございます」
たまらず、武弘は声を荒げた。
「盗人猛々しいとはまさにこのこと。引っ立ててくれる」
「どうせ明日をも知れぬ身。いっそこの首刎ねてくだされ」
老婆の目が真っ直ぐに武弘を見た。武弘は思わず唾を飲んだ。
虚勢ではない。諦観でもない。生死を超越しているかのようなこの眼差し、果たして飢えだけで培われるものだろうか?
昂奮した頭が冷静さを取り戻すと、当初の目的も思い出された。
「婆、初めてここへ来たのはいつだ?」
「確か……三、四日前でございました」
「ここで盗賊を見かけたことはないか?」
「はて、死体を捨てに来る者の他に、ここで人を見たことはありませぬ」
秋津が武弘に言った。
「となれば、もうここに用はない。行くとしよう、武弘。死者を弄ぶのは俺も感心せんが、他に生きる手立てがないなら仕方あるまい」
「わかった。お前の言う通りにしよう」
老婆の顔に、微かに安堵の色が浮かんだ。それは死体損壊の罪を咎められずに済んだ、というのとは少し違うように思われた。思い込みかも知れない。が、武弘は敢えて決めつけ、秋津が下りた後、梯子に足をかけながら言った。
「仲間に伝えておけ。たとえ飢えていようと、盗賊は我ら検非違使が許さぬ」
何のことやら……という目で、老婆は武弘を見た。
武弘はそれ以上言わず、梯子を下りていった。
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