軟膏
鼻の痒みが気がかりで、円融は御簾の向こうから聞こえてくる言葉を聞き逃してしまった。
「今一度申せ」
「では、おそれながら申し上げます。陰陽院増築の件、どうかご再考いただけませんでしょうか」
声の主は右大臣藤原頼忠である。明晰にして実直、臣下からの信頼も厚いが、いささか融通の利かないところもある。
「今は妖魔の撲滅こそが急務。そのためには、優れた陰陽師を幾人も育てねばならぬ」
「仰せの通りにございます」
「頼忠はこの都が妖魔に食い潰されても構わぬと申すか」
「滅相もないことにございます」
「ならば何故、増築に異を唱える」
「私は増築自体に異を唱えているのではございませぬ。ただその造りが華美に過ぎやしないかと申すのです」
金箔をあしらった五重塔。完成すれば、この御所を除いて、都中で最も人目を引く建築物になるだろう。他の寺社など比べ物にならない。
ああ、それにしても鼻が痒い。今は妖魔や陰陽院よりこの痒みの方が深刻な問題だ。
「あくまで子供らの修行の場でございましょう。もっと質素なものでも事足りるのでは」
「晴明が必要だと申しておるのだ」
「しかし……」
話を切り上げるべく、円融は早口でまくしたてた。
「この都で最も優秀な陰陽師が、後進の育成には黄金の塔が必要だと申しておるのだぞ。難癖をつけるなら、頼忠一人で妖魔を退治してみせよ。十匹も倒せば認めてやろう」
「……出過ぎたことを申しました」
「わかればよい。もう下がれ」
「おそれながら、もう一つ」
しつこい男だ。苛立ちでますます鼻が痒くなる。
いっそ罷免してしまえればよいのだが……この男なしでは政務が回らない。
「黄金の塔を建てるには、蓄えが不足しております」
「そんなもの、何とでもなろう」
「ならぬが故、申しておるのです」
「税を増せばよかろうが」
「民は既に重税に苦しんでおります。何卒ご慈悲を」
「頼忠、古来より民というものは重税に苦しむものだ。青臭いことを申すな」
「昨年の日照りを覚えておいででしょう。ただでさえ民は困窮しておるのです。これ以上負担を強いては、さらに餓死者を出すことになります」
「それは大ごとだ。人の命は何より尊い」
「左様にございます」
「妖魔を倒さねば人が死ぬ。妖魔を倒すには陰陽師を育てねばならぬ。陰陽師を育てるには、黄金の塔を建てねばならぬ」
「……」
「余は何かおかしなことを言っておるか?」
「いえ」
「では、下がれ」
「は」
やれやれ、漸く済んでくれた。いつもながら頼忠の正義感には辟易する。
だが、いざ口うるさいのが去ってみると、円融の胸にはしこりのようなものが残っていた。
このところ、妖魔だけでなく、盗賊も随分増えている。民が飢えている証だ。まともな手段で生活が立ち行かなくなれば、自然、奪うしかなくなる。
盗賊や乞食、そして餓死者は、当然のことながら税を納めない。税収がなくなれば、黄金の塔どころではない。この社会そのものが崩壊する。
それに、世間が自分をどう見るか、決して気にならないではない。ただ父の後を継いで即位しただけであって、志など何もないが、どうせなら良き支配者として――名君とまでは呼ばれなくていい。無難な評価が得られれば十分――歴史書に書かれたい。民の暮らしを完全に無視するのは得策ではい。
正直なところ、金箔を貼る必要はないのではないかと、円融も感じていた。
だが、先ほどのように突っぱねた手前、今さら掌を返すのも憚られる。
しかし、金箔は確かに贅沢が過ぎる。
けれども、図面通りに造ると一度約束しているのだから、やはり変えたいなどとは言い出しにくい。晴明の機嫌を損ねては大変だ。それだけは避けねばならない。
だが……。
円融はしきりに鼻を掻きながら、堂々巡りを繰り返した。何故よりによって余の治世にこうも立て続けに災難が起こるのだ。取り急ぎ、この鼻の痒みだけでも治まってくれないと、考え事すらままならない……。
「帝、何かお悩みですか」
左目が青、右目が黄色、毛並みは艶やかな黒の猫が、御簾をくぐりながら、人の言葉を話した。
「おお、晴明か。良きところへ」
「お鼻が疼くようですね」
「そうなのだ。すぐに治療を頼む」
「お安い御用でございます」
言うが早いか、晴明は人間の姿になり、狩衣の袖を一振りした。と、その手には一枚の真っ白な紙が出現していた。
「失礼」
晴明は紙を円融の鼻に当て、そっと指でおさえた。膿を吸い取るのだという。
鼻がじわりと熱くなり、毛穴から何か出ていくのが感じられる。痒みに替わって訪れた心地よさに、思わず漏れそうになるため息を、円融はぐっと飲み込む。晴明の端正な顔がすぐ近くにあるのだ。澄んだ瞳が物怖じもせずこちらを見つめている。見つめ返しては気がどうかなりそうで、円融は晴明の手元に視線を落とすか、瞼を閉じている。
「はい、きれいになりました」
晴明が再び袖を一振りすると、膿を吸った紙はその手から消え、替わって小瓶が握られていた。
「あとはこの軟膏を」
「うむ」
晴明の白く細い指が、小瓶から薄緑色の軟膏を少量すくいとり、そっと撫でるように、円融の鼻に塗りつける。
軽く熱を帯びた鼻に、軟膏のひやりとした触感が、これまた無上の快感である。
指を動かしながら、晴明はしおらしい声で言った。
「申し訳ありません、帝」
「何を謝る。晴明の治療には感謝しているぞ」
「もったいなきお言葉。ですが、私には症状を一時的におさえることしかできません。すっかり治して差し上げられれば良いのですが……」
「気にすることはない。他の医者では手も足も出なかったのだ」
それに、完全に治ってしまっては、この至福を味わうこともできなくなる。
「お悩みは病のことばかりではないようですね」
「ああ。帝という身の上にあっては、悩みが尽きることなどないようだ」
「お聞かせいただけませんか。お鼻の病を根治できぬ分、せめて他のことでもお役に立ちとう存じます」
では、金箔をやめにしないか。……とは、言えない。
御所中の武人が総がかりでもまず敵うまい。晴明に何かを強いることは不可能なのだ。もし何か気に入らないことがあって晴明がどこかへ行ってしまったら、都は妖魔に滅ぼされ、円融は鼻の痒みで発狂するだろう。
どうあってもこの晴明だけは繋ぎ止めておかなくてはならない。どんな犠牲を払ってでも。
「陰陽院の件でございましょう?」
ぎくりとして、円融は晴明を見た。
「聞いておったのか」
「いえ、まさか。ただ、民の暮らしぶりを垣間見ておれば見当はつきます」
薬を塗り終えた晴明は小瓶の蓋を閉め、それもまた宙に消した。
「実はその通りなのだ、晴明。民を苦しめることは本意ではない」
思い切って、そう言った。晴明の口から民という言葉が出た。少なからず理解はあるということだ。
「帝のお優しさには感服するばかりでございます」
「何事をなすにも税を取らねばならぬ。一つ、どうだろう。晴明の設計にけちをつける気はないが、か弱き民への慈悲として、金箔で覆うという部分については、一考の余地ありと思わぬか」
晴明の穏やかな顔に、影がさした。しまった。やはり余計なことを言うべきではなかったか。
少しの沈黙の後、晴明が口を開いた。
「かくなる上は、申し上げぬわけにまいりますまい。この晴明、如何な罰も受け入れましょう」
「何のことだ?」
「帝は、私が何の為に件の塔を金箔で覆おうとしていると?」
「いや、考えもせなんだ」
陰陽師の権勢を誇る為……ではなかったのか?
「実は、金箔には妖魔を退ける力があるのです」
「なんと、そうであったか」
「妖魔の中には知恵を持つ者が少なくありません。成長する前に芽を摘んでしまおうと、陰陽院を襲ってくることも十分考えられるのです」
「うむ、ありそうなことだ」
「黄金の塔には才ある子供だけを入らせるつもりです。しかし、才に恵まれようと子供は子供。突然襲われてはひとたまりもありません。特に、瞑想の最中などは心身共に無防備にならざるを得ないのです」
「よくわかった。だが晴明、何故それを先に言わなかった?」
「お怒りにならぬのですか?」
「理由を申せと言っている」
「金箔にそのような力があるなら、まずこの御所をこそ、守護すべきではありませぬか」
なるほど、言われてみればその通りだ。
しかし今までにこの御所が妖魔に襲われたことなど一度もない。晴明が十分に警戒しているのだろう。差し迫った危険はない。
となれば、ここは寛大なところを見せておくに限る。
「何を愚かなことを。妖魔との戦いについて余は何の力も持たぬ。前途ある子供らを優先しようというのは、至極真っ当な考え方ではないか」
晴明の目に涙が浮かんだ。
「ああ、帝。この晴明は帝のような方にお仕えできて幸せにございます」
「大袈裟な奴だ」
「本心にございます」
晴明は品よく涙を拭うと、再び黒猫に姿を変えた。
「では、帝、何か心にかかる事がございましたら、いつでもご相談くださいませ」
「ああ」
黒猫は尻尾をくねらせながら、御簾を出ていった。
金箔を貼る理由さえ話せば、頼忠も納得するだろう。増税はやむを得ない。陰陽師を守らねば、この都に未来もないのだ。
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