絵図

 武久たちが夕餉を取っている頃、ここは洛外の荒れ果てた山荘である。梁は傾き、襖は乞食を思わせる有様で、廊下は老婆の慟哭のような音を立てて軋む。しかし、大広間の床板だけは一切の汚れも凹凸もなく、そこだけ異世界のもののように、完璧な平面をなしていた。

 その床の上に、都の全てを正確に描いた一枚の巨大な絵図が広げられ、さらにその上に背中の曲がった醜い老人が立っていた。老人は良秀という名の絵師であった。

 東堀川の位置に描かれた、小さな河童の絵。それが、絵図から剥がれてふわりと浮かび、煙と消えた。誰かが――恐らくは晴明が――河童を倒したのだ。

 良秀は手にした絵筆を一舐めすると、頬杖をついた。あの河童は駄作だ。すぐやられて何ら不思議はない。もっと強大で禍々しい奴を描きたいのだが……どうも想像の翼がしおれている。

 部屋の隅に安置した骸骨を見やる。鮮やかな紅の着物を着せた、娘の亡骸。ぽっかりと空いた目の空洞をじっと見つめる。

 熱かったであろう……。さぞかし……苦しかったであろう……。のたうつ大蛇の如き紅蓮の炎に焼かれて、娘の髪がちぢれ、肌が爛れていくのを、良秀は眺めていた。徐々に弱まっていく悲鳴を、良秀はただ聞いていた。愛する娘の死にゆく様を、時間をかけて思い出し、絵師は狂気を充填する。

 よし、いける。久々に得意の「火車」を描くとしよう。

 赤の絵具を練っていると、天井から一匹の蜘蛛が糸をつたって下りてきた。それは全長一尺あまりの大きな体と――人間の女の顔を持っていた。よくよく見れば、良秀の娘の顔であった。

 式神。趣味の悪い真似をする。

 蜘蛛を吊るしていた糸が天井近くで切れたかと思うと、糸はたちまち炎の鞭となって良秀に襲いかかってきた。やむを得ず、絵筆で受け止め、即座に手を放す。巻き取られた絵筆は、蜘蛛の口に入る頃、もうほとんど消し炭になっていた。

 良秀は素早く別の絵筆を取り出し、赤の絵具をたっぷりと含ませ、中空に円を描いた。すると、円はたちまち光り輝き、中から蜂の群れが飛び出した。式神には式神。

 蜂たちがかちかちと顎を鳴らすと、それぞれの全身が赤熱した。その集団はまるで火の粉の塊であった。

 蜘蛛は蜂の群れに向かって炎の鞭を激しく振り回した。蜂の群れはばらばらに散ることでそれをかわし、蜘蛛の本体を包むように、再び集まった。そして、紅に輝く何本もの針が、蜘蛛の全身を滅多刺しにした。娘の顔も、構わず刺した。

 まもなく蜘蛛の体は煙を生じながら倍以上に膨れ上がり、弾け飛んだ。その爆発に巻き込まれて、蜂の群れも消えた。

 まったく、今さらこの儂が娘の顔ぐらいで動揺すると思うのか。つくづく人を馬鹿にしている。

 良秀は天井に向かって怒鳴った。

「そこにいるんだろう。降りてこい、晴明」

 空いた穴から一匹の鼠が下りてきて、言った。

「元気そうだな、良秀」

 鼠はたちまち若い――見かけの上では――陰陽師に姿を変えた。

 良秀は晴明を睨みつけた。

「一体何の真似だ」

「日がな一日絵を描いてばかりで、体が鈍っているのではないかと思ったのだ」

「心配無用。ご覧の通りだ」

「そうらしいな」

「戯れるにしても、術を選べ。火の式神など使って、この絵図が燃えたらどうする」

「お主こそ水の式神で応じれば良かったではないか。火を火で押し返すとは強引な」

「ふん、火行の術は儂の領分だ。張り合いをさせてもらっただけのことよ」

「相変わらずだな」

 晴明は絵図の上にふわりと腰を下ろした。

 良秀は晴明に絵筆を向け、唾を飛ばした。

「それより、大事な絵筆を一本焼かれたぞ。弁償しろ」

「絵筆ならその手に持っているではないか」

「つまらん冗談はよせ。儂を怒らせに来たのか?」

「わかったわかった。そう息巻かないでくれ。代わりの絵筆はすぐに届けさせる」

「一体何の用だ? よもや戯れに来たのではあるまい?」

「戯れに来てはならぬのか?」

「晴明、油断は身を滅ぼすぞ。もしも誰かに後をつけられ、この自作自演が露見したならば、貴様は今の地位を失うだけでは済むまい。地獄の責め苦に遭わされるだろう」

 都のいたるところに現れ、人々を苦しめる妖魔は、実は妖魔などではない。良秀が絵図を用いて召喚した式神なのである。冥界との門が開かれでもしない限り、妖魔はそう都合よく頻繁に現れるものではない。

 戦いに長けた晴明が、名声を獲得し、また維持する為、この良秀に命じて、討伐の相手を作らせているのであった。

 晴明は平然と言い放った。

「お主も同罪ではないか」

「だから言っているのだ。片棒を担がせておいて、不用心が過ぎる」

「案ずるな、良秀。多少の脚色を加えているとは言え、私が最強の陰陽師であることは動かぬ事実。万に一つ、事実が露見したところで、この安倍晴明を罰することなど誰にできる?」

 盛者必衰。世の理が脳裏をよぎったが、良秀は黙っていた。

 並の人間の寿命はとうに過ぎているくせに二十歳そこらの容貌を保ち、五行の力を自由自在に操る陰陽師。この魔王を裁ける者など、良秀の寿命――せいぜいあと十数年――までにはまず現れまい。

 とは言え、揺るぎそうもないのは晴明一人であって、ただ手を組んでいるだけの自分は決して安泰とは言えない。一切の罪をかぶせられ、捨てられることさえあり得る。危険の種は極力排除しておかなければならない。

「貴様の力を疑いはせんが、この際だ、もう一つ言っておくぞ」

「何だ?」

「儂があの河童を描いてから、消えるまでが随分早かった。貴様、笛の音を聞かずに手を出したのではないか?」

「気づいたか」

「馬鹿なことを。それでは、どこにが現れるか、貴様があらかじめ知っていたと悟られかねないではないか」

「普段はきちんと笛の音を待っているのだ。今日の一件ぐらい、誰もがただの偶然と考える」

「儂の身にも関わることなのだぞ。もっと慎重になれ。何故笛の音を待たなかった?」

 晴明は少し言葉を探し、微笑んで言った。

「知りたいか?」

「なんだ、まともな理由があるのか?」

「ちょうどその時近くに居合わせたのが、贔屓にしている検非違使でな」

「贔屓と言ったか? 貴様が人を贔屓にするとは意外だな」

「あの男は、まだ生かしておきたいのだ」

「理由を訊いたら答えるか?」

「そうだな……兄弟のような存在、とでも言っておこう」

「兄弟?」

 どういう意味だ?

「いずれお主が事の顛末を知る日が来るやも知れぬ。だが知る必要はない話だ。お主の喜びは、邪悪な絵を描くことであろう。その絵に私も助けられている。持ちつ持たれつだ。何の不満がある?」

 ……いや。

「何も文句はない。下手な詮索をする気もない」

「ならば、今後とも、よろしく頼むぞ。次は明後日の夕刻、西の市であったな。そう睨むな。次は笛の音を待つ」

「是非そうしてもらおう」

「雑魚ばかりではつまらん。たまには歯ごたえのある奴を描いてくれ」

「そのつもりだ」

「では、楽しみにしているぞ」

 そう言って、晴明は蝙蝠に姿を変え、夜の闇に消えていった。

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