木刀

 家の庭で一人、武久は木刀を振っている。七歳の時、父の武弘から贈られたものだ。以来五年間、雨の日も風の日も、鍛錬を欠かしたことはない。将来は父のような立派な検非違使になるのだ。

 左斜め後方から、石。武久は前を向いたまま、振りかぶった木刀で払い落とす。投げた人間には偶然としか見えないだろう。続いて、別のものが飛んでくる。罵声。

「やーい、能無し!」

「精が出るなァ、能無し!」

 近所の少年たちだ。中心になっているのは、陰陽師蘆屋道満あしやどうまんの息子、道兼。蘆屋道満は安倍晴明に次ぐ実力者と言われている。道兼は父親の威光を傘に着て少年たちを従え、好き放題をしているのだ。

「やれやれ、何も言い返せぬか」

 この気取った声。道兼だ。

「やはり能無しの子は能無しだな」

「父を馬鹿にするな!」

 と、武久は思わず振り向く。

「俺のことは何とでも言え。だが父を侮辱することは許さん」

「許さぬか。ならばどうする」

「どうもせん。お前たちの相手をするのは時間の無駄だ」

「怖いのであろう? 妖魔と出くわしても助けを呼ぶことしかできぬ父親と同じにな」

 少年たちが口笛を吹いておどける。

「ぴぃぴぃ、助けて、陰陽師様ー!」

「お助けをー!」

 笑い声に背を向けて、武久は再び素振りを始める。

 確かに、妖魔を退治できるのは陰陽師のみ。けれど、陰陽の力を使える人間は限られている。妖魔を見つけ、その居場所を知らせる人間も必要だ。陰陽師だけが妖魔と戦っているわけではない。

 だいいち、検非違使の仕事が妖魔探しだけというわけでもない。盗賊などから民を守ることも務めの一つ。父を能無し呼ばわりするのは完全な的外れだ。

 ――と思いながらも、武久はわざわざそれを少年たちに言いはしない。理屈で諭しても無意味なのだ。彼らはただ誰かを貶めて優越感に浸りたいだけなのだから。

「おい能無し、無視してんじゃねぇよ!」

 石が飛んでくる。武久は背中を見せたまま、小首を傾げるようにしてかわす。

「それ、やっちまえ!」

 石の雨。だが、全部が正確に武久めがけて飛んでくるわけではない。向かってくるものだけを見極め、払い落とす。その気になれば打ち返してやることもできるが、そんなことをしても面倒が増えるだけだ。

 苛立たしげに道兼が言う。

「猪口才な。チャンバラで妖魔は倒せんぞ」

 お前たちぐらいなら倒せるがな。言いかけて、武久は口をつぐむ。言い返せばキリがない。言わせておけばいい。

「我は近々本格的に陰陽術の修行を始める。お主はせいぜい無駄な努力を重ねるがいい」

 道兼にならい、少年たちは各々捨て台詞を吐きながら去っていった。

 陰陽術の修行――陰陽院に入る、ということだろう。

 増え続ける妖魔の被害に対抗する為、最近発足した陰陽師養成学校。それが陰陽院だ。才能を開花させる者は生徒の中でもほんの一握りだが、子が陰陽師となれば一族の繁栄は約束されたも同然というわけで、入学の申し込みは後を絶たないという。

 足元に散らばる、少年たちの投げた小石。払い落としたのは、実は剣術などではなく、陰陽術であると、武久は認識している。

 大地の力は木の根が吸い上げる。木は土を制する。その法則を、誰に教わるともなく理解していた。木刀を操って石つぶてを払うことなど造作もないことであった。

 だが、陰陽師を志す気はない。自分はあくまでも父と同じ、検非違使を目指す。検非違使が能無しなどではないことを、言葉でなく、行動によって示さなければならない。


 父は人に優しく、武術に秀で、優れた検非違使であったが、陰陽師に対してへりくだり過ぎるという欠点があった。

「最早これまでと諦めたその時、現れたのがあの安倍晴明様だったのだ」

 夕餉の折、父の物語る河童との戦いの話に、武久は口を挟んだ。

「安倍晴明様は、何故その場に?」

「何だと?」

「笛はお吹きにならなかったのでしょう? ならば晴明様はいかにしてそこに妖魔がいると知ったのでしょうか?」

「つまらぬことを気にするな。たまたま通りかかったのであろう」

「そうでしょうか」

「でなければ何だというのだ?」

「いえ、それはわかりませぬが」

「ああ、あるいは空で見回りをされておったのやも知れぬ。河童を倒した後、鳶に姿を変えて去られたのだ。まったく晴明様の変化の術は見事という他ない」

 鳶、という言葉に、母の真砂がかすかに反応したのを、武久は横目で見た。母は何故か昔から鳶を怖がる。そのことを父は特に気にかけていないようだったが、武久は違った。母の声が失われていることと何か関係がある気がしてならない。

 晴明の術の見事さを興奮した口調でひとしきり話し終えた父は、続けて言った。

「武久、この都を守るのは陰陽師だ。お前も陰陽院に入らぬか」

 そら来た、と武久は思った。父はことあるごとに入学を勧めてくるのだ。無理強いをしてこないだけまだ良いと言えるかも知れないが……

「嫌です」

「何故だ」

「私は父上と同じ、検非違使になりたいのです」

「私は幼い河童一匹倒せなかったのだぞ」

「父上はご自分を卑下され過ぎです。検非違使を担う者も必要ではありませんか」

「無論自分の役目に誇りは持っている。だが、今求められているのは陰陽師なのだ。だからこそ帝は陰陽院をお作りになったのではないか」

「父上は、もし自分がまだ若ければ、陰陽院に入りたいと思うのですか?」

「ああ」

 即答され、武久は返す言葉がなかった。

「例えば今この瞬間、妖魔が襲ってきたとしたら、私にはどうすることもできない。陰陽の力さえあれば、お前たちを守ってやれる」

 母の顔を見た。何を思うか、武久には読み取れない。

「陰陽術の才が芽を出し、育まれるのは元服前の少年期だという。大きくなってから志しても遅いのだ」

「わかっております」

「武久よ、我が子にこんなことを言うのも気は引けるが、私の代わりに永雄の仇を討ってはくれぬか」

「……」

「永雄だけではない。もう何人も検非違使がやられている。悔しいが、私ではどうにもできぬ。もしお前が……」

「仇ならば既に晴明様が討ってくださったでしょう」

「友の仇なのだ。私に叶わぬ望みならば、せめて私の血を引く者に果たしてほしい」

 血、という言葉に、母がまたほんの小さく反応した。父はそれに気づかぬ様子で話を続ける。

「せめて一年、学んでみてはくれぬか。お前に才がなければそれまでのこと」

「才があったならば、陰陽師になれと」

「私はそれを望むが、本当にその道を歩むかどうかは、またその時に決めればいい」

 武久は思案した。仇討ちとまで言われては、無下に断るわけにはいかない。だが、自分に才があることが知れてしまったら、陰陽師にならないことを周りが許しはしまい。この力、隠しおおせるだろうか?


 その晩、武久は夢を見た。

 母が巨大な鳶に襲われ、血を流していた。武久は陰陽術で木の蔓を操って鳶を捕らえ、そのまま締め上げて退治した。

 夢の中で、母は声が出せた。

「ありがとう、武久」

 聞いたことがないはずなのに、懐かしさを感じる声だった。

 目が覚めて、武久は思い出した。陰陽術の中には医術に近いものもあるという。もしかしたら、母の声を取り戻すことができるかも知れない。

 入学を決意したことを告げると、父はたいそう喜んだ。

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