河童
足を掴まれた。そう感じた次の瞬間、武弘の全身は東堀川の水中にあった。
河童だ。油断した。この季節、水際を歩いてはならぬと教えられていたのに。
水を飲み過ぎた。もう助からない。覚悟を決めた時、今度は腕を掴まれ、凄まじい勢いで地上へと引き上げられた。
「無事か、武弘」
地面に這いつくばり、ひとしきり水を吐くと、武弘は友に礼を言った。
「すまぬ、永雄」
「弓を持て。まだ近くにいるぞ」
見れば、水面に一つの影。こちらを嘲るように悠々と泳いでいる。
妖魔を見つけた際には、三色の音色の呼子笛で知らせ合う決まりである。発見者が一の笛を吹く。一の笛を聞いた者は二の笛を吹く。二の笛を聞いた者は三の笛を吹く。すると、陰陽師が三、二、一と音色を辿って駆けつける。
武弘が一の笛を吹こうとするのを、永雄が止めた。
「待て」
「何だ」
「たかが一匹、それも小物だ。二人いれば十分であろう」
「だが、陰陽師を呼ぶ決まりだ」
「連中ばかりが都の守りではない。我ら
永雄は諸肌を脱ぎ、革巻きの弓に鷹の羽の征矢をつがえ、よく発達した筋肉を見せつけるように、強く引き絞った。
このところ、陰陽師ばかりがもてはやされ、検非違使はただの見回り役として軽んじられている。鬱憤を溜め込んでいる仲間は、永雄一人ではない。
武弘が言った。
「陰陽頭の晴明様は不眠不休で戦い続けていると聞く。お力になれるならばそうしたいが……」
永雄は弓を引いたまま苦笑した。
「まったく、お前の晴明様好きにはほとほと呆れるわ」
「しかし、我らだけで妖魔を仕留められるのか?」
「できる。今、わかる」
ひょうと空を切る音がして、永雄の矢が飛び、河童は体の真ん中を射抜かれて水底深く沈み込んだ――かに見えた。
盛大に水飛沫を上げて、河童は中空に躍り上り、水掻きのついた手で器用に握った矢を、永雄めがけて投げ返した。
眉間を貫かれ、永雄の巨躯は仰向けに倒れた。絶命していることは明らかであった。
河童は地上に立ち、口元をほころばせながら、狡猾そうな細い目で武弘を見た。
武弘は反射的に一の笛を口に当てた。しかし、音が出ない。息が吹けない、いや、その前に吸えないのだ。恐怖で肺が硬直している。首筋を冷や汗が伝う。
落ち着け。息を吸う、それだけのことだ。できないはずはない。
やっとの思いで武弘が鼻から空気を取り入れると、河童は武弘を真似るように、唇を突き出し、頬を膨らませた。かと思うと、凄まじい勢いで水を噴き出した。
武弘はそれを手の甲に食らい、笛を取り落として、苦痛に呻いた。
ひたひたと足音が近づいてくる。太刀を抜かねば。そう思うが、手が痛んでそれどころではない。
死を目前にして、武弘は時の流れがぐっと遅くなるのを感じた。
――許せ、永雄。仇は討ってやれそうにない。
武久よ、立派な男になるのだぞ。俺の分まで、お母様を守れ。
真砂、お前は俺にはもったいない女だった。どうか幸せになってくれ――。
迫る足音。死が近づいてくる。たかが河童一匹、こんな奴に俺は殺されるのか。無念だ。俺にも陰陽の力さえあれば……。
その時、背後から声がした。
「希望を持て。そなたの命はまだ続く」
振り向くと、そこに立っていたのは、紫の狩衣に黒の烏帽子、陰陽頭安倍晴明その人であった。
「そなた今、陰陽の力を欲したであろう」
「はい」
「生まれつき持たざる者に力を授けることは叶わぬ。だが力の在り様を学ぶことならば、万人に許されている。下がっておれ」
そう言って、晴明は一歩踏み出した――と、次の瞬間にはもう、晴明の体は武弘と河童の間にあった。武弘は下がる間もなく庇われる形となった。
「ふむ、幼体だな。これなら式神を使うまでもない」
そう言いながら晴明は袖から小さな木片を一つ取り出した。
「木簡の欠片だ。木は炎を生ずる」
晴明の手から放たれた木片は、中空で二つに割れ、河童の体の左右でぴたりと止まると、勢いよく燃え上がった。すぐさま二つの火球は河童の体もろとも一つになり、巨大な炎の塊となった。
熱気は離れた位置にいる武弘の顔まで届いた。
「……凄まじい」
武弘の呟きに答えるように、晴明が言った。
「だが、火は水に消されてしまう」
その言葉通り、炎は瞬時にして雲散霧消した。河童の体には火傷一つない。
河童の頬が膨れた。危ない。武弘が叫ぼうとした時、水流は既に噴き出されていたが、晴明の体に達する寸前で忽然と消失した。
「水が火を消すように、土が水を吸う。目を凝らせばそなたにも見えるであろう、土埃で編んだ羽衣が」
確かに、晴明の周囲の空間が黄色く濁り、陽炎のように揺らめいている。
「水は土で吸えば良いのだ」
そう言って、晴明は地面に手をかざした。すると突然、河童の足元の地面が渦を描き、直径一間ほどの蟻地獄となった。河童は上体を激しく動かして抜け出そうとしたが、ほどなくして完全に飲み込まれてしまった。
「陰陽の力も妖魔たちも現世の存在。自然の法則には逆らえぬ」
河童を飲み込んだ地面の上を、風が静かに通り過ぎていく。
武久は敬意を込め、晴明を仰ぎ見た。
「法則を利用すれば妖魔は退治できる。一見容易いことだが、残念ながらほとんどの陰陽師が天より授かる力は一つか二つ。火しか扱えぬ陰陽師では、先ほどの幼い河童にすら手こずる。この都が妖魔に悩まされ続けているのはそういうわけなのだ」
晴明はゆったりと微笑み、跪いて、武弘の着物の汚れを払った。
「火・水・土・木・金、五行の力を全て操れるのは、この安倍晴明ただ一人。同等の陰陽師がせめてもう一人いてくれれば、私ももう少し楽ができるのだがな」
まだ礼を言っていなかったことに気づき、武弘は口を開こうとした。ところが、武弘の声が発せられるより先に、晴明は鳶に姿を変え、みるみるうちに天高く舞い上がっていった。
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