異世界転生サッカークロニクル

フサフサ

序章

紀夫ノート

 2025年6月22日(日曜日)、ある小さなニュースあるいは訃報が、地方紙の一角ないしネットニュースの片隅に、ひっそりと掲載された。そのニュースに関心を払った人間は、親族や関係者を除けばほとんどいなかった。

 有り体に言えば、それは交通事故だった。

 亡くなったのは沼渕紀夫、54歳男性。高校教師として数学を教える傍ら、サッカー部の顧問を務めていた。学校自体はサッカー弱小校ながら当人は顧問としての腕を買われており、管理職へ進む道を提示されたこともあったが、結局のところサッカーを指導する道を捨てきれなかった。家庭に戻れば妻と一男二女をもつ夫であったが、子供たちは既に家を出ており、家庭では一番若い次女も来年には大学卒業を控えていた。

 事故の様態は、いわゆる自損事故であった。日が暮れて薄暗くなった山道を自家用車で走行中、不意に目の前を横切った何かを避けようとしてハンドル操作を誤り、そのままガードレールを突き破って立ち木に衝突したのである。紀夫の咄嗟の行動が、目の前を横切った四足歩行をする生き物を救ったことを、ドライブレコーダーが目撃していた。家族にとってはなけなしの救いであるとともに、それが却って悔恨でもあった。気まぐれな動物を恨んだところで、何も得られないことは誰の目にも明白だったからである。

 救急隊員が事故の通報を受け発見した際には、紀夫には意識はおろか、既に呼吸も心拍もなかった。差しあたり蘇生が試みられ病院へ搬送されはしたものの、一度も生命兆候が戻ることはなく死亡が宣告された。その場には、急な連絡を受けて慌てて家から駆けつけた妻と紀夫の年老いた両親が居合わせた。遺体は丁寧に整容され、自宅へと搬送された。

 上京していた子供たちは、翌朝に駆けつけた。

 ごく普通に通夜と葬儀が執り行われた。しめやかに、という形容詞はまさにこの時の状況を描写するがためにあるような葬儀であった。学校関係者並びに一部の生徒が参列したため、規模や様式をそれなりに整える必要もあった。

 そうして、葬儀の日以降は親族・関係者各々が内に悲しみに堪えながらも、普通の暮らしに戻っていった。


 だから、この事故についてのあらましは、ここで大方が終わったかのように見られた。一部の口さがない高校の男子生徒などは、これは異世界転生したパターンじゃねなどと軽口を叩いたが、残念ながら紀夫の魂が異世界に召喚されることもなかった。

 しかし一方で、誰の目にも触れられることないまま、異世界転生を果たした存在もまたあった。厳密に言えば、それは転生ではなく、単に転送と言うべきであったかも知れない。

 紀夫は、極めて勤勉な教師であった。それは同僚の誰もが認めるところだ。そして、彼は部活の顧問として、欠かさずにサッカーの研究を行っていた。事故当日も、部活の対外試合を終えて帰路につく途中であった。そう、彼の車にはそれまでの試合経過や対戦チームのデータなど、膨大な資料が積まれていた。当初は型どおりにサッカーのスコアシートを付けていた彼であったが、時が経つにつれそれは独自進化を遂げ、本人でなければ解読できないような異形の姿へと変貌していた。戦術メモにしても同様である。

 通称、紀夫ノート。

 あの不幸な事故以来、車に積んであったはずの紀夫ノートを目にしたものはいない。部室に保管されているそれは、卒業生が三巡以上した以前の、10年以上に書かれた物である。

 家族はその存在を知らず、部活関係者も家族を気遣ってその在処を尋ねたりしない。そうやって、存在そのものが忘れ去られていった。

 彼の生きた証でもある、紀夫ノート。


 それは時空を経て、今甦るッ――!

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