死んでみて解ったこと

渡辺宇太郎

死んでみて解ったこと

 俺は川辺の土手に座りアイスキャンディーを舐めながら、小魚を啄む一羽の水鳥を眺めていた。午後四時を少し過ぎた頃であったが、初夏の太陽はまだ高く水面に光を反射させ、視線が水中に入って行くのを遮っている。川と土手と鳥、目に入ってくる情報があまりに少ないと人は思考しなくなるらしい。俺の意識は、ただ口中に広がる冷たさと甘味だけに向けられ、そしてそれを堪能していた。

「ああ、死にてえ」

 隣にいるオカザキが唐突に言い出した。こいつはしょっちゅう「死にたい」と言っている。しかしそれは高校生の間では日常的に使う言葉だ。誰も本気で言っている奴はいないし、それを本気で受け止める奴もいない。俺は「またか」と思い、呆れてお座なりな返事をした。

「はいはい、またその話ね」

「だってさー、来年卒業したら徴兵されて最低三年は帰って来れないんだぜ」

 オカザキは食べ終わったアイスキャンディーの棒で足元の草を薙いでいる。草刈りをイメージしてやっているのだろうが、もちろん棒には刃などついていない。ただ草がその動きに合わせて左右に揺れているだけだ。

「そうだな」

「アイダ。お前兵役、嫌じゃないのか?」

「そりゃ嫌だけどよ。義務なんだからしょうがないだろ……」

 しかしそこで気づいた。

「あっ、だったらオカザキ。兵役中に死ねばいいんじゃね? 戦闘中なら堂々と死ねるぞ」

「そりゃ、そうだけどよ。でも訓練がかなりきついらしいんだよ」

「でも兵役前に自殺したら徴兵逃れって思われかねないぞ。そうしたら家族に迷惑がかかるんじゃないのか? 特にお前の家は軍属だから尚更だろ」

「ああ、そこが問題なんだよ。お前、自殺に見えない良い死に方知らないか?」

 「死にたい」と言うのはいつもの事だから慣れてはいたが、『死に方』まで訊いてきたことに俺はだんだん腹が立ってきた。

「そんなもん自分で調べろよ。さ、帰るぞ」

 俺は立ち上がると土手を歩き出した。しかしオカザキは座ったまま、川の方をまだ見ている。立ち止まってその視線を辿ると橋の上にプラカードを掲げたデモ集団が見えた。

「どうした? オカザキ。帰らないのか?」

「俺はもう少し、ここで考えてから帰るよ。お前先に行っていいぞ」

「そうか。じゃあ、また明日な」

 俺は軽く右手を上げてから歩みを再開した。

 自宅に着いて玄関を開けると三和土には兄のシューズが無造作に脱ぎ捨てられ、その片方がひっくり返っていた。これは珍しい。と言うのも兄は普段、引き篭もっていて滅多に外出等しないからだ。俺は二階に上がり、兄の部屋をノックした。

「兄貴、今日外に出たんだろ? なら部屋にばっかり引き篭もっていないでたまには居間に降りて来いよ。お母さん、心配してたぞ」

 しかし何の返事もない。そこでもう一度、今度は強めにノックをした。

「おい、居るんだろ!」

 やはり返事がない。耳を澄ませると衣擦れの様な音が微かに聞こえてくる。在室であることは間違いない。

「開けるぞ」

 ドアを開けるとオフィスチェアに座る兄の後姿が見えた。頭にヘッドホンを乗せ、両耳を覆っている。道理で俺の声が聞こえないはずだ。カーテンを閉めているせいで部屋が薄暗い。しばらく掃除をしていないのだろう、空気が淀んでいて埃っぽく、開けたドアから入ってきた光が宙を漂う塵の粒子を浮かび上がらせていた。床には脱ぎ捨てられた衣類やら食べ終わったスナック菓子の袋やらが散乱している。

 俺は床の物を踏まないよう注意しながら近づいていった。すると兄の背に隠れて見えなかったパソコン画面が視界に入ってきた。そこには若い男女が性交している動画が映し出されている。兄はスウェットのズボンを膝まで下げ、下半身をむき出しにして固くなった自分の性器を握りしめていた。どうやら自慰に耽っていたらしい。横に立つ俺に気づくと慌ててズボンを引き上げ殴り掛かってきた。

「てめえ、何勝手に入って来てんだよ。出てけ、ぶっ殺すぞ!」

 拳を顔面に食らい、腹を蹴られた俺は室外に吹っ飛んだ。そして廊下で蹲っていると兄は雑誌を一冊叩きつけ、力いっぱいドアを閉めてしまった。

「くそ……痛えな」

 俺は鼻血が出ていないか確かめると投げつけられた雑誌を拾って奥隣りの自室に入った。スウェットに着替えベッドの上に横たわる。人心地がついたところで先ほど投げつけられた雑誌をペラペラと捲ってみた。それは、所謂成人誌と呼ばれるもので、風俗関係の情報や記事、そして女性の裸体写真が載っていた。

「女の裸なんて見て何が面白いんだ? くっそつまんね」

 中央のカラー写真までページを捲ったところで飽きてしまい、俺は雑誌を机脇のゴミ箱に投げ入れた。

 兄が部屋に引きこもるようになったのは今年の四月からだ。高校を卒業して徴兵され、一年の訓練期間を経て二年間戦地で実戦を経験し、任期が満了して帰って来た。しかし、兵役に就く以前は人並みに社交的だった。友人も何人かいたようだし、家族とも普通に会話をして、食事も一緒に取っていた。ところが帰って来た途端、ガラッと変わってしまった。母は兄の変貌ぶりに戸惑っていたようだが、父は驚かず、「戦地帰りは皆、大なり小なり性格が変わる」と言って問題視していない。父も兵役を経験しているので、兄の事が解るらしい。俺が戦地での事を訊いても、二人とも口を揃えて「覚えていない」と言う。軍事機密なのか本当に覚えていないのか判らないが、これは俺の家族に限った話ではない。戦地帰りは皆、戦闘について尋ねると同じように「覚えていない」と言う。

 次の日も放課後までいつもと変わらない退屈な時間を過ごした。部活に入っていない俺のすべき事といえば、後はさっさと家に帰るだけだ。同じく部活に入っていないオカザキと通学カバンを肩に掛け昇降口に向かう。

「アイダ。俺、夏休みに入ったら死ぬことにしたよ」

「はあ? まだそんなこと考えていたのか……。で、どうやって死ぬんだ?」

「なるべく体に傷つけたくないから、ガレージで親父の車のエンジン掛けて、排気ガスで死ぬ事にしたよ。一酸化炭素中毒ってやつだ。それだと眠くなって苦しまず、そのまま死ねるらしい。昨日、ネットで検索したら、どこかのサイトにそんな事が書いてあったんだ。そこでどうだ? お前も一緒に」

「はあ? 一緒に死のうってか? 冗談じゃない。俺は普通に兵役で死ぬよ」

「お前、まじめだなあ」

「うるせえ、お前がずるいだけだよ」

 オカザキと不毛な会話をしながら下駄箱前に辿り着くとそこに女子生徒が二人並んで立っていた。俺たちがやって来たのを見て一人が「じゃあ頑張って」と、もう一人の肩を叩いて去って行く。

「アイダ君。ちょっといい?」

 残された方が話しかけてきた。オカザキは事態を察したらしく、「先に帰るわ」と俺の返事も聞かずにさっさと行ってしまった。

「ウエノ、何か用か?」

 彼女とは小中高とずっと一緒で何度か同じクラスになった事もあるが今は別のクラスにいる。

「あのね、話があるの。誰もいない所で。いい?」

 俺が了承するとウエノは先を歩き出した。俺もその後ろに続く。そして人気のない体育館裏まで辿り着くと歩みを止め、こちらの方を振り向いた。

「あのね、アイダ君。あたし、前からあなたの事が好きだったの。それでね、あたしと付き合ってくれない?」

 ウエノは頬を赤く染めながらも、俺の目をしっかり見ながら言った。緊張のせいか、声が少し上ずっている。

「俺と?」

「うん。いや? それとも誰か他に好きな人でもいるの?」

「いや、そういう人はいないけど……」

「じゃあ、いいでしょ」

「う、うん。じゃあ、付き合おうか」

 俺は断る理由もなかったので、特に熟慮せず、彼女の申し出を受け入れた。

 

 夏休みに入り、俺はウエノに誘われて高台にある彼女のマンションに赴いた。居間に通されるとベランダから遙か先の海まで見えた。海上に浮かぶ白い点は船舶なのだろう。動いているはずだが遠すぎて止まっているようにしか見えない。その手前には町並みが扇状に広がっている。俺がその眺望に感動していると電動のカーテンがいきなり閉まりだした。陽光が遮られ部屋が薄暗くなっていく。もう少し眺望を堪能していたかった俺は「こんなに見晴らしが良いのになんでカーテンなんか閉めるんだ?」と尋ねた。するとウエノは「これから映画を観るのよ。こうやって暗くすると雰囲気が出ていいでしょ」と笑顔で返してきた。別にそこまでする必要はないだろうと思ったが、ここはウエノの家であって俺の家ではない。後髪を引かれる思いだったが促されるままソファに腰を下ろした。彼女がリモコンを操作するとテレビ画面に映画紹介が始まる。本編はその後だ。するとウエノは俺の腕に抱きつき、体を密着させながら話しかけてきた。

「オカザキ君ってアイダ君のクラスよね」

「そうだけど。オカザキがどうかしたのか?」

「彼、夏休みに入ってすぐに死んだんだって」

「あ、そう」

「ちょっと何? あまり驚いてないようね」

「いや、もちろん驚いているよ」

「彼ね、ガレージで倒れていたところを発見されたそうよ。シャッターが閉まったままなのに、車のエンジンがかかっていたんですって。その排気ガスが原因で一酸化炭素中毒を起こしたそうよ」

「ずいぶん詳しいな」

「あ、それはね、あたしのクラスメイトがオカザキ君家の向かいに住んでいて、その子が教えてくれたの」

「そうか……ところでなんでそうなったか分かるか?」

「ううん、そこまでは……でも事故って話みたいよ」

「ふーん」

 それから本編が始まり俺たちは無言で映画を見た。古い作品で俺たちが生まれる前に制作されたものだ。同窓会で再会した男女が、それを機会に恋に落ちていく。ウエノはこういった恋愛ものが好きらしい。しかし俺は何の興味も持てず、ひたすら退屈だった。眠気が襲ってくる。

 初めてのデートで俺は映画の上映中眠ってしまい、一度彼女を怒らせていた。それを思い出し必死に睡魔と闘ったが、エンドロールが始まった頃、とうとう堪らず欠伸をしてしまった。

「ねえ、つまんなかった?」

「い、いや、そんなことは……」

 また怒られるんじゃないかと一瞬焦ったが、ウエノはテレビを消すと、いきなり俺の膝上に跨ってキスをしてきた。キスは今回が初めてではない。二回目のデートの時、別れ際にしている。それが最初だった。それからは会う度にキスをしている。

 唇を離すと、ウエノの目が潤んでいるのが解った。彼女はおもむろにTシャツを脱ぎ出し薄いブルーのブラジャーも取り去ってしまった。眼前に小ぶりではあるが形の良い二つの乳房が顕になる。乳首が上を向き、健康的な印象を受けた。するとウエノは俺の両手を取り、自分の胸に引き寄せた。

「触って」

 言われるまま胸に手を当てる。触れた瞬間、彼女は軽い吐息を漏らした。手の平の中で乳首が固くなっていく。

 ウエノは再び唇を合わせると、ズボンの上から俺の股間を摩ってきた。そして一度立ち上がると、今度は床に膝を突き、俺のベルトに指をかけた。その動きが拙く少し時間が掛かったが、ベルトを解くとズボンと下着を引き下ろし、顕になった物を優しく両手で包みこんだ。俺は成すがまま身を任せる。彼女は顔を寄せて二、三度舌先で舐めた後、それを咥えこんだ。しばらく愛撫が続く。しかし俺は何も感じず、何の反応も見せなかった。

「う、うう」

 ウエノが体を小刻みに震わせ、嗚咽を漏らし始めた。そして顔を上げ鋭い目つきで俺を睨む。涙が頬を濡らしていた。

「アイダ君、あたしの事本当は好きじゃないでしょ」

「いや、そんなことは」

「嘘言わないでよ。デートしているときはいつも上の空だし、映画観てるときも退屈そうにしてたじゃない。今だってそう。あたしがこんなに恥ずかしい思いをしてやってあげてるってのに全然その気にならないし……。もう、いいわ。帰って」

 彼女は床に脱ぎ捨てられていたTシャツとブラジャーを乱暴に掴むと立ち上がり、奥の自室へと入ってしまった。

 俺は仕方なく、黙って彼女の家を出た。しかし、なんの罪悪感もなかった。むしろ何故ウエノが怒ったのか理解できないでいた。実際、彼女に対して特別な感情を持っていたわけではない。ただ、誘われたから言われるまま付き合っていただけだった。

 その夜、彼女から俺のスマートフォンにメールが届いた。開くと「別れましょう」と一言書かれていた。俺は返信を示す矢印を触ると「解った」と一言入力して送信した。

 

 高校を卒業した俺は無事というのも些か変ではあるが徴兵された。先立って行われた身体検査で心身に問題がないと判断されたからである。

 入隊して半年が過ぎた頃、俺は一日の訓練が終わり、束の間の自由時間をベッドに横たわって駐屯所内にある図書館から借りてきた文庫本を読んでいた。軍服は着たままである。ここでは時々夜間訓練も行われる。それは何の通達もなしに、いきなり実施されることもあった為、寝るときも軍服を着用する決まりになっていた。寮の部屋は二段ベッドが二組と机が四つあるだけの殺風景な空間で、俺以外に三人の同居人がいた。プライバシーと言った物は全くない。

「なあ、アイダ。明日の生命危機体感訓練って何するのかな?」

 二段ベッドの上から、キクチが顔を出して下の俺に話しかけて来た。俺は読んでいた文庫本に親指を挟んで閉じると視線をキクチに向ける。

「いや、知らないな。サシダ、お前なんか知ってるか?」

 俺は向かいのベッドにいる男に話を振った。こいつは先ほどから目を閉じていたが、寝ているわけではない。いつも、暇な時は目を閉じてじっとしている。彼の兄は士官で軍に関する情報を俺たちより多く持っていた。

「あっ、俺もそれ、聞きたいな」

 サシダの上で雑誌を読んでいたタチカワもその話題に加わってきた。ここにいる連中は皆坊主頭をしている。入隊時に丸刈りにされ、それからは月に一度、強制的にバリカンで刈られていた。昨日、入隊してから七回目の散髪を済ませたばかりで皆、頭を青々とさせている。

 サシダは目を開けると、上半身をゆっくり起こし、体を九十度捻って両足を床に下した。そして誰にも視線を合わせず、床を見つめたまま話し出す。

「死ぬ思いをさせられるらしい」

「死ぬ思いって、どんな?」

 キクチが俺の頭上から質問する。

「実弾の入った拳銃でロシアンルーレットをやると聞いたことがある」

「どうせ、怖い思いをするだけで本当に死ぬってことはないんだろ?」

 俺は所詮訓練だからと思い、サシダの話を本気にしないで言った。

「でもよ、実弾入れたら確率六分の一で弾飛び出すぞ」

 タチカワが顔を出して言う。

「そうだ。実際、この訓練で死んだ人がいるらしい」

「マジ? でも、それで死んだら、そこでこの兵役も終わりになるだろ。だったら俺の時、実弾出てくれないかな」

 キクチが言う。

「俺もそれがいいな」

 タチカワがキクチに同意した。俺も口には出さなかったが彼らと同じ気持ちだった。

「残念だが、必ずロシアンルーレットをするという訳ではない。他にもいろいろあるみたいだが、それは教官が判断して決める事だ」

 サシダが相変わらず無表情で言った。その途端、バチンと大きな音がして明かりが消えた。消灯時間が来たのだ。皆、話を止め、体を横に伸ばす。

 毎日こんな生活をしていると体が勝手に反応する。眠くなかったが目を閉じると、俺はすぐに深い眠りへと落ちて行った。

 翌日、俺は橋の上にいた。しかしそこは欄干を乗り越えた橋の僅かな縁だ。体には心拍数や発汗量、脳波などが測定できる器具を付けて両足は縛られている。これからバンジージャンプをやらされるらしい。訓練生が一列に並んでいた。見下ろすとはるか下に川が流れている。水量は乏しく、大きな岩がゴロゴロしていた。高さは五十メートルといったところか。激突したら一溜まりもないだろう。

 教官が拡声器を片手に説明を始めた。

「いいか、俺が号令したら、お前たちはそこから飛び降りろ。その前に一つ言っておくことがある。この中の何人かは足の縄が橋に繋がっていない。つまり飛び降りたら確実に死ぬ奴がいるということだ」

 その言葉を聞いて訓練生が一瞬ざわついた。俺たちはここに来る前、過去の訓練風景だという映像を見せられていた。しかもその中では実際訓練生が死ぬシーンもあった。

「しかし、これは命令だ。軍ではどんな事も命令されたら遂行しなければならない。たとえそれによって死ぬ事になるとしてもだ!」

 教官はざわついている訓練生を無視して話を続けた。そして説明が終わるとじらすように十数秒沈黙してから大きな声で号令を発した。

「飛び降りろ!」

 教官に近い奴から次々に飛び降りていく。俺も何の迷いもなく体を前に倒し、落下して行った。

 すぐに足が上へ強く引っ張られ、反動で何回も上下に体が浮き沈みする。周りを見渡すと皆逆さの状態で両腕を頭の上にあげていた。まるで万歳しているような体勢になっており、ほとんどの奴が笑っている。俺は本当に下で激突して死んでいる奴がいないか、視線を川の方に向けてみたが、そんな奴は一人もいなかった。

 やっぱり「縄が橋と繋がっていない」と言うのは、飛び降りる俺たちに恐怖を煽るための悪い冗談だったらしい。逆に視線を橋の方へ向けると飛び降りていない奴が二人いるのが見えた。

 その後、引き上げられた俺たちは整列させられた。しかしその隊列に先ほど飛び降りなかった二人はいない。目立つよう前に出て立たされている。すると副教官が隊列の中の一人に近づき、肩を叩いて何やら話しかけた。声を掛けられた訓練生はおどおどしながら歩み出て前にいる二人の右端に並んだ。それから教官はその三人に回れ右を指示して顔を俺たちの方に向けさせた。

「今年はこの三人でロシアンルーレットをやってもらう」

 教官が皆に聞こえるよう大声で叫ぶとリボルバー式の拳銃に実弾を入れ、シリンダーを一度回して見せた。その間、副教官が前の三人に一人ずつ黒い布で目隠しをしていく。

 準備が整うと教官は俺たちから見て左端の訓練生にその拳銃を持たせ、銃口をこめかみに当てさせた。

「さあ、トリガーを引け!」

 命令された訓練生は体をブルブルと震わせ歯をガチガチと鳴らし始めた。

 なかなかトリガーを引かないので見兼ねた教官が尋ねる。

「貴様、俺の命令に従えないのか。正直に言ってみろ!」

 躊躇いながらも、その訓練生は掠れた小声で言う。

「で、できません」

「何? 聞こえん! もっと大きな声で言え!」

「できません!」

「よし、解った。もういいぞ」

 教官が拳銃を取り上げるとその訓練生は力が抜けたのかその場にへたり込んでしまった。

「今度はお前の番だ。さあ、トリガーを引け!」

 教官は次にその隣の訓練生に拳銃を持たせると同じように銃口をこめかみに当てさせた。二人目の訓練生もトリガーが引けず震えだす。そのうち股間の周りにシミが広がり始めた。どうやら小便を漏らしたようだ。

 教官が尋ねた。

「お前も、俺の命令に従えないのか?」

「できません」

 訓練生は泣きながらそう言うと銃口を下ろしてしまった。

「もういい!」

 教官は拳銃をもぎ取ると最後の一人にそれを握らせ、こめかみに当てさせた。

「さあ、トリガーを引け!」

 最後の一人も体を震わせて、引き金を引くのを躊躇している。

「なあ、あいつってあのタナベだろ?」

 突然、後ろに立っているキクチが小声で話かけてきた。

「ああ、そうだ」

 今拳銃を握っている男は、俺たち訓練生の中ではちょっとした有名人だった。訓練生は皆相部屋の連中四人で一つの班となっており、何をするにも連帯責任を負わされる。そのタナベも相部屋の連中と組んでいたが、とにかく臆病な奴らしい。夜間訓練では闇に怯え、遠泳訓練では溺れると泣き喚いたと聞いている。その度に同じ班員はその場で腕立て伏せやスクワットなど懲罰的な訓練を強いられていた。その為、班員に嫌われてしまい、自由時間はいつも一人でいた。俺も一人でいる彼を何度か目撃したことがある。

 皆、どうなるかと固唾を飲んで見守っていた。こいつは先の二人とは違う。橋から飛び降りているのだ。臆病なくせに怖くても教官の命令に逆らえないタイプのようだ。

「わー!」

 拳銃を握ったタナベが大声で叫ぶと銃声が聞こえた。銃口から一筋の煙が立ち上って消えていく。しかしそれは空に向けられていた。教官が寸での所で彼の腕を掴み上に引っ張ったのだ。

 結局、誰一人死ぬことはなく、生命危機体感訓練は終わった。

 数日後、サシダが教えてくれた。前に出た三人は別の駐屯地に移動になったそうだ。

 

 訓練期間を終えた俺は、北方の部隊に配属された。幸運にも訓練期間中相部屋だったキクチとタチカワは俺と同じ部隊でしかも同じ小隊になった。サシダだけ東方の部隊に行ってしまった。そこは激戦区で訓練生の中でも優秀な成績を修めた者が配属されるところと言われていた。

 ここでは常に五人一組の小隊で行動する。その為、俺を含めた相部屋組三人の他にもう一人隊員が加わり、そこに上官がついた。初めて小隊が顔を合わせた時だ。マミヤと名乗る上官が連れてきた隊員を見て俺たちは驚いた。知っている奴だったからである。そいつは生命危機体感訓練のおり前に立たされロシアンルーレットをやらされたあのタナベだったのだ。

 部隊に配属されたからと言って、すぐさま戦地に赴き戦闘に参加するわけではない。ここでもひたすら訓練に明け暮れる日々だった。かつてのタナベを知っている俺たち相部屋組は懲罰訓練を食らうことがあるかもしれないと半ばあきらめ覚悟していたが、結局そんなことにはならなかった。移動先の駐屯地でどんな訓練を受けてきたのかタナベは以前のような臆病な奴ではなくなっていたからだ。

 部隊に入って三か月ほど経ったある日のことだ。俺達が土嚢をトラックに積んでいると一人の高級士官が現れ、マミヤを呼び出した。何やら二人で話した後、その高級士官が去っていく。そして俺たちはマミヤに呼ばれ横一列に並ばされた。

「いよいよ、下命が下された。我々第二十六小隊は、明日一一〇〇時、D装備にて宿舎前に集合の事」

 俺たちは復誦して、背筋を伸ばすとマミヤに対して敬礼した。

 翌日、宿舎前に指示された装備で待つ。俺たちの他にも小隊が何組かいた。暫くするとトラックが一台やって来て荷台に乗せられた。幌が下ろされ、真っ暗になる。

 悪路なのかトラックが動き出すと車体が揺れ時折跳ねた。皆無言だ。俺は舌を噛まないよう、ずーと歯を食いしばっていた。

 二時間ほどで目的地に到着したらしくトラックが止まると、後部の幌が捲し上げられた。日が差し込み、眩しくて一瞬目が眩む。しかし他の連中がどんな顔をしているかは判別できない。というのもD装備はガスマスクをしているからだ。

 そこは森の手前だった。一同が整列する。

 部隊長の説明によると、俺たちはこれからこの森の中に進軍して、中に潜んでいる敵兵を殲滅するらしい。

 号令があり、マミヤを先頭に銃のセイフティを解除して、森の中へと分け入って行った。十五分ほどすると最初の銃声が聞こえた。それからは至る所で戦闘が始まったらしく、銃声が続く。

 広大な森へと進軍して行ったため、周りに他の小隊は見えない。さらに進んでいくと、どこからともなく白い靄が漂ってきた。それを見て先頭のマミヤが叫ぶ。

「毒ガスだ!」

 なるほど。この状況を見越してのD装備だったのか。俺たちは警戒を強め、前進を続けた。ガスに包まれ一瞬緊張したが、マスクが十分機能しているらしく呼吸に問題はない。更に進んでいくと、視界がどんどん悪くなっていった。俺は先頭のマミヤを見失わないよう必死に付いて行ったがとうとう見失ってしまった。視界も完全に失われ、辺り一面が真っ白になる。僅か数メートル隣にいる仲間たちの姿さえ見えない。

 俺がマミヤを必死に探していると突然、左から銃声が聞こえた。

「うっ!」

 うめき声が聞こえ、その後、人が倒れた音がした。

 隊列の並びから言って、やられたのはタチカワだ。

「野郎! どこだー!」

 キクチが銃を撃ちまくる。俺は流れ弾を避けるためその場に伏せた。

「バカ、止めろ。キクチ! この状態で撃ったら同士討ちになってしまうぞ!」

 俺が叫ぶと銃声が止んだ。しかし、それは俺の言葉が聞き入れられた結果ではなかった。

「畜生」

 掠れるような声が聞こえ、倒れる音がした。キクチもやられたようだ。

 俺は息を潜め、耳に神経を集中させて、周りの様子を窺う。

 ザッザッザッ。

 草を踏む音が聞こえてきた。俺はいつでも攻撃できるように音のする方へ銃口を向ける。視界は相変わらず悪かったが、地表から十五センチ程の高さまでは空気の流れの影響か少し先まで見える。ぼんやりと近づいてくる足元が見えてきた。それが一メートル手前まで来てやっと、俺たちが支給されている物と同じ軍用ブーツだと判った。俺は安心してトリガーから指を放して立ちあがる。

 目の前にガスマスクをした奴がいた。しかし俺達の物とは違う。ブーツは鹵獲したものなのだろう。敵が仲間になりすまして近づいて来たんだ。

 俺はとっさに銃を向けようとしたが間に合わなかった。銃声が鳴り、胸が熱くなる。やられた。俺は最後の力を振り絞って相手のガスマスクを剥ぎとった。これで奴も毒ガスを吸って死んでしまうだろう。相打ちだ。しかし、一矢報いたと思った俺の目に飛び込んできたのはタナベの顔だった。力尽き倒れた俺は薄れゆく意識の中でマミヤとタナベの会話を聞いた。

「やったか?」

「はい、隊長。ですが顔を見られました」

 ガスの中、何故かタナベは平然としていた。

「気にするな。それはなんとかなるだろう」

 そこで俺の意識は途切れた。

 

 目覚めると白い天井が見えた。電子音がする方へ顔を向けると四角い箱型の機械が幾つか縦に並んで立っていた。それぞれが複数の配線で繋がれている。体が怠くて動かないので首だけ起こしてみるとチューブの付いた針が左腕の静脈に刺さっていた。胸と額には幾つかコード線が張り付けられており、それが横の箱に続いている。おそらくバイタル情報を計測しているのだろう。

 何らかの薬の影響か、はじめの内は頭がボーとして何も考えられなかったが、徐々に意識がはっきりとしてきた。

 どうやら俺は軍の病院に居るようだ。状況を理解したところでここにいる理由を思い出そうとしていたら突然マスク顔が脳裏に浮かんだ。

 思い出した! 俺はタナベに撃たれたんだ。しかし何故あいつは敵のガスマスクをしていたんだ? しかも隊長との会話から二人はどうやらグルらしい。どうなっている?

 俺が一人思考を巡らせ混乱していると扉が開く音が聞こえた。体を起こすのも億劫なのでそのまま横になっていると入ってきた人物が俺の顔を覗き込んできた。眼鏡を掛けた短髪の三十代と思しき男性と目が合う。彼は白衣を着て聴診器を首からぶら下げ、紙を挟んだボードを小脇に抱えていた。

「おっ! 目が覚めたようですね。自分の名前は言えますか?」

 その外見から彼を医師と判断した俺は素直に答えた。

「アイダです」

「意識ははっきりしているようですね。それではちょっと失礼しますよ」

 医師はそう言うと、持っていたボードを横の箱の上に置き、胸ポケットからペン型のライトを取り出して俺の目を覗き込んだ。それから布団を捲って胸に聴診器を当てる。その時俺は気付いた。撃たれたはずなのに何故か胸に傷跡がないことを。

「特に問題は無いようですね。痛いところはありますか?」

 彼は箱の上に置いたボードを取り上げると何やら記入しながら尋ねてきた。

「あのー先生」

 俺は質問で応じた。

「はい、何でしょう」

 医師が今度は箱の表面に並ぶボタンを幾つか押し始めた。

「確か自分は胸を撃たれたはずですが……」

「ええ、しっかり電波銃で撃たれましたよ」

「電波銃?」

「はい。特殊な波長の電波が飛び出して肉体の表面は傷つけず、内部の臓器だけを破壊する代物です。まあ、ちょっと変わった電子レンジみたいなものですよ」

「はあ……それで私はどうなったんですか?」

「死にました」

「えっ!」

「あなたは心肺停止状態になったんですよ」

 電波銃? 死んだ?

 訳が分からず混乱して言葉に詰まっていると無言の間に気づいた医師が訝しげな顔を俺の方に向けた。

「どうしました?」

「あのう、でも私は生きてますよ」

「はい。私が蘇生させました」

「そうだったんですか……あ、ありがとうございます」

「いえいえ。それが私の仕事ですから」

「あの、それで自分を撃った奴なんですが……」

 そう言いかけると医師の表情が曇ったが俺は構わず話を続けた。

「そいつは同じ小隊のタナベでした。それにマミヤ隊長も関係しているようでした」

 すると医師は一度溜息を吐いてから言った。

「やっぱり見ていたんですね。だから、あなたはここに隔離されているんですよ」

 確かにここは個室だ。俺みたいな最下級兵士が入院するには過ぎた環境である。

「どういうことですか?」

「マミヤ隊長から報告が上がっています」

「えっ? あの、説明はして貰えるんですか?」

「はい。でも、それは今ではありません。あなたの怪我が完治したらちゃんと説明がありますよ。ですから今は治療に専念してください」

「わ、解りました」

 釈然としなかったが怪我をしている身では何が出来るというわけでもなく、俺は医師の言葉を受け入れるしかなかった。

「あのー、怪我はどれくらいで治るんでしょうか?」

「そうですね、私の見立てだと全治一か月と言ったところでしょうか。さあ、解ったら安心して眠ってください」

 医師はその後、点滴の溶液を新しい物と交換して部屋を出て行った。

 

 思いのほか回復が早かったらしく、それから三週間後には退院が許された。その間、接触したのは、俺を診察した医師および身の回りの世話をしてくれた看護師、そして立ち上がれるようになってからリハビリを指導してくれた理学療法士の三人だけだった。

 退院の日、軍服に着替え、病室で控えていると大柄な士官が一人やって来た。「付いて来い」と言われ、彼に続いて病室を出る。何度か角を曲がり、『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた看板と銃を持った衛兵の立つ通路を抜け、『面会室』と書かれたプレートが貼られたドアの前でようやく足が止まった。士官がドアを開け、俺に入室するよう指示する。中は机が一つと椅子が二つあるだけだった。その一つに四十代と思しき高級士官が座っていた。机上には一冊のファイルが置いてある。

 俺は指示を受け椅子に座りながら室内を見渡した。天井にはカメラが設置されており、こちらの方を捉えている。壁一面に広がる大きな鏡はおそらくマジックミラーだ。裏側から何者かが監視しているのだろう。

 俺を連れてきた士官がドアを閉めて立ち去ると高級士官が机上のファイルを手に取りこちらに見えないよう開いてから話しかけてきた。

「初めまして。私はタサカと言います。まず私が幾つか質問しますので正直に答えてください」

 俺は、もちろん嘘をつくつもりはない。素直に「はい」と答える。

「よろしい。それではまず、あなたの官姓名を名乗ってください」

「はい。私は第七師団第二十六小隊所属アイダ二等陸士であります!」

 何度も口にした自分の官姓名を淀みなくはっきりと答えた。

「うむ。あなたは先の森林における敵兵殲滅作戦に参加しましたか?」

「はい」

「その時、あなたの小隊は他に何人いましたか?」

「四人です」

「その人たちの名前は分かりますか?」

「はい。キクチ、タチカワ、タナベそして隊長のマミヤです」

「あなたは戦闘中、負傷しましたが、誰にやられたか覚えていますか?」

「はい。私は同じ隊のタナベに胸を撃たれました」

「なぜ、タナベに撃たれたと判ったのですか? その時の状況はガスでしたよね。敵味方双方皆ガスマスクをしていたはずですから顔はマスクで覆われていて相手は識別できなかったのではないですか?」

「はい。確かに皆マスクをしていました。ですが至近距離でしたので私は倒れる間際に撃った相手のマスクを剥ぎ取ることができました。その時に相手がタナベだと分かったのです」

「なるほど。間違いありませんか?」

「はい。間違いありません!」

 俺は背筋を伸ばし力強く答えた。

「どうやら報告に偽りはないようですね」

 タサカはそう言うとファイルを閉じて、テーブルの上に置いた。

「さて、アイダ君。君にはこれから任期が満了するまで我々のお手伝いをしてもらいたいのです」

「はっ?」

「あなたにもタナベ君がやったように隊員の心臓を撃ってほしいのです。それも秘密裏にです」

 俺は訳が解らず動揺した。

「な、なんでそんな事をするのですか?」

「我々人類が子孫を残すためです」

「あのー、よく解りませんが……」

「そうでしょうね。それでは最初から話していきます。いいですか?」

「は、はい」

「我々男性のほとんどが心臓を二つ持って生まれてくるのは、もちろんご存知ですよね?」

「はい。それは小学校で習いました」

「実は心臓が二つとも機能していると男性は生殖行動を執らないのです」

「と言いますと?」

「あなたはかつて異性に興味を持ったことはありますか?」

「異性の同級生と交際したことはありますが、興味を持ったかと訊かれれば、違うと思います」

「ほう。ではなぜその子とお付き合いしたんですか?」

「付き合ってくれと言われたからです。特に断る理由もなかったので応じました」

「じゃあ、その交際はうまく行かなかったでしょう」

「はい。一ヶ月ほどで別れました」

「なるほど。では、あなたのお兄さんはどうでしたか? 確かアイダ君が兵役に就く前に任期を終えて退役されてますよね? 帰って来てから異性に興味を示すようなことはありませんでしたか?」

「ああ……そう言えば兄は退役してから、時折成人誌やそういった類の動画を見ていました」

 その時、いきなりノックが鳴った。タサカが入室を許可すると、先ほど俺をここまで連れてきた大柄な士官が紙コップに入ったコーヒーを二つ持ってきた。スティックシュガーと小さいカップ入りのミルクも幾つか一緒に机に置く。

 タサカが「サシダ君、ありがとう」と言うと士官は一礼してから退室して行った。それを聞いて俺は気付いた。この大柄な士官は訓練生時代、相部屋にいたサシダの兄だ。そういえば確かに顔が似ている。

「話が長くなるかもしれませんので飲み物を用意しました。どうぞアイダ君も頂いてください」

 タサカはそう言うと、スティックシュガーを七本もコーヒーに注いだ。どうやらかなりの甘党らしい。俺はミルクだけ入れる。それにしても、このタサカという男、階級が俺より遥か上なのに言葉遣いがやたら丁寧だ。しかも名前を君付けで呼ぶ。軍隊では珍しい人だ。

「さて、続きを始めましょう」

 俺も返事をして口を付けた紙コップを机の上に置いた。

「軍は戦闘技術を教える他に心臓の一つを機能停止させる目的があるのです」

「なぜですか?」

「心臓が二つとも機能していると男性は生殖行動を執らないと言いましたが、実はもう一つ問題があるんです。それは死に対して恐怖心が薄いと言う事です。人によっては全くない者もいます。でもそれは兵士として致命的なんですよ。死の恐怖がなければ、戦闘中、銃弾が飛び交う中平気で突っ込んで行ってやられてしまいますからね。それでは勝てる戦も勝てなくなります。下手をすれば部隊が全滅することだってあり得るんです。しかし心臓が一つになれば二つある時より死に対して恐怖を強く感じるようになるのです。アイダ君もこの先、その恐怖を実感する日が来るかもしれません」

 兵士に死の恐怖がなければ一見無敵の様にも思えるが、なるほど、タサカの言う事も頷ける。しかしそこで俺は別の疑問が生じた。

「でも心臓が一つになると後から何か問題が出たりすることってないんですか? 例えば二つあった場合より寿命が短くなるとか」

「その心配は無用です。もう一つの心臓が発達して、むしろ二つあった時より丈夫になり、寿命も延びることが医学的に証明されています。前者は百二十歳に対して、後者は百三十五歳です。心臓一つの方が十五年も長生き出来るんですよ」

「へー」

 俺は思わず感心してしまった。

「そんなに驚く事はありません。もともと人間は皆心臓を一つしか持っていなかったんですから」

「えっ! そうなんですか?」

「アイダ君、人類史は高校でやりましたよね」

 俺は勉強が嫌いと言うわけではなかったが、成績は学年で中の下と言ったところだった。人類史について質問されても答える自信がなく声が小さくなる。

「はい。一応、授業科目にはありましたけど……」

「なら、習っているはずです。我々人類が一万二千年前にこの星へ移住してきたことを」

 そんな程度の事なら当然知っている。簡単な内容だったので内心ほっとした。

「はい、知っています」

「この星はかつて我々が住んでいた地球という星より凡そ二倍の重力があったため、ご先祖様は自らの遺伝子を操作して心臓を二つ持つことにしました。それは全身に血を巡らせる為に必要な事だったのです。しかし、その副作用で男女とも生殖行動を著しく執らなくなってしまいました。そこでやむなく人工子宮を作り強制的に採取した精子と卵子を受精させ子供を作ってなんとか人口を維持したのです。ところが今から八千年前、最大の危機が訪れました。ご存知のように異星人が攻めて来て戦争が始まったからです。結果、多くの科学技術を失い文明が何世代も後退してしまいました。しかも人口出産技術ばかりか恒星間航行の技術まで失われた為、他の星へ逃げることも出来無くなったのです」

 その戦争は今でも小康状態だが続いている。俺達が徴兵されるのもこの戦争が終わっていないからだ。異星人は狡猾で我々と見分けがつかない兵士を送り込んで来る。しかし生物の一種であることに変わりはない。それ故、毒ガス兵器は奴らにも通用するのだ。

 俺が頷くとタサカは話を続けた。

「このままでは我々は滅亡してしまうと危惧されましたが、何故かその頃から男女の生殖行動による出生率が上がり始めたんです。調べてみると子供を持つ親のどちらか若しくは双方が戦地で実戦を経験しており、共通して負傷により心臓の一つを失ったか、または機能が停止しているという事が分かったんです。そこで我々は絶滅を逃れるため、積極的に心臓を一つ停止させることにしました。始めは生まれてすぐに手術で心臓の一つを摘出したそうですが、ほとんどが十八歳になる前に死んでしまいました。当たり前ですよね。ご先祖様は重力が強いから、わざわざ体を改造して心臓を二つにしたのですから。しかし体力の付いた十八歳以上なら、心臓一つでも大丈夫だと判ったのです」

「男性はそれで解ります。ですが、ほとんどの女性は現在、心臓を一つしか持たずに生まれてきますよね。それはどういうことですか?」

「はい。戦争が始まった頃は男女とも徴兵されていました。と言うのも人口があまりにも少なかったため女性も戦わなければいけない状況だったからです。当然女性も心臓を二つ持っていたのですが、何故かそのころから女性にばかり心臓を一つしか持たない者が生まれ始めたのです。私たちはそれを『先祖返り』と呼んでいます。学者たちは、何とか種を存続させようとDNAが反応して先祖返りが起こったのではないかと考えているようです。それから数千年が経った今では女性の九十九パーセントが心臓一つで生まれています」

「でもそれだと十八歳までに死んでしまうと先ほど言われましたが?」

「それは心臓が二つある者を手術した場合です。ですが最初から一つしか持っていない先祖返りは生まれつき心臓が大きくて頑丈なので大丈夫だったんですよ。実は、数は少ないのですが先祖返りは男性にもいます。しかし、それは男性の僅か一パーセントにすぎません。そういった人は自然に子供を残す貴重な存在ですから徴兵されないのです。ただ心臓を二つ持って生まれた者が一八歳以前に何らかの理由で片方の機能を失っても死なないで存命する者がいます。実はタナベ君もその一人でした」

「タナベが?」

「はい。アイダ君、生命危機体感訓練はやりましたよね?」

「はい、やりました」

「その時、何を?」

「バンジージャンプをやらされました」

「そこで飛ばなかった人はいませんでしたか? いや、むしろ飛べなかったと言うべきかもしれませんが」

「はい、いました」

「その人達は入隊検査前六ヶ月の間に一度心肺停止をしているはずです。実は心肺停止した時に蘇生のタイミングが遅れると第二心臓が壊死して機能不全を起こす事があるんですよ。ところがそれには数ヶ月掛るのです。しかも本人には自覚症状がありません。また、そういった人は技術的な問題で、身体検査に一定の割合で引っかからず、そのまま入隊してしまう者がいるのです。その為、軍では入隊してから半年以上置いて生命危機体感訓練をするのです。そしてその時に死への恐怖を感じて命令を実行できなかった者は再度検査をして、心臓が一つしか機能していないと判れば後方支援部隊に移動してもらうのです」

 それを聞いてあの時、橋から飛ばなかった奴がいた理由が解った。

「でもタナベは飛びましたよ」

「はい。心臓の一つが機能を停止し、死への恐怖を感じるようになっていても、上官の命令に従ってしまう者がいます。ですからそういった人を見逃さないために生命危機体感訓練の時、バイタル情報を計測する機器を体に取り付けます」

 そう言えば、バンジージャンプの時、体中に測定器を張り付けたのを覚えている。

「という事は、タナベもそのときのバイタル情報から、再検査をして引っかかったということですか?」

「そうです。調べてみたら彼は入隊の三か月前にプールで溺れて一度心肺停止を起こしていました。すぐに助けられ、息を吹き返したため正式な記録に残っていなかったようです」

「なるほど。では、何故タナベは後方支援部隊ではなく、この前線に配属されたんですか?」

「はい。言い方は悪いですが仲間の心臓を撃ち抜く『味方殺し』は、本来小隊長の任務です。ですが、やはり一人で四人の心臓を秘密裏に撃ち抜くのは簡単なことではないのです。そこで任務遂行の達成確率を上げるため補助してくれる人を我々は求めているのです」

「それでタナベは、今私が受けているのと同じ説明を聞いてその任務に就いているというわけですね」

「ええ。ですが誰でもというわけではありません。我々は適性があるかどうかを判断して声をかけています。タナベ君もそうでした。彼は些か無茶な命令でも従いますからね」

「でも自然に子供を残す男性がいるなら、タナベがやっている任務は必要ないんじゃないですか?」

「いいところに気が付きましたね。でもそれではダメなんですよ。男女が生まれる確率はほぼ一対一です。ですから男性が百人生まれれば同じ確率で女性も百人生まれてきます。それは解りますよね?」

「は、はい」

「そのうち自然生殖行動を執る人は、男性が一パーセント、女性は九十九パーセントです。実はこの比率に差があり過ぎるのが問題なのです。分かりやすくするため、仮に男性一人に女性九十九人がいるとしましょう。でも結婚する女性はその内のたった一人です。もちろん男性が離婚再婚を繰り返すと言う事があるかもしれませんが、それはあまり現実的ではないですよね。結局、残り九十八人の女性は子供を産む機会を失ってしまいます。一方、結婚した女性は生涯に何人子供を産むでしょうか。生物学的な見地から人間の女性が生涯に産める子供の数は最大で十五人位だそうです。つまり男女合わせて百人いても次の世代には十五人になってしまうという事になります」

「なるほど。何もしないとどんどん人口が減少していくという訳ですね」

「そうです」

「大体の事は解りました。ですがそれは極秘にしないといけないものなのですか?」

「ええ、この事が公になると兵役逃れの為、入隊前に故意に心肺停止を起こして心臓の一つを機能停止させる者が出てくるかもしれないからです。ですがそんなことを皆がして兵役に就かず戦う者がいなくなればどうなるか、賢明なアイダ君なら解りますよね」

「人類は敵に殲滅させられて滅亡する」

「そうです。さて、ここまでで何か質問はありますか?」

「あの、もし自分がその任務を断ったら、どうなるのですか?」

「アイダ君にはちゃんと拒否権が与えられています。任務に就かない場合は、後方支援部隊で満期まで働いてもらいます。もちろん、今聞いたことは他言無用でお願いしますよ。もしこの事を誰かに話したら、こちらもそれなりの措置を取らざる負えなくなります。逆にその任務をやっていただければ、退役時には別手当が付きますし、その後の進学や就職にも有利になりますよ。どうです?」

 なるほど。それなりに優遇はされると言う訳か。

「解りました。その任務、やります」

「よかったです。嫌な任務かもしれませんがよろしくお願いします」

 その後一か月間、『味方殺し』の訓練を受けた。その訓練で俺は森の中で行われた敵兵殲滅作戦の真実を知った。毒ガスだと思っていた白い靄は実は無害で視界を遮るために軍がわざと発生させたものだったのだ。隊長やタナベの着けていたガスマスクには種々のセンサーが取り付けられており、他の隊員の位置情報がゴーグルに表示されるようになっていた。それで的確に隊員の心臓を撃ち抜くことが出来たのだ。しかもガスマスクは顔を隠す効果もあるため、『味方殺し』の任務を遂行するのに好都合だったのだ。

 訓練が終わると俺は小隊を渡り歩き、退役までに計五人の心臓を打ち抜いた。

 兵役は訓練期間も入れて三年だが、その後、任期毎に二年ずつ更新が可能だ。続けて行けば、そのうち階級も上がり偉くなっていく。実際、高級士官達は皆『味方殺し』経験者だと言う。俺も上官に更新するよう勧められたが、やはり仲間を騙し続けるのは性に合わなかった。結局、退役して大学に進学する事にした。軍から推薦状を書いてもらい、そこそこ良い大学から合格通知をもらう事が出来た。これも辛い任務をこなしたおかげだ。

 退役する場合、任期最後の一か月間は忘却期間となる。戦闘時の記憶を強力な催眠術と薬物で思い出せないようにする為だ。表向きは戦闘時に受けた心的外傷後ストレス障害から兵士を守る為とされている。しかしそれだけではなく、軍で行っている『味方殺し』が外部に漏れるのを防ぐ目的もあるのだ。俺みたいに『味方殺し』をした者はもちろんのこと、他の誰かがそれを偶然目撃している恐れもあるからだと説明された。とはいえ、その効果は完全ではなく、個人差もあり、覚えている内容については箝口令が敷かれた。これは一生有効で情報の漏洩は刑罰の対象となる。しかも、その罪は非常に重く、終身刑で死ぬまで刑務所で暮らすことになるらしい。それを知った時、俺は父と兄が戦地での事を「覚えていない」と言っていた事を初めて理解できた。

 そして無事、忘却期間を終え、「すっかり忘れた」とは言い難いが、一生口にできない記憶を幾つか抱えながら、俺は再び自由の世界へと戻ってきた。

 

 三年ぶりに家族と会う。両親は俺を見て逞しくなったと喜んでくれた。二人とも少し白髪が増えたみたいだ。驚いたのは兄の変貌ぶりで、『引きこもり』を止め、大学生になっていた。二年前から通い始めたらしく、法律の勉強をしていると言っていた。普段は大学の寮にいるのだが今は春休みで帰って来ていた。

 夜中、俺は自室で兄と二人缶ビールを飲みながら、何故『ひきこもり』になったのか尋ねてみた。

「怖かったんだよ」

「怖かった?」

「そうだ。俺が退役して一週間ほどしてからかな、フラッシュバックがあったんだ」

 フラッシュバックについては忘却期間に教わって知っている。

「フラッシュバックって、記憶が急に戻って来るっていうあれか?」

「そうだ。俺がちょうど道路を渡っていた時だ、急に実戦任務の時の状況が頭の中に蘇ってきたんだよ。胸を撃たれ、気を失っていくあの時、俺は見たんだ。銃口を俺に向ける隊長の姿をな」

「おい兄貴、それって箝口令に引っかかるんじゃないのか?」

 俺は慌てて小声で兄を諌めた。

「解ってるよ、そんな事。だから誰にも言うなよ」

「ああ」

「そのフラッシュバックのせいで動けなくなってな。そこへ運悪く車がやって来て引かれそうになったんだよ。その時生まれて初めて死の恐怖って奴を実感したんだ。そうしたら、今度は怖くて怖くて外に出られなくなってしまったんだよ。また車に引かれそうになるんじゃないかと思ってな。そこで親父に相談したんだ」

「という事は親父もその話、知ってるのか?」

「ああ、もちろんだ。そうしたら親父、『時間が解決してくれるから取りあえずこれでも見ろ』って成人誌を一冊くれたんだ」

「なんでそんな物を?」

「俺もその時は全く意味が解らず理由を訊いてみたんだけど、教えてもらえなかったよ。『自分で気付け』って言われてな。もちろんそれだけじゃなくて自分でも時々頑張って外に出てリハビリをしていたんだ。まっ、おかげで今はこの通り普通に出歩けるようになったけどな」

「ふーん、そうだったんだ。それで何か気付けたのか?」

「ああ。だけどお前もそれは自分で気付いた方がいい」

 兄はそう言うと俺に成人誌を一冊渡してくれた。

 

 俺も大学の寮に入るため家を出た。しかし大学に通い始めて困ったことが起きた。周りに女性が居るからだ。もちろん居て当たり前なのだが、彼女たちを見て今まで自覚したことのない変な感情が芽生えた。とにかく気になるのだ。目の前を通ると視線で追ってしまう。高校時代も共学だったので女子は周りにたくさんいた。しかし、こんな気持ちになったことは一度も無かった。短い期間だったとはいえ、ウエノと付き合ったこともある。でもその時は、なんの興味も湧かず、むしろ億劫にさえ感じていたのにだ。ある時、こんなことがあった。俺がミニスカートを履いている女性に見とれているといつの間にか勃起してしまっていた。今までも目覚めた時にそうなっている事はあったが、それには尿意が伴っている。だから排尿すれば治まったのだが今回のそれには尿意がない。そんなことは初めてだった。しかもその時、道行く女子高生たちが何故か俺の膨らんだ股間を指さして笑ったんだ。俺はすごい羞恥心を覚えた。どうやら公共の場で勃起しているのは好ましいことではないらしい。以来、屋外で勃起しそうになると何でもいいから文字を読んで気を紛らわし、気持ちを落ち着かせるようになった。

 ある日、大学の掲示板を見て次の講義の確認をしていた時だ。一人の女性が肩にぶつかり、俺は持っていたテキストや筆記具を地面にばらまいてしまった。

 その女性は謝ると、しゃがんで落ちた物を拾い始めた。見下ろすと胸元が見え、急に心臓が高鳴りだす。下半身の変化を覚り、見られてはまずいと俺もすぐにしゃがんで飛び散った筆記具を拾い集めた。

「あれ? 君、もしかしてアイダ君じゃない?」

 突然その女性が話かけてきた。見ると二重の大きな目が俺を捕えている。まつ毛が長く、リップクリームを塗っているのか唇が際立って潤っていた。

「えっ、あ、あの君は……」

 俺は、その若い女性と話をして、急に息苦しくなった。緊張して言葉が詰まる。しかし、何故か嬉しく、頬の筋肉が緩み、締まりのない顔になっていく。

 拾い終わったノートとテキストを渡され、二人立ち上がった。

「やっぱりアイダ君だ」

 彼女は俺の事を知っているらしい。しかし俺にはこの女性が誰だか思い出せない。

「えーと、すいません。どなたですか?」

「まあ、覚えてないかもね。直接話した事は無いから。オカザキ君の事、覚えてる?」

「もちろん」

「あたし、そのオカザキ君の家の向かいに住んでいたヨモダです」

「もしかしてウエノの友達の?」

「そうよ。彼女がアイダ君に告白するとき、昇降口でちらっとだけど会ったじゃない」

 それからは、同じ高校出身で、しかも共通の知り合いがいると言う事で話が盛り上がった。

 異性と話をして、こんなに楽しい思いをしたのは初めてだった。別れ際、また会えないかと尋ねると、今は卒論と就職活動でとても忙しいと言う。

 結局、いつ会うという約束はしなかったが、その後も掲示板の前や、学食で彼女と話をする機会が何度かあった。

 日が経つにつれ、俺はいつしか彼女に不思議な感情を抱くようになっていった。

 いつも笑顔で、明るく健康的な彼女を見るとその体に触れてみたいという衝動に駆られる。寮に帰り一人でいるといつの間にか彼女の事を考えてしまう。この気持ちが何なのか解らず、戸惑い、切なくて胸を掻き毟りたくなる。こんな訳の解らない気持ちから逃れたいのに、どうしていいのか解らない。

 そこで俺は解決方法を見つけるためインターネットの質問コーナーに投稿してみた。

 後日、幾つか回答が寄せられていた。それによるとどうやら俺のこの気持ちが『恋』らしい。もちろん、その言葉は知っていた。しかし、思っていたものとはだいぶ違っていた。俺は単に『恋』は『好き』の延長線上にある上位語だとばかり思っていたのだ。例えば『カレーライスが好き』を強調するために『カレーライスに恋している』と表現するといった感じだ。まさかその感情の中に切なさともどかしさと苦しみまでを内包しているなんて思いもしなかった。でも、このままじゃ何も手につかない。勉強しようにも集中力が乱され、せっかくいい大学に入ったのに単位が取れなければ卒業もできなくなってしまう。この感情を押さえたくて何とかならないかと再び質問を重ねると、ある回答者から一つの方法として、『自慰』を勧められた。そうすれば気が晴れるらしい。もちろんそれがどういう行為かは知っていたが、今までそんな事をしたいと思った事は一度も無かった。俺は縋る思いで実行することにした。兄が自室でやっていたのを思い出す。その時確かパソコンの画面には女性の裸体が映し出されていたはずだ。俺は兄からもらった成人誌を一冊押入れにしまっていたのを思い出し、引っ張り出した。そしてページを捲っていく。

 写真が目に飛び込んできた途端、俺の体は燃えるように熱くなった。心臓が高鳴り出す。

 なんだ、これは! 女体とはこうも美しいものだったのか! なぜ俺はこのことに今まで気づかなかったんだ! 

 ベルトを解くと勃起した自分の性器を握りしめた。擦ると痒いような快感が次第に高まっていく。それが遂には背中から脳髄へと突き抜け、俺は果てた。

 確かにそれで気持ちはだいぶ落ちついた。しかし残念なことは、それが長続きしないということだ。むしろ悪化したのではないかとすら思える。なぜなら前よりもっと強くヨモダを思い出すようになってしまったからだ。

 このことを質問コーナーに報告すると、ある回答者が最終手段という名の方法を教えてくれた。

 それは『自分の気持ちを相手に伝える』事だった。

 俺は安堵した。たったそれだけの事でいいのか。きっと自慰の後みたいな一時的な解放ではないのだろう。これで俺は恋の苦しみから抜け出せる!

 それからは、告白するチャンスを窺った。ヨモダは学部が違うし、学年も俺より三年上の四回生で講義が一緒になることはない。今までは偶然、学内で会っていただけだ。最近は就職活動が忙しいらしく、大学にはあまり来ていないようだ。彼女を見かけない日々が続く。彼女に会いたいという気持ちがどんどん募っていく。それなのに会えない。辛い。

 告白すると決めてから一週間後、大学に向かって歩いていた俺は、今、正に道路を挟んだ向こう側の校門へ入って行こうとするヨモダの姿を見かけた。

 チャンスは今しかない!

 そう思った俺は、いつの間にか駆け出していた。しかし直ぐに右脇腹に衝撃を感じた。一瞬視線が自分の意思に反して彼女から空へ移る。そして視界が暗転した。

 

 目が覚めた俺は白い天井を見ていた。強い既視感を覚える。思い出せないが以前にも俺は病院のベッドの上で目覚めたことがあるようだ。

 医師の説明によると、どうやら俺は車に撥ねられたらしい。右の肋骨を数本折り、内臓にも損傷があるそうだ。右足も複雑骨折しているらしく、完治するのに半年は掛かると言われた。母がやって来て身の回りの世話をしてくれる。これではヨモダに告白するなんて到底無理だ。しばらく治療に専念しようと何とか気持ちを切り替えてから数日後、母が「あんたに面会人よ」と言って一人の女性を病室に連れてきた。母は気を利かせて二人きりにしてくれる。その女性はヨモダだった。

「アイダ君、大丈夫? 車に撥ねれた時はびっくりしたわ。ほんと、死んだかと思ったわよ」

 彼女が気さくに話しかけてくる。しかし、俺は思いがけず会えて、あまりの嬉しさに返事もしないで彼女を見上げていた。

「ん、どうしたの? あたしの顔に何か付いてる?」

「い、いや。好きだ」

「はっ?」

「俺、ヨモダの事が好きだ」

 俺は今を逃せば、次に告白するチャンスはまたずーと来ないと思い、焦っていた。突然の俺の告白にヨモダは驚いている。

「ずいぶん突然なのね。でもそれってどういう意味で好きなの?」

 『どういう意味』と尋ねられても、『恋してる』何て言葉使ったことがないからその時は思いつかず口に出せなかった。だから彼女に対してしたいことそのまま言った。

「抱きしめたい。キスしたい」

「ずいぶん大胆な事を言うのね。でも、アイダ君って女の子に興味ないと思ってた」

 確かに、高校時代は異性にまるっきり興味が無かった。でもそれは心臓が二つとも機能していたからだ。

「以前はそうだったかもしれない。でも今は違う。君が好きなんだ。こんな気持ち初めてで、もう、俺どうしていいか解らなくて……、いつも君の事ばかり考えてしまって……」

 俺はいつの間にか涙を流していた。彼女に触れたくて手を伸ばすも全身に激痛が走り、体を起こせない。

「頼む。ヨモダ、助けてくれ」

 そう言うと俺は気を失ってしまった。

 

 その後、彼女は病室に現れなかった。毎日毎日彼女の事を思い出す。会いたいと思う気持ちが嫌でも募っていく。なぜ来てくれない。俺はその理由を考えた。思い当たることは唯一つ、あの告白だ。きっとそうに違いない。俺は間違えてしまったのだ。あんな早急にしかも一方的に告白して、あろうことか「抱きしめたい。キスしたい」と言ってしまった。あの時俺は自分の事しか考えていなかった。冷静になって振り返ると恥ずかしくて顔が熱くなってくる。そんな俺を見てヨモダは気持ち悪い奴だと思ったのではないか。向こうが俺の事を好きでなければこれ以上関わりたくないと思うはずだ。だから最終手段だったのだ。告白は諸刃の剣。

そう考えたらどんどん絶望的な気持ちになっていった。それからは後悔ばかりする日々が続いた。夜になると時折、感情が高まって枕を涙で濡らすこともあった。

 三か月後、怪我が完治するにはまだ時間は掛かるが、コルセットを装着して松葉杖を使えば何とか歩けるようになったので退院が許された。

 退院の日、母と手続きを済ませ、病院のエントランスへと向かう。すると外に立っている一人の女性が見えた。

 ヨモダだ。

 何故、ここにいるのだろう。嫌われてしまったと思っていた俺は、これ以上彼女に関わっても迷惑を掛けるだけだと思い、顔を伏せ黙ってエントランスを出た。

「アイダ君!」

 俺は無言で立ち止まる。

「ほら、あんたの事、呼んでいるわよ」

 母が俺の背中を押す。

「行ってあげなさい。お母さんはタクシー呼んでくるから」

 母がタクシー乗り場へと向かって行く。

 俺は松葉杖を突き、右足を引きずりながら、ゆっくりとヨモダに近づいて行った。恥ずかしいのと嫌われてしまったという思いから顔を上げられず、下を向いたまま彼女の前で立ち尽くす。

「どうしたの? アイダ君、顔上げてよ」

「な、なんで、ここに?」

 俺は下を向いたまま言った。

「君を迎えに来たんじゃない」

「だって、あれから一度も来てくれなかっただろ。だから俺、嫌われたと思ったんだけど……」

「何言ってんのよ。君があの時、気を失ったから退院するまで顔を出すのを控えただけよ」

「えっ?」

 俺はそれを聞いて驚き、その真意を確かめたくて顔を上げた。

 そこにはまばゆいばかりの笑顔で俺を見上げるヨモダがいた。

「やっと顔上げてくれたね」

 再び見る彼女の笑顔に俺は、抱きしめたいという衝動に駆られた。しかし、いきなりそんな事をしたら、彼女は気を悪くするかもしれない。俺はその衝動を堪えたが、堪らず自分の気持ちを声に出してしまった。

「好きだ。ヨモダ」 

 彼女は一瞬目を開き驚いて見せたがすぐに真顔になった。

「それってどういう意味で好きなの?」

 俺はあの時言えなかった言葉を口にした。

「俺は君に恋している」

すると彼女は頬を緩め笑顔になった。

「うふ。あんな情熱的な告白されたから、あたしもアイダ君のこと好きになっちゃったみたい」

 そこへ母を乗せたタクシーがやって来て、目の前に停まった。ヨモダは車の妨げにならないように俺の前から横に移動する。すると俺の意識はタクシーの向こうにある道路へと移った。そこでは何台もの車が左右に行き駆っている。そういえば俺は車に引かれて大怪我をしたから入院していたのだ。でもあの時、一歩間違えれば死んでいたかもしれない。

『死』

 その言葉が脳裏に浮かんだ瞬間、目が眩み猛烈な恐怖心が襲ってきた。動悸が激しくなり、顔から血の気が失せ、体の力が抜けていく。よろめいた俺を見てヨモダがすかさず俺の体を支えてくれた。

「どうしたの?」

「こ、怖いんだ。車が」

 それを聞くとヨモダは俺の体に両腕を回し、抱きしめてくれた。彼女の温もりが伝わってくる。すると恐怖心がすーと消えて安心感に満たされていった。

「ありがとう。ヨモダ」

 俺はいつの間にか涙を流していた。

「これくらい、お安い御用よ。さあ、乗りましょう。あたしも一緒に付いて行ってあげる」

 ヨモダが手を伸ばし、その指で俺の涙を拭う。

 その後車中で彼女はずーと俺の手を握りしめてくれた。

 

 夏の昼下がり、俺は川辺の土手に座っていた。気温は高く日差しは強いが、そよ風が熱を奪ってくれるので心地いい。ここは高校時代、何度も来た場所で、そこからの景色は今も何も変わっていない。川面には時折魚が飛び跳ね、水飛沫が太陽光を反射して煌めかせている。

「なあ、アイダ。俺、あいつらが独り立ちするまでは絶対死ねないよ」

 隣にいるオカザキが唐突に言い出した。

「まさかお前があいつと結婚していたなんてな」

 俺たちの視線は川辺に立つ四人の人影に向けられていた。大人の女性が二人、笑顔で話している。その二人は旧知の仲で学生時代の事でも話しているのか、時折笑い声が聞こえてきた。臨月を迎えて大きなお腹を抱えているのは俺の妻だ。もう一人はエプロンをしていて、乳母車に手を添えている。その横では三歳位の女の子が川を覗き込んで何やら指をさしていた。

「ほんと、人間関係ってどうなるか分からないもんだな。徴兵に行ってた連中が退役して帰ってきた時、俺たちのクラスとヨモダたちのクラスが合同で同窓会を開いたんだよ。ほら、体育や家庭科の授業の時、一緒だったからさ。それで俺がヨモダと幼馴染でヨモダがウエノの友達という関係から紹介してもらったんだよ。それで付き合うようになって今に至るってわけさ。そういえば同窓会、お前来なかったな。久しぶりに会えると思って楽しみにしてたのによ。何でもその時お前入院してたんだって。みんな呆れてたぞ。ガキじゃないんだから、道路に飛び出すんじゃねえよ」

「うるせえ。その時はのっぴきならない状況だったんだよ」

「そうか、そうか。それでお前んとこ、いつ生まれるんだ?」

「来週の土曜日が予定日だって言ってたな」

「これでお前もとうとう父親になるってわけだ」

「なあ、父親って大変か?」

「大変だよ」

 オカザキはそう言いながらも笑顔のままだ。

「変なこと訊くけど、お前、高三の時、軍に入ればどうなるか知っていたのか?」

「そんなことを聞くってことはお前、軍にいた時の記憶結構残ってるんだろ」

「う、うん。まあ、ある程度はな」

「そうか……確かに知ってたよ。俺の伯父さん、軍のすごくえらい人だからな」

 するとオカザキは暫し沈黙した後、真剣な顔で俺の方を向いた。

「なあ、アイダ。お前、真実を知りたくないか?」

「知りたくないと言えば嘘になるけど、それってやばい話なんだろ」

「まあな。でもお前の子供が男の子だったら将来、兵役につかなければならなくなるだろ」

「そうだな」

「その時、戦闘で死ぬんじゃないかと不安にならないか?」

「確かに、自分の子供が死ぬのは嫌だ」

「だったら、俺の話を聞け。そして誰にも話さず一人で安心しろ」

「わ、わかった」

「実はな、戦争なんてとっくの昔に終わっているんだよ。そもそも戦う相手がいない」

「じゃあ、異星人は侵略をあきらめて帰って行ったのか?」

「いや、滅びたんだ」

「じゃあ、俺たちの勝利じゃないか」

「それが違うんだ」

「違う?」

「ああ。この星に最初に移住してきた人類も滅びたんだよ」

「何を言っている。そうしたら、俺たちは何者なんだ?」

「俺たちはな、ここに移住してきた人類と侵略しに来た異星人との間に生まれた混血種なんだよ」

「なんだって!」

「ばか、声が大きい」

「わ、悪い」

「遠い昔、地球を旅立って別の星に移住した人類はここに来た連中だけじゃない。他にもいるんだよ。知っての通りここに来た人類は環境に適応するため心臓を二つ持つことにした。そして侵略してきた奴らは別の星で心臓を大きくすることで環境に適応した連中だったのさ。ところが彼らの星は急激な環境変化があったらしく住めなくなったらしい。そこで同じような重力環境のこの星に移り住もうとやってきたんだ。侵略は簡単だった。先住人類は死を恐れないからまっすぐ突っ込んできてすぐやられてしまう。後は人口子宮を壊してしまえばそれで終わり。自然生殖をしないからほっといても自滅するからな。それで一時、侵略者が先住人類を支配する階級社会ができたんだ。ところが元は同じ地球から旅立った人類だから互いに生殖が可能でな、侵略者たちは自然生殖が一般的だったため、中には先住人類と結婚した者もいたようだ。それで混血が生まれたんだ。その混血には特徴があって、女は侵略者と同じ大きな心臓を一つ持って、男は先住人類と同じ心臓を二つ持って生まれてきたんだ。そういう時代がしばらく続いて先住人類が滅んでしまった後、大事件が起きたんだ。この星には一万年周期で訪れる疫病があったんだよ。先住人類はすでにそれを経験した子孫だったから免疫があったんだが侵略者たちは免疫がないからあっという間に全滅したそうだ。それで残ったのが先住人類の血を引いた混血者たちだけだったというわけさ。その時代、混血者たちも先住人類同様、差別され虐げられていたから高度な技術を学ぶ機会がなかったらしく、多くの科学技術が失われてしまったんだ」

「そうだったのか……。でもなんでその事実が今に伝わっていないんだよ」

「これは、俺の推測なんだが、きっと男たちがかっこつけたかったんじゃないのかな」

「どういうことだ?」

「だって男は女と違って心臓を二つ持って生まれてくるだろ。それは侵略された側の人類と同じ特徴だ。だからそれが嫌だったんじゃないの」

「それで歴史を改竄したってか。んーバカみたいな理由だけど、あながち本当かもな。俺も妻の前ではかっこよくしていたいからな」

「わかるよ。俺もそうだからな。さてと、じゃあ、そろそろ行くか」

 オカザキはそう言うと立ち上がり、「おーい」と川辺の四人に声を掛けて歩き出した。向こうも笑顔でこちらに手を振っている。俺が座ったままでいるとオカザキが振り返った。

「何してんだ? お前も来いよ」

「ああ、今行く」

 俺は立ち上がるとオカザキの後を追った。その時ちょうど橋を渡ろうとする集団が見えた。彼らはプラカードを掲げ拡声器で声を張り上げていた。昔からいるデモ集団で『軍は味方を殺している』とか『戦争はもう終わっている』等と叫んでいた。

 

 エピローグ

 

「オカザキ司令。退役者の記憶消去が終わりました。これにサインをお願いします」

 タサカが書類を机の上に差し出した。カイゼル髭を生やした男が鷹揚に受け取るとペンを走らせる。

「タサカ君」

「はい、何でしょう」

「新しい薬品が開発されたので次回からはそれで記憶消去することになるからよろしく頼むよ」

「はい、解りました。で、その効果はどんなものなのでしょう?」

「従来は記憶消去率が八十パーセント程度だったが新薬は九十パーセントを超えるそうだ」

「それは良かったです。箝口令は敷いていますが残念ながら中には退役後真実を世間に公表しようとする輩がいますからね」

「うむ。実は戦争などしてないと知れたら我々の存在意義が失われてしまうからな」

「はい。そうなってしまえば軍は解体され、私たちは職を失い路頭に迷ってしまいますよ」

「そうならないためにも記憶消去は抜かり無くしっかりやってくれたまえ」

「はい。重々承知しております」



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死んでみて解ったこと 渡辺宇太郎 @kyokity

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